青葉眩しき山神さまの二葉葵
ながる
第1話
静かだった。
誰も何も喋らずに、せかせかと足を動かしては息を乱す。
狭い輿の中には一応座布団のような物が敷かれていたけれど、雑な揺れから来る衝撃を緩和してくれるものではなかった。
いくつかの小さな穴から差し込む外の光に、埃がちらちらと遊んでいるのが見える。
膝を抱える体勢で座ったまま、流れる汗を拭うのさえ億劫で、わたし――今日から『ぼく』だ――は暑さで朦朧としていた。
――はやくつかないかな
揺れに抗うのは早々に諦めたので、肩やお尻は悲鳴を上げている。酷い時には上部に頭をぶつけていた。
溜息が漏れかけて、いけないと飲み込む。
自分で選んだのだ。最後まできちんと務め上げないと。
そうしないと、きっと次は弟が。
真っ白な着物の裾を指でつまむ。
ぼくには少し短い。でも誰も気づかなかった。
――あるいは、気付いていたけれど、どっちでもよかったのかも
ゆっくりと目を閉じたとき、静けさを破って何かが叫び声を上げた。全員がびくりと肩を跳ね上げ、それは輿にも伝わった。
続けてバサバサと羽音を立てて何かが飛び上がる。小さな悲鳴を口々に登らせて、男達は不意に輿を投げ出した。
急な浮遊感に焦れども、自由のきく空間など無い。
身体を強張らせて、落ちるに身を任せるしかなかった。
「……いたいっ!!」
しこたまに打ったお尻を何とか楽にしようと、右に左に身体を捻る。目尻に涙が浮かんできたが、血が流れたり、骨が折れたりというようなことはないようだ。輿が倒れて頭をぶつけたりしなかっただけ、運が良かったと思うことにした。
ようやく痛みが引いて唸り声を出さなくてよくなると、先程までより、よほど深い静けさが襲ってきた。
人の気配もない。息づかいも聞こえない。風もないのか、葉擦れの音もしない。
蒸し暑く、薄暗く、輿とは名ばかりの小さな木箱の中で、膝を抱く手に力がこもる。
暑いのに、ぶるりと身体が震えた。
――こわくない。こわくない。山神さまが迎えに来てくれる……
『山神さま』がどんなものか、実のところ誰も知らなかった。
日照りが続き、山から流れてくる川が細って川底が見え始めた時、村の大人達が話し合いの末に思い出したのだ。
「わしのひいひい爺さんの代までは、山神さまに使いを出しておった。たしか、子供を」
村の年寄りのそんな一言から、あれよあれよという間にぼくたち
両親を亡くし、二人で何とか暮らしてはいたが、手伝いに出る畑がひび割れて、手伝いさえも断られるたびに肩身は狭くなっていく。
「お使いを頼まれてくれんか」
だから、
村長の膝には包みが乗っていた。中には米と野菜。頼みを聞けば、それをくれるに違いない。ここ数日碌なものを口にしていなかったので、どんな頼みでも頷かずにはいられなかった。
「途中まで送って行くが、山道だ。女よりは男の方がいいかもしれん。夜が明ける前に出発するから、これを着て出ておいで」
村長の聞いたこともないような猫なで声に、弟はわたしにしがみついていたけれど、嫌だと声を上げることはしなかった。
残されたのは、ひとり分の死に装束のような真っ白な着物と足袋。そして望んだ食べ物だった。
村長はひ弱な弟の方を行かせたかったようだが、わたしは弟をぎゅっと抱きしめる。同い年なのに、わたしより小さく白いその身体を。
「大丈夫。ねえちゃんが行くから。アオバは栄養とって、みんなのお手伝いを頑張って」
それから、野菜の入った粥を作り、弟と一緒に食べた。幸せなひとときが終わると、両親の形見の小刀を取り出して髪を削ぐ。弟と同じくらいまで。暗がりなら、きっと気付かれない。
しがみつき、すすり泣いて離れようとしない弟がようやく眠りについてから、身なりを整えた。
人の気配に外に出ると、ほっかむりをした四人の男衆が俯き加減で立っていた。誰とも目線を合わせないようバラバラの方向を向いて、そわそわと身体を揺らしている。
傍まで行くと、「準備はいいか」と囁くように尋ねられた。
頷くやいなや、抱き上げられて小さな箱へと入れられる。膝を抱えるようにして座ると、それで箱はもういっぱいだった。
「輿を下ろしたら、山神さまが迎えを寄越すはずだ。お前はその迎えか、山神さまに、日照りや川の水を何とかしてくれるよう頼んでおくれ。上に少しだが供物も用意しておく」
うえ? といぶかしむ間に、箱の蓋が閉じられた。ドサ、と何かが乗せられ、ぎりぎりと縄を引く音がする。
薄々解ってはいたけれど、神様へのお使いということは、生きたままでは会えないのだ。
そっと手を伸ばして蓋に触れてみる。もうそれはびくともしなかった。
「家族をよろしくお願いします」
さすがに声が震えるのを止めることは出来なかった。
ややしばらくもしてから、ようやく低い呻きのような
※ ※ ※
バサバサと大きな羽音と共に何かが輿の上に降り立って、ぼくは意識を取り戻す。眠っていたのか、気を失っていたのか、ともかく
そうだ。すがれるものなど、カケラもない方がいい。
鳥はギャアと鳴いて、箱の上に括りつけられた物を確かめるように動き回っていた。すぐに羽音が増え、何羽かでぎゃあぎゃあと鳴き合い、爪が箱を擦るカシカシいう音が頭のすぐ傍で聞こえる。
箱に入っている限り鳥につつかれることはないだろう。ないだろうが……鳥ではないものも来るのではないかと、恐れる心が溢れるのはどうしようもなかった。
必死で声を殺して膝にしがみつく。
一羽が飛び立つ気配がしたが、残りは居残るようだ。まだ仲間を呼びに行くのだろうか。暑さでエサが少ないのは山でも同じなのかもしれない。
程無くして、今度は草を揺らす音がした。
葉や枝を踏みしめて地を歩くもの。鳥よりはるかに大きな気配。
どんなにきつく膝を抱いても、震えは大きくなるばかり。奥歯を噛みしめているつもりなのに、カチカチと歯の根が合わなかった。
もうだめだ。箱ごとひっくり返され、供物の次に引きずり出されて、山神さまの迎えにも山神さまにも会えないうちにわたしは――
「……やれやれ。中途で放り出すとは……どこまで本気だったのか分からんな」
どこかのんびりと間延びした声に、それがきちんと言葉だったことに、わたしは驚いた。
村の誰かが戻って来てくれたんだろうか。それとも、この辺りに住む人?
ああ、もしかして。
もしかして……
がたがたと蓋が揺れ、「こら、邪魔するな!」なんてやりとりを耳に、それが持ち上がっていくのを見上げる。色のついた景色がゆっくりと広がっていった。
新鮮な空気を纏って覗き込んだのは、記憶にある父さんよりも、もう少し年のいった男の人だった。
あまりにも普通の光景に、実は山を越えてしまって隣村にでも着いてしまったのではと思ってしまう。
「ほほぅ? 坊主、どこから来た?」
呆れ顔で、その男の人は手を伸ばしてきた。
怪しい術にでもかかったかのように、わたしは動けなかった。村の人達より色素の薄い瞳に囚われてしまう。
伸びてきた指が優しく目元をぬぐい、泣いていたのだとようやく気付いて羞恥で顔に血が上る。
立ち上がろうとして、膝に力が入らず、ガタガタと箱を揺らすにとどまった。
「わ――ぼく、は! 山神さまへ、ことづてを……」
「……ふむ」
笑いをこらえるような顔をした後、男の人は少し首を傾げた。
「一応、本気のつもりだったのか。さて、どうしようか」
どうしようかと言いながら、男の人は少しごつごつとした手をぼくの脇へと刺し入れ、軽々と抱き上げた。
一気に視点が高くなり、山の中で、ぼうぼうと生えた草の中に輿が落ちているのを見下ろす。カラスが何羽か遠巻きにこちらを見ていて、そんな中でも男の人の着物は白く、汚れもない。紫色の袴も、日焼けや荒れとは無縁の肌も、乱れなく後ろでひとつに纏められた髪も、ちいとも『普通』なんかじゃなかった。
抱えられ、歩き出す彼に微かな不安を感じる。
「ど、ど、どこ……」
「こんな場所では茶も飲めん。熊や猪と話したいのなら、置いていくが」
反射的にぶんぶんと首を振ると、彼は目を細めて微笑んだ。
鬱蒼と茂る木々に、どこでなら茶が飲めるのだろうという疑問を飲み込む。飲み込んで、改めて初めに思ったことを口にした。
「あなたが、山神さまのお迎え……?」
「さあ、どうだろうなぁ」
お迎えの人でなければ、人攫いや山賊の可能性もないわけではない。
そうだ。こんな山奥に、都にいるようなきちんとした格好の人がいる訳がない。
どちらを見ても同じような景色なのに、男は獣道をすいすいと進んでいった。
途中で川のせせらぎが聞こえてくる。ここではまだ水が流れているのかと、頭を巡らせようとしたとたん、その頭に手を添えられ彼の胸へと押し付けられる。
ぎゅうと抱き締められたようでもあり、彼の着物しか見えなくなって、微かに温かい匂いがした。日の降り注ぐ縁側で嗅ぐ、春風のような、落ち着く匂い。
そのまま男はひょいひょいと何かを渡っていった。ちょうど、飛び石を飛んで渡るように。
誰かの体温に包まれるなど、両親がいなくなってからは初めてだった。寂しくて弟と抱き合って眠ることはあっても、幼い半身。包まれる感覚とは違う。
ずっとそうしていたいような、恥ずかしいような、ごちゃごちゃした気分になって、さりとて暴れることも出来ずに、ぼくはおずおずと彼の着物を握り込んだ。
長い間、狭いところで同じ体勢でいたためか、膝も、打ったお尻も痛くて、その上、腰が抜けてしまっているようで、下半身に全く力が入らないのだ。
男は分かっていてぼくを運んでいる気がする。
せせらぎの音が離れ、もう向こう岸についているだろうに、彼はぼくの頭を放さなかった。ぼくを胸に押し付けたまま、ゆっくりとその手を揺らす。
胸の奥がきゅうと音を立て、目の奥が熱くなった。
このまま誰かに売られるかもしれないのに。
人の姿は、まやかしかもしれないのに。
しがみついて泣き出してしまいそうになった。
まっさらで下ろしたてのような着物に涙の跡をつけるのは忍びなくて、必死で我慢したのだけれど。
優しい手のひらを感じているうちに、また水音が聞こえてきた。頭を持ち上げても、今度は押さえつけられたりしない。
振り返ると、小さな滝のある、岩で囲まれた丸い泉があった。
水は澄み、底まで見通せる。透き通りすぎて、逆に深さが判らない。ぽつぽつと丸い葉の植物が浮かんでいて、桃色や白の花をつけていた。飾り立てている訳じゃないのに、ひどく美しく感じられる。
「そのままじゃ、入れてやれないからな」
どこへ、と問う前に、
いつの間に解かれたのか、腰帯が無い。掴まれたままの着物に落下を開始する身体。自然、身一つで泉へと落ちることとなった。
――ああ。やはりわたしはここで死ぬのだ
あまりの驚きに、声も出せぬまま、ぼくは覚悟を決めた。
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