道連れ

音崎 琳

道連れ

 助手席のうさぎは、車窓から鼻先をつきだして、長いひげを風にそよがせていた。

「雨のにおいがする」

 少年のような声だ。体格も人間の子どもくらいで、開け放した窓のへりに左手をかけている。辛うじて座席よりも前に出ている後ろ足は、車体が上下するのに合わせてぷらぷら揺れていた。毛皮は明るい小麦色で、腹と手足の先は白い。

「へえ?」

 応じたのは、運転席の青年。車体に比してタイヤの大きな車のハンドルを、慣れた手つきで握っている。

「良い天気に見えるけどね」

 入道雲でもあるならばいざ知らず、空は真っ青に晴れわたり、前方には雲一つない。窓から吹き込んでくる風に、青年の黒い髪と、着古してよれよれになったコートの襟がなぶられる。

 うさぎは垂れた耳をぴくりと動かしただけで、答えなかった。車内はまた、静かになる。

 しばらくの沈黙のあと、今度先に口を開いたのは青年だった。

「こんな話を知っているかい?」

 うさぎは右目だけで青年を見やった。

「あるところに、ひとりの老人がいた」

「おれはその話、あんまり興味がないね」

「まあまあ、そう言わず。黙っていたって退屈だろう?」

 車は、遅くもなく早くもないスピードで、草原のなかの一本道を走っている。今にも両側から草に飲み込まれしまいそうな、荒れた道だ。サスペンションの利いたこの車でも、なかなかに揺れる。

「老人は、ひとりで旅をしていた。杖をついて、一歩ずつ。探しているものがあったからだ」

「――ところが、ある日、谷川に道を阻まれた」

「おや、横取りかい?」

 青年はまっすぐ正面を向いたまま、楽しそうに応じた。うさぎはそれには答えず、話を続けた。

「老人は、そこに谷があるのも、谷底を川が流れているのも知っていた。だが、その谷には吊り橋が架かっているはずだった。だからその道を来たんだ」

「うん」

「それなのに、橋が、落ちていた」

「それは大変だ」

 ざああ、という音が、ふと鼓膜を打った。あたりが不意に暗くなる。うさぎはドアに付いているボタンを操作して、車の窓を閉めた。

「閉めたほうがいいぞ」

 青年は怪訝な顔になったが、おとなしく自分も、開けていた運転席の窓を閉めた。

 その瞬間、フロントガラスが視界を失った。

「うわ」

 青年は思わず、アクセルを踏む足を緩めた。ばたばたばたばた。車の屋根を叩く無数の音が響く。青年はワイパーを動かしたが、ほとんど用をなさなかった。

「雨が……後ろから追いついてきたのか」

「だから言っただろ」

 うさぎがひげをうごめかした。青年は、徐行になるまで車のスピードを落とした。

「よし、ひきかえそう」

「は?」

 うさぎの垂れ耳が跳ねた。青年はギアを操作しながらハンドルを切り、本当に車の向きを変えはじめる。

「この先、しばらく草原が続くだろう? だが、我々は森を抜けてきたばかりだ」

「そうだな」

 車はもと来た道をひきかえしていく。雨の向こうに、黒くうずくまる影のように見えているのが、つい数十分前に出た森だった。

「さっきの老人の話」

「うん?」

 耳だけでなくひげまで垂れてしまったうさぎの返事は投げやりだ。

「老人の渡ろうとした橋は、なぜ落ちていたのか」

「それは――」

 青年は、うさぎの言葉を遮って告げた。

「雷が落ちて、橋が燃えつきてしまったのさ」

「なるほどね」

 うさぎはため息をつく。

「お前の言いたいことはわかったが、森に入るよりも雨が止むほうが先かもしれないぞ」

「まあ、それはそれで構わないさ」

 青年はやはり楽しそうだった。

「森のなかに、脇に逸れていく道があっただろう。僕はそっちにも興味がある」

 うさぎは目を閉じて、賛成も反対もしなかった。その鼻と耳が、ぴくぴくと動いていた。

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道連れ 音崎 琳 @otosakilin

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