マンションのベランダから見た話

夢月七海

マンションのベランダから見た話


 俺が暮らすマンションの裏側、ベランダから見下ろす路地を、一人の女が右から左へと歩いていた。

 コツ、コツと、夜空に吸い込ませるように、黒いヒールの足音を響かせながら歩くその女は、塀が途切れて十字路に合流する地点で、なぜかUターンをして、今度は左から右へと同じように歩き始めた。


 この女の行動に気が付いたのは、十二月一日九時、いつものようにベランダで煙草を吸っている時だった。妙な動きをする女だと、そのつむじを見下ろしながら思う。この角度からだと、顔は分からない。

 マンションの路地を挟んだ向かいは、三軒の家が並んでいたが、全て入り口は反対側についていた。元々人通りが少なく、それほど広くない道であるため、こうして歩いている人がいるのも珍しい。


 そんなことを考えている間に、女は路地の右端まで行き、またしてもUターン。

 これを何回繰り返すのだろうかと気になったが、このタイミングで一本吸い終わったので、ベランダから室内に戻ることにした。


 翌日。同じ時間にベランダへ出た瞬間に、コツ、コツとヒールの音が聞こえてきた。

 ベランダの手すりの方へ寄って、昨日と同じ路地を眺める。黒いヒールの女が、昨日と同じように歩いていた。


 女が、中々の短さのスカートを翻して行う一度目のUターンを見ながら、煙草をゆっくりと吸う。

 なぜああしているのだろうかという興味が強くなっていた。さすがに、話しかけてみようという勇気はなかったが。


 それから毎日、同じ時刻に女はその路地を何度もUターンしながら歩いていた。

 観察して分かったことは、女の服装から受ける印象は毎日異なるということ、髪の色や長さが微妙に変わっている気がすること、しかし黒いヒールは一切変わらないことぐらいだ。


 そういえば、ヒールの足音ってこんなによく聞こえてくるものだったけと、煙を吐きながら思う。

 この部屋は三階だから、そこに届くほどの大きさなのは確かだ。苦情が出ないのが不思議に思える。女の歩き方に癖があるのかもしれない。


 そうしているうちに迎えた十二月最初の日曜日、俺の左隣の部屋に新しい住人が引っ越してきた。

 翌日、ゴミ捨てに行こうと部屋を出たときに、その隣人と顔を見合わせた。三十代前半くらいのサラリーマンのようで、ギリギリ派手にならない色味のスーツを着こなしている。


「初めまして。××と言います」


 そいつは爽やかにそういって、ごく自然な様子で握手を求められた。

 俺は引き笑いで「はあ」と頷いて、とりあえずゴミを持っていない方の手で彼の手を握った。


 第一印象は、モテそうな奴という隣人だったが、実際にモテているようだ。

 引っ越してきてからの十日ほどで、別々の日に三人の女性を家に連れ込んでいるのを目撃した。その女性との密着度を見るに、単純に友達とか身内とかいう関係ではないだろう。


 ああいう生活をしていたら、色々と困ることはないだろうなと、今夜も煙草を吸いながら、もはや日常の一部となっているヒールのコツコツという音を聞きながら考える。

 この日の女の格好は、グレーが基調のオフィスカジュアルだった。


 右から左へと歩いていく女の背中を眺めながら、空き缶を切って針金で手すりに括り付けた手製の灰皿に、小さくなった煙草を落とした。

 そのまま室内に引き返そうとした時に、女に近付いてくる影があり、俺はおっと身を乗り出した。


 そのスーツに見覚えがあった。隣人だ。

 彼は、女に話しかけたらしい。女が立ち止まり、振り返る。


 二人は何か話しているような間があった。もちろん、ここまで声は聞こえないが。

 この時から、俺は何か強烈な違和感を抱いた。女が足を止めたことで、規則正しいヒールの音が止んだことに妙な心地がするのだろうが、それだけではない気もする。


 少し考えて、それに気付いた。

 あの女が歩いている間、路地には誰も通りかからなかった。


「うわああああああああ!」


 眼下で、男の悲鳴が響き渡った。隣人の声だと、一瞬分からなかった。

 隣人は、踵を返して、手足を無茶苦茶に振り回しながら、走り出す。一歩でも遠くに、女から離れたいように見えた。


 だが、女は隣人を追いかけた。彼の方へと、両手を前に出すという酷く不格好なフォームで。

 途中、黒いヒールの片方が折れて、女は転びかけたが、それでも持ち直し、さらに走る。


 最も右端、路地が途切れる直前で、女は隣人の腰に抱きついた。折れていない方のヒールが、足から脱げ落ちた。

 隣人は身をよじらせて逃れようとするが、女は離れない。そのままの格好で、二人はうつ伏せに倒れた。


 隣人は、這いつくばってでも進む。アスファルトに爪を立てて、崖を登るかのように。

 その内、隣人の腰までが路地の外側へと出て行ったとき、やっと女の腕もずるずると下ろされていく。


 足の爪先がやっと女から逃れて、隣人はふらつきながらも立ち上がり、マンションの方向へと曲がった。

 駆けていくその背中を見ながら、女も立ち上がる。


「アハハハハハッ!」


 女の高笑いが夜の住宅街に木霊する中で、俺の脳はやっとこれが異様な光景だと理解したようだった。

 棒立ちの状態から解放された俺は、すぐさまベランダから戻り、部屋の外へ出た。丁度その時、隣人が階段を登り切ったところだった。


「おい、大丈夫か?」


 話しかけてみるが、隣人は返事どころか一瞥もせずに、自分の部屋のドアに飛びついた。そのままノブを回すが、もちろん鍵がかかっている。


「今のはヤバいだろ。警察に通報した方がいいんじゃないか?」


 俺はなおも声をかけるが、それも黙殺して、隣人は酷く無駄の多い動きで鞄から鍵を探り、取り出した。

 しかし、今度は中々鍵穴に刺さらない。鍵が滑る金属音と、ガチガチという隣人が歯を鳴らす音が重なっている。


「あの女は知り合いか?」


 俺がその疑問を発したのと、刺さった鍵が回転したのは同時だった。

 ……ピタリと、凍り付いたように、男の動きが止まった。


「分からない」


 蚊の鳴くような声で、隣人はそれだけを言い残し、部屋の中に入っていった。ガチャンと、乱暴に鍵がかかる音がした。

 俺は隣人と入れ替わるように、マンションを出た。裏の路地に行ったが、女の姿はなかった。


 その夜以来、女の姿を見ていない。

 隣人の方も、外出している気配すらなかった。俺も四六時中家にいるわけではないので断言できないが、仕事へ行っている様子もない。


 年越しを待たずに、隣人は引っ越していった。

 夜の九時、俺はいつものようにベランダへ出る。路地には普通に通行人が歩いていた。





















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マンションのベランダから見た話 夢月七海 @yumetuki-773

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