"Fall" in love 3

 オガワとのアレソレを終えたのち。

 時刻はもう六時を回って、冬枯れの空には既に闇が降りていた。オガワが眠りに落ちるまで頭を撫でて、名前を呼んでも返事がないのを確認してから、穏やかな寝息だけが満たす部屋をこっそりとあとにした。


「おじゃましました」


 リビングの戸を開けて、中で洗濯物を畳んでいたゆかりさんに声をかける。お父さんの方は、まだ帰ってきていないみたいだった。

 紅茶と柔軟剤の優しい香り。そしてヒーターの緩やかな熱が、リビングに半身突っ込むわたしをふわりと包む。

 液晶テレビでは夕方のニュースが流れていて、馴染みのある声のキャスターが大相撲の勝敗結果を淡々と解説していた。

 あんなことをした直後に誰かと顔を合わせるのは当然恥から忍びなく、すぐに出て行くつもりだった。


「もう帰るの? 泊まってくのかと思ったよ」

「や、明日も学校ですし。ゆっくりして、ほしいから」


 何を言ってんだと思った。

 ゆっくりしてほしい人間を襲ったりするなよ、バカか、と。


 今更且つ突然だけど、ゆかりさんはわたしたちが付き合っていることを知っている。別に大手を振って「付き合ってます!!!!」と口にしたわけじゃ無いが、なぜか、知っている。

 わたしはそれを、去年のクリスマスにお揃いのストールをプレゼントしてくれた時に知った。オガワはもっと前から知っていたらしいけど、教えてくれなかった。

 そしてそのことに対し、否定的な感情はないみたいだった。かといって肯定的かと言うとそうとも言えず、オガワに似てあまり気持ちが表に出てこない人なので、いまいち掴めないというか。強いて言葉にするなら、どちらでもないというのが適当なのだろうなと思う。

 あくまでそれは、わたしの印象にしか過ぎないのだけど。

 そんなゆかりさんが、顔だけ覗くわたしを見て「ちょっと待って」と声をかけた。


「なんですか?」

「少し、お喋りしない?」

「……おしゃべり」

「うん。二人で話せる機会、なかなかないし」


 まず初めに、わたしなんかと? と思う。

 機会がないといえば確かに、いつもなら必然的にオガワも含めた三人でって組み合わせになる。言ってる意味は理解できた。でも果たしてわたしと話すのは、楽しいんだろうか。

 疑問に思ったけど、それを素直に口にできるほど図太い神経は持ち合わせていないので、「迷惑じゃ無ければ」とだけ口にして受け入れて、後ろ手に戸を閉めた。


「紅茶、飲む?」

「あ、いただきます」


 鞄を抱くようにしてソファに座り、その上に畳んだストールを被せる。ゆかりさんと話すのに緊張なんかするわけが無いのだけど、何となく、ソファにゆったりと背中を預けられないでいる。落ち着かなくて、居心地は、悪い。意味も無く足先をクロスさせてみたり、指先を組んだり擦ったりする。


「甘くする?」

「えっと、ん、そのままで」

「はいよー」


 オガワのお家は対面式のキッチンだから、ゆかりさんの紅茶を淹れる様子がよく見えた。透明なガラスのポットにお湯を注ぐと、その中を茶葉が泳いでお湯が紅く染まる。綺麗だなぁって思ってそれを凝視していたら「そんなに見られたら、緊張しちゃうね」なんて笑った。少し遅れて、既に部屋に漂っていた紅茶の香りがより一層強まった。

 いつも思うけど、オガワのお家のキッチンは本当に綺麗だ。というか、家全体が綺麗。オガワはものが少ないだけだなんて言うけれど、それだけでお風呂やキッチンがずっと綺麗なまま保たれるはずない。


 ゆかりさんがこちらに戻ってくる間に、どんな話題を振られるのかなと考える。多分、ていうか間違いなく、オガワのことだろう。

 ゆかりじゃなくて、ナツメの方。わたしの、恋人の方だ。

 オガワがこんな風に誰かを引き留めてお喋りに興じたりすることなんかあるのかなと思い、考えてすぐ、ないだろうなという結論に落ち着いた。だからこそ、この状況がちょっと異質なものに思えてしまう。


「……なんか、意外です」

「なにが?」

「喋るの、好きじゃないと思ってました」

「よく言われる」


 時々オガワがそうするみたいに、緩く口角を上げて穏やかに笑う。相手によっては、冷たい嘲笑みたいに見えてしまうかもしれないなと思った。

 紅茶の良い匂いを纏ったゆかりさんが、カップを二つ携えて台所からわたしの座るソファまで移動する。

「はい、どうぞ」と言われて、持ち手にも仄かな熱を帯びたカップを受け取る。

 それから、テーブルを挟んだ向かいに置かれている肘置きのついた濃紺の一人掛けソファに、ゆかりさんが腰を下ろす。そんな何でも無いはずの所作なのに、溢れんばかりの知性を感じる。


「好ましい相手と話すのが嫌いな人なんて、そうそういないよ」


 カップの水面から上がる湯気に息を吹きかけながら、何気なく言う。

 ゆかりさんの放ったその言葉が、ひっかかる。少し回りくどい言い方を、あぁ、さっきの続きか。と遅れて理解して、なんだかこそばゆい気持ちになった。スカートの生地を指先で摘まんで、何かこう、わやわやとする。

 ちらとゆかりさんの方を窺うと、何でもなさそうに紅茶の味やら香りやらを堪能していた。目を閉じてカップに口をつけていたので、なんだかキスでもしているように見えた。よくないな、と自分の思考を恥じる。


「好ましい、ですか」

「うん」


 へぇ、と思い、どういうところがと聞きたくなる。

 だけどそれをひとつひとつ聞かされたら多分、わたしの身が持たない。他人からそういう気持ちを向けられることに、まだ慣れてない。

 日陰者を卒業(できたのか?)してから、日が浅い。一言一句重く受け止めてしまうし、疲れる。だから言葉が少ないオガワと一緒にいると落ち着くし、ここが自分の居場所だって思うのかもしれない。オガワと接することで気づいた、そんな自分の性。

 わかっているのだから、わざわざそうする必要は無いのだった。


「かわいいね」

「へ?」

「リコちゃん、かわいいなぁって」

「は、はぁ。それは、どうも?」

「目とか、口とか、顎の形とか。どこもかしこも、ちゃんとかわいい」

「そう、ですか」

「ナツのどこが好きなの?」

「んぐ」


 なんだか、話の前後に繋がりが見られない。

 いきなり振られた話題に狼狽するわたしを尻目にまた、すました顔で紅茶を口に含む。その真似をするように、息を吹きかけてからわたしもゆっくり口をつけた。そうして、恥ずかしい回答を先送りする。

 熱が舌と唇に迫り、その少し後に果物に似た爽やかな香りと味わいが広がる。しみじみと紅茶を飲んだことなんか無くて、あ、おいしいかも、と漠然とした感想を覚える。


「おいしい?」

「は、はい、おいしいです」

「それはよかった」

「……」

「銘柄、わかる?」

「い、いや、すみません、ちょっとわかんない、かな」

「だよね。あたしもよくわかんない」

「えぇ」

「知り合いが、喫茶店やっててね。そこでいっつも買わされんの。高いやつ」

「そうなんですか」

「で、どこが好きなの?」


 しかし、話題は逸らせない。

 奥歯の辺りから、暖かい唾が滲む。

 何か当たり障りのない部分を、と意識するとアレもダメこれもダメと、浮かぶ候補は全て脳内で却下してしまう。

 それもそのはずで、なにしろあんなことをした直後だ。

 まともに思考が働くわけが、無かった。無理、と打ち切る。


「……恥ずかしいです、さすがに」

「それは残念」


 そうこぼす顔。あまり、残念そうには見えなかった。

 オガワに似て、表情に起伏を感じにくい人だ。こっちの焦りなんて気にかけず淡々としている、そんな印象を抱いた。見た目も中身も、よく似た親子だ。

 穏やかな仕草に物腰、仄かに紅を溶かしたような艶のある黒髪、薄い唇と凜とした眼差し。

 細かい部分は違えど、容姿を象る部品に同じ型を流用しているような、そういうものを感じて。ああ、いいな、と思ってしまう。

 総じて、美人。

 この血統の顔のつくりを、わたしは本能的に好んでいるのかもしれなかった。

 あまりじろじろと見つめるのも忍びないから、熱い紅茶を口に含んで、その合間に時々目配せする。


 ……そういえば、ゆかりさんはどうやってわたしたちが付き合っていることを知ったんだろう。勿論わたしから言った覚えはないし、オガワがわざわざ聞かれてもいないことを話すとも思えない。


「ゆかりさん、どうして、その……付き合ってること、知ってるんですか」

「ナツの部屋に漫画取りに行くとき、電話聴いちゃったんだよ。きいたことない甘ぁ~い声で、色々言っててね」

「えぇ……」

「からかってやったら、数日口きいてくれなくなったわ」


 からからと笑って、それはいつ頃なんだろう、どのやりとりを聞かれたんだろう、とベッドに寝転がって電話越しに聞いたオガワの言葉を思い返す。……どれを聞かれても、恥ずかしいわって思った。


「まぁ、それが無くても、見てれば分かるよ。多分、誰でも」

「……そんなに、ですか」

「そんなにだねぇ。いちゃつき過ぎで、かわいいなぁって思うよ」


 呟いてから、摘まんでいたカップを一瞥してよっこらせとゆかりさんが立ちあがる。紅茶のおかわりを注ぎに行くのだろう。「おかわり、いる?」と聞かれて、手元を見る。

 わたしのカップには、まだ半分ほど残っていた。まだ湯気が沸き立つくらいには熱くて、随分飲むのが早いのだなと思いつつ。


「大丈夫です」

「そ」


 短く言ってから立ち上がり、フローリング床とスリッパのぶつかる軽い足音が少し遠ざかる。

 その姿は視界に収めないまま。半透明の赤い水面に目線を落として、考える。

 鏡みたいにそこに映る、わたしの縛った口と焦燥に歪む目尻。随分、酷い顔をしているなと思う。


「……あの、ゆかりさん」

「ん?」

「聞きたいことがあって」


 ゆかりさんの顔を見なくても良い今なら、それを聞けると思った。

 ぎゅ、と細いカップの持ち手に力が入る。ヒーターの稼働する音とお湯の沸く音が、部屋を静かに満たす。

 心の準備なんかしている余裕はないし、そんな大層なものが必要な話題でも無かった。


「え、なに、告白?」

「……胸中を打ち明けるって意味なら、それでもいいです」

「なんか、辞書みたい。いいよ、どうぞ」


 わかっているのに、背筋は緊張で強張る。

 震える指先と連動し、見つめる紅茶の表層に波紋が広がった。

 わたしの顔が揺らいで見えなくなる。


 オガワとの関係に、特別な名前をつける前。

 これは、たくさん悩んだことだった。

 今だって、ふとしたときに、悩むことだった。

 きっと、これからずっと、悩み続けることだろう。

 そんな予感がある。


「その…………オガワの……娘の恋人が、男の子じゃなくって」


 幼い頭じゃ、いくら考えたってその答えはわからない。

 答えなんて無いのかもしれない。

 ざわつく心を示すように俯き、震えた声で。


「…………何か、思うこととか、無いのかな、て」


 自信が剥がれて先細りするように、どんどん言葉が弱くなる。

 暖められた室温がもたらすものとは違う出所の汗が、背中に滲んで服に気持ち悪くくっつく。

 なぜここまでひどく焦っているのか、そもそもこれは焦りなのか。それすらもわからない状態で、ゆかりさんの返事を待つ。

 待ちながら、きちんと質問は口にできたかなと一言一句反芻していると。


「ないねえ」


 聞こえてきたのは、軽くて薄い声だった。

 ぎくしゃくするわたしと対照的に、ゆかりさんの態度は冷静だった。俯いていた視線を元に戻すと、ゆかりさんは既に台所を離れてソファに戻ってきていた。先程までと変わらず、冷えた表情だった。


「そりゃ、驚きはしたよ。でも、そんくらい。……それに、あたしもね、」


 出かかった言葉を飲み込んで、隠すように目を伏せる。

 古い記憶でもなぞるような、輪郭を捉えさせない曖昧な言葉と態度だった。

 多くを語らず、はっきりとしない。

 わたしはそれを見逃さなかったし、聞き逃さなかった。何を意味するのか、紅茶が冷めるよりもずっと早く理解する。だから、追及はしなかった。それが勘違いだろうという懸念は、微塵もなかった。確信があった。


 何を好きになるのか。

 判断の根底となるものの見方、謂わば、価値観のようなものとでも言おうか。

 一般的なそれと少しだけ異なるものを、この親子とわたしは、抱えていて。

 現状を見るに、それを諦めた過去があるのだと推察する。

 負い目を感じて、良くないことを聞いてしまったかもしれないと悔やむ。


「……ナツは一人が好きな子なんだって、よーく、わかっててもさ」


 息継ぎでもするみたいに、紅茶をこく、と一口飲み込んでから。

 視線を斜め上に向けて、半分自分に言い聞かせるような口調で、言葉を紡ぐ。

 目線の先に見ているのは、幼いオガワの姿か。

 それとも、違う何かか。

 わたしには、与り知らないことだった。

 そうして、やがて。


「友達のいない娘が心配じゃない親なんて、どこにもいないと思うよ」


 抑揚の無い落ち着いた声色なのは、いつもと変わらない。だけどその一言には、普段と異なる厚みがあり。

 どこかもの悲しげで、一縷の寂しさに似た感情を孕むような。この場にそぐわぬ表現ではあるけど、ゆかりさん、こんな顔もできるんだ、と思った。


 友達のいない娘。

 聞いて脳裏に思い浮かべたのは、かつての自分の姿だった。


「そんな娘に、好きな相手ができて。しかも、お互い好き合ってるなんて、すっごい素敵じゃん。そんなん、嬉しいに決まってるよね」


 今度は憂いが晴れて、明るい表情に変わる。

 穏やかに微笑みながら、テーブルにカップを置いて。


「誰が何を言ったって気にするななんて、無責任なことは言えないけど。今、ナツが毎日楽しく過ごしてるのは、他ならないリコちゃんのおかげだよ。そのことに、少なくともあたしは、すごく感謝してる。胸を張っていいとも思う」


 諭すような優しいゆかりさんの言葉。

 薄い憂愁の雲が晴れていくような、そんな錯覚をする。

 わたしだって、同じだ。オガワがいたから。オガワに出会えたから。

 わたしは、変わりたいって思った。生まれてはじめて、自分じゃない誰かの隣にいたいと心の底から願った。ずっと俯いて上げることのできなかった顔で、ずっとフードで隠していた両の目で、今一度、上を向こうと思えた。

 今のわたしを作り上げたのは。今のわたしに幸福をもたらしているのは。

 他ならない、オガワだった。


「後ろめたさなんて、これっぽっちも感じる必要ないよ」


 普段の振る舞いやオガワの言葉からは想像すらできないような慈悲深い思いやりを見て、その印象の差に、驚きを隠せない。


「……てっきり、無関心なのかと、」


 思ったことがそのまま口から出て、言い切ってから、失言だったと気付く。

 慌てて撤回しようとするが、無意味だった。


「す、すみません、失礼なこと」

「あはは。いいよいいよ。そういうとこ、可愛いよね」

「えぇ」


 可愛いだろうか、欠点としか思えない。オガワにもアサハラたちにも、わかりやすい、ってよく言われる。わたしはいつも、それがあまり面白くなくて。そうやって言われてしまうと、判断に困ってしまう。


「まぁ、なんだ。こんなんでも、いいお母さんやってるつもりなんだ。あたしなりにね」


 誰がどう見ても、立派な母親じゃないかと思った。わたしの両親も、こんな風にわたしのことを想ってくれているのかなと図らずも想像して、いやいやいや、と恥ずかしくなる。

 親のことは嫌いじゃないし、それなりに尊敬もしてる。大事にされてる自覚もある。だけどそれとこれとはまた、別のお話だ。


「でも、中身はまだ悪ガキでさ。だからたまに、こういうこともしたくなる」


 一人で無意味に恥ずかしがっていると、向かいでゆかりさんが意地悪そうに何か言った。聞こえていてもその意味がすぐに理解できず、考えると。

 さっき紅茶を注ぎ足しに行ったのと同じように、ゆかりさんがソファから腰を持ち上げる。カップはテーブルに置きっぱなしで、一体どうしたのだろうと考えている間に、テーブルをぐるりと回る。そして、なぜかわたしの隣に座ってきた。

 困惑していると「鞄、邪魔でしょ」と膝の上に置いた鞄とストールをひょいと奪われる。

 ぽいっとそれを投げるように背面に置き、今度は隙間を埋めるようにぐっと身を寄せてくる。肩を組むように腕を回してきて、ゆかりさんの整った顔が、まさに目と鼻の先にあった。下ろした前髪の下にある目が、まっすぐにわたしを捉えていた。

 あわあわとする暇すらなく、身体が固まる。


「……えっと、その」

「近くで見ても、やっぱりかわいい」

「えぁ」

「浮気になっちゃうのかな、これ」


 囁くような静かな声で言う。ぞわ、と耳がのたうつような感覚。

 容姿を褒められるのに慣れなくて、頬が熱くなる。オガワといるときに感じるそれと、似たような気持ちだった。

 腰が当たるほどに密着していた。すこし右側に顔を傾けるだけで目が合う状態で、気恥ずかしさから俯く。ゆかりさんの方を見ないようにしていると、ふいに、手と手が触れあった。

 膝に置いていたわたしの右手に、ゆかりさんが手を重ねてきていた。

 鳥肌に似た痺れみたいなものが、腕から全身に行き渡った。血管が浮き出るようだった。

 緊張しているのを悟られるのが恥ずかしくて、また熱は増していく。

 完全に、ゆかりさんに遊ばれていた。


「ナツには、内緒ね」


 意地悪く呟く。は、はい、と覚束ない返事を聞いてから、「あたしも旦那に黙っとかないとな」とおどけた。


「指、細いよね」

「ゆかりさんも、です」

「あたしのは、骨張ってるだけ。リコちゃんのは、女の子って感じの手だ」

「そうですか……ありがとう、ございます」

「学生のとき、好きだった先輩がいてさ」


 脈絡なく、独白みたいに話し出す。思い出をなぞるように、憧憬を帯びた声色で。

 こんな状況で言うのだから、とわかってはいても、聞かずにはいられない。


「…………女の子、ですか」

「想像に任せます」


 問いに対し、否定も肯定もしない。

 斜に構えたように、にやりと笑うだけだった。


「……その人、意地悪でね。結局、付き合ったりとかはしなかったけど、今でもたまに夢に見るくらいには、覚えてる。後悔……いんや、執着、っていうのかな。結婚して子供産んでも、考えちゃうんだよね。どうしても」


 当時のゆかりさんも、こんな風にその相手と手を繋いだりしたのかな、今も付き合いはあるのかなって考えて、あったとしたらこんな顔はしないだろうなと連想する。

 密かに覗く、その横顔。もとより年齢を感じさせない肌や髪質だったのが、より一層若々しく見える。というか、幼い? さして意味は変わらないけど、可愛らしい感じがある。

 それとは相反するように、声色はくぐもる。執着や後悔と表現した通り、思い人との記憶に輝かしいものは感じていないように見えた。なのに忘れられないことが、余計に息苦しいのだろう。身に覚えがあるわけじゃ無いが、そのくらいは察せた。


 わたしの手のひらや指の感触を確かめでもするみたいに、強く握ったり力を緩めたり、握り直したりとする。

 その動作は手を繋いだときのオガワとよく似ていて、こんなところでもやはり親子なのだなと実感した。


「思い出に、恋してるの。ずっとずっと、長い間」


 詩的な言葉には確かな重みがあり、こうはなるなよというメッセージが聞こえてくるようで。過ぎた時間をひとつひとつ丁寧に拾い上げるような、そんな話し口だった。


「だから、まあ、なんだろう。後悔の無いように、ってのもまぁ、難しいだろうけど……楽しかったなって、振り返って思ってほしいっていうか」


 しかし、結論は濁すように曖昧だった。

 結局言いたかったことはなんなのだろうと、ゆかりさんの言った言葉を思い出しながら整理していると。


「……好きって、たくさん言ってあげて。ナツに」


 にこ、と微笑む。若干の幼さが滲むような笑みに、心臓が跳ねる。いよいよ本格的に浮気と非難されても言い訳できないなと自嘲したところで、ゆかりさんの表情が少し変わる。

 目線を逸らして、あー、と言葉に悩みながら、後頭部を掻いて。


「押しつけがましいな。なに言ってんだろ。ごめん、忘れて」


 照れている、と一目で分かる素振りだった。


「恥ずかしがったり、するんですね」

「人並みにはね。こんな歯が浮くような台詞、照れますよ、そりゃ」


 美人だ。

 そして同時に、かわいい人でもあるのだなと。

 そんな感想を抱きつつ、先ほどの言葉に対して思ったことを、ぶつける。


「忘れません」


 オガワと過ごしていくことで後悔をしないとは、言い切れない。何が正解で不正解でなんてこと、まだ子供なわたしにはわからないし、わかろうとも思わない。年齢を重ねてその答えが出るかどうかも、知らない。どうでもいい、そんなこと。


 だからわたしは、今を楽しむ。オガワと過ごす穏やかな時間、心地いい時間、満たされる時間。

 これから生まれるであろう後悔も、何もかもをひっくるめて、受け入れようと誓う。

 

 わたしは願い、求める。

 歪な望みは、どこまで叶うだろう。

 許されるのならば、一生を。

 オガワと一緒に、生きていきたいと。

 好きでいたいと、思うから。

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オガワの日記 谷野 真大郎 @Nanashinonanahushi

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