第4話

 一度部屋に戻ったのだが、落ち着かなくて玄関前や昔アタリに放り込まれた泉の周りを掃除することにした。

 秋程ではないが意外と葉は落ちるものだ。

 四季の移ろいはあるけれど、この場所は温度の変化は少ない。暑からず、寒からず。けれど、不思議なことに、四季を冠した名の部屋から見える庭はどれもその季節のもので、冬の間の庭になど年中雪がある。こうした宮の周りは見た目、山の季節に準じているのだけど。

 そんなことにも慣れてしまったなと、網を片手に泉に落ちた葉を掬う。次々と掬っていくけれど、一枚だけ、ほんの少し届かない。反対側へ回ればいいのだが、ものぐさをして膝をつくと、もう少しと身を乗り出した。


「落ちるぞ。馬鹿者」


 早足で寄ってきた気配が腰に腕を回して引き寄せた。拍子に最後の一枚に逃げられる。


「落ちても、大した深さじゃない。ああ、もう。最後の一枚だったのに」

「今朝倒れたばかりじゃないか。部屋で休んでいるとばかり思っていたのに……」


 口調はいつもと変わらなかったけれど、回された腕に力がこもる。ぴたりとついた背中は思いのほか早い鼓動を伝えてきた。


「アタリ……?」

「病気ひとつしなかったから、忘れていた。アオバ、お前は命を落とす者なのだな」


 何を当たり前のことを。


「アタリもでしょう?」

「……ああ。そうだ。いつかは、たぶん」


 離れた身体を振り返る。

 アタリは懐から小さな包みを取り出していた。


「腹が減ったというから、姫様に分けていただいたのだ」


 差し出されるが、片手には網、もう片手は土と葉で汚れている。気付いたアタリが苦笑して、手早く包みを開けた。


「ほれ、口を開けろ」


 つままれた淡い緑色の塊が近付いて、反射的に口を開く。転がり込んできた塊を落とすまいと、慌てて口を閉じると、アタリの指先が唇に触れた。

 舌先に広がる甘さとは別に、何かの熱がそこから広がるようだった。

 思わず身を引いて、視線を逸らす。


「ひ、姫様に分けていただいたものを……いいの?」

「……ん? ああ……アオバが、抹茶も持っていけと言ってくれただろう? あれを、姫様が大層喜んでくれたから。アオバの助言だと伝えたんだが、聞こえないふりをされてしまって。せめて、俺からの礼だ」


 離れた指先に少し視線を落としていたアタリが、気をとり直したように笑う。


「今夜は少し豪勢にしよう。酒も用意して……身体が大丈夫なら、手伝ってくれるか?」


 襟元に包みを捻じ込むアタリに顔を顰めながら、ぼくは頷いた。


「あの一枚をやっつけたら、手伝いますよ。なんだか買収されたみたいだ」


 下腹部の痛みも忘れ、軽口を叩きながら泉の反対側へ回る足取りは、どうしてか軽かった。



 ※ ※ ※



 しばらくは何事もなかった。

 アタリはちょくちょく姫様に呼ばれて仕事の段取りを台無しにされていたけれど、元々姫様のお世話が仕事だったというし、元に戻っただけなのかもしれない。

 お陰でぼくはやることが増えて、余計なことを考える暇が無くなった。

 どうしても手の足りない時は、姫様が『しき』と呼ぶ女御を出してくれる(もちろんアタリが頼んでくれるのだが)。

 会話などしない、機械的に動くだけのものだが、仕事は早かった。

 姫様が目覚めてさえいれば、確かに女子の手など要らないのだと理解できてしまう。

 あの日、ぼくを着替えさせ、血濡れの袴を洗ってくれたのも、その『式』だったようだ。


 姫様は基本お部屋におられるので、顔を合わせることは少ないのだが、時々掃除に向かった季節の間で鉢合わせたりする。

 大抵お庭を眺めていて、存在を無視されるので、そういう時はお邪魔しないようにと謝辞を述べて退散することにしていた。

 姫様はぼくを好きではないようだったけれど、ぼくは姫様を嫌いではなかった。

 それはアタリの語る姫様が、我儘だけど可愛らしい印象なためなのか、同じ人を好いているという勝手な仲間意識のためなのか、理由は判然としない。

 お顔の見えない姫様を綺麗だと思うし、受け取ってもらえないだろうと思いつつ、刺しゅうを施した面を作ってしまう自分に少し呆れる。


 白い薄絹や紗を重ねて、白い糸で雪の結晶を散らした一品は自分でも良い出来だと思った。

 満足して丁寧に箱の中へ仕舞う。これで四季が揃った。

 届けるあてはないのだけど。


 ある日、冬の間に掃除に入ると、庭を眺める姫様が縁側に立っていた。

 いつものように平伏して謝辞を述べ、部屋を出ようとしたところで珍しく声がかかった。


「ああ。落ちてしもうた。そこの、拾っておくれ」

「はい」


 引き返すと、姫様の足元に白い布が落ちていた。手巾かなと屈んで手を伸ばして、紐状の細長いものがついているのが見えた。

 どきりと心の臓が音を立てる。

 震えそうになる手をなんとか叱咤して、両手で捧げ上げた。

 姫様がそれを受け取る気配はなく、しばしの沈黙。

 もしかして、そういう意地悪なのだろうかと訝しく思い始めた頃、姫様は屈みこんだ。

 つとぼくの顎に指を添え、軽く引き上げられる。


「恐ろしいかえ?」


 目の前に現れた艶然と微笑むかんばせは色白で艶があり、新緑の瞳は森を映したよう。椿を食んで色づけたような唇は開くたびに花が零れそうだ。

 神様のように偉い人は直視してはいけないよ、と幼い頃両親に習ったから、こんなに近くで目を合わせてしまうとどうしてよいかわからない。

 上気する顔を伏せも出来ずに、ぼくは喘ぐように言葉を絞り出した。


「……おきれい、です」


 緑の瞳の奥に、小さな怒りが宿った。

 世辞だと思われたのだろうか。


「――つまらぬ。腹立たしいほど、つまらぬ。去ね!」


 乱暴に顔を振り払われ、畳に倒れ込んだけれど、すぐに平伏して部屋を出る。

 何がいけなかったのだろう。仲良くとは畏れ多いけれど、怒らせたくはないのに。

 いくら考えても答えは見つからなかった。



 ※ ※ ※



 それからほんの数日後、怖い顔をしたクラマに呼び止められた。


「アオバ! おぬし、何をした!」


 訳が分からず首を振る。


「ああ、全く面倒な! そろそろ雪が来そうだというのに……姫様もアタリも怖い顔をして待っておる。早うついて来い」

「アタリも?」


 それこそ、訳が分からない。

 アタリとは顔を合わすことも減っていた。御前に供える酒も塩も米も換えているし、いつもと違うことなどしていない。

 ふと、お顔を見てしまったことが頭をよぎるけれど、それならその場でどうにかされているのではないか。

 姫様の部屋の前まで来て、慌ててタスキを外す。ざっと身形を整えて、クラマに頷いた。


 お部屋に通され、平伏していると、姫様に顔を上げるよう言われる。

 一段高い場所で脇息に身をもたれている姫様の傍に控えているアタリは、確かに見たことも無いくらい怖い顔をしていた。

 けれど、その瞳がぼくを捉えると、急に頼りなく揺れた。いつも大きく父や兄のように思っていたアタリが少年のようにも見えて、姫様の御前だというのに思わず目を擦ってしまう。


「なんぞ、妙なものでも見えたか。縁起の悪い」

「……!! い、いえ。失礼しました!」

「やはり、いとまを言い渡したほうがよかろう?」

「違うと言っているではありませんか。アオバを呼んだら理由をお聞かせ願えると仰いました。納得のいく理由をお願いいたします」


 アタリの尖った声を聞きながら、ああ、自分はいらないのだなと納得した。

 姫様がいらないと仰るのなら、それ以上の理由はない。アタリも、そんなことは誰よりも承知のはずなのに。

 そもそも、男児しかいらないという宮に女の身で今日まで置いていただけただけで幸運だった。

 畳に手を揃えてつき、軽く頭を下げる。


「山を、下りればよろしいのでしょうか」


 思いの外、通った声に姫様もアタリも揃ってこちらを見た。


「……なんぞ、お前は暇を言い渡される心当たりでもあるのか」

「そんな……アオバ!」


 冷ややかに見下ろす姫様と、ずいと膝を出したアタリにゆっくり首を振る。


「いいえ。何が何やらとんと分かりませぬ。ですが、この身は姫様に捧げた身。拾うも捨てるもお心のままに。去ねと言われれば、去りましょう」


 アタリの口が、開いて、閉じた。

 ほほ、と笑い声が響く。扇を少し広げて口元を押さえ、姫様が笑っていた。そうされてしまうと、ちらちらと見えていた口元さえ見えなくなって、表情は全く判らなくなる。

 こんな時だけど、姫様がぼくの前で初めて笑ってくれて嬉しくさえあった。


「アタリ、おぬしより、余程わかっておる。おぬしはまだ解らぬと申すか。どれだけ妾の傍におるのじゃ」

「ですが……ですが、ならば、罰せられるのは某で……」


 音を立てて扇子を閉じ、姫様は空気を変えた。


「そんなに罰が欲しいのかえ。では」


 すいと扇子を向けられる。


「お前、弟がいたね」

「はい」

「弟を連れて来よ。確かに人の手がなくなるのはやや不便ぞ。減らないのであれば、アタリもクラマも文句はなかろ」

「姫様っ……それは……」

「おや。アタリ。何故お前が口を挟む? ああ。そういえば、この辺りで村がひとつのうなってたの。おぬしは知っておったか」

「……え?」


 問い返す前に、姫様は軽やかに言を紡ぐ。


、見つからないのであれば、仕方がない。妾は待とう。『我が物のお前が産む男児は、全て妾のもの』じゃ」


 姫様の口から紡がれた言葉は鎖のようにぼくに絡みついた。


「『しゅ』を……! 姫様……姫様! 何故!」

「案ずるな。おぬしにはおぬしの役目がある。生まれた男児はおぬしが責任をもって連れて来よ。今度は間違えぬようにな。盗人には、ちょうどよい罰であろう?」

「お待ちください! 何を盗んだと。誰も、何も……!」

「アタリ」


 静かな声だった。何の感情もこもらない、ひどく凪いだ声だった。


「お前が、一番よく知っているよ」


 パチンともう一度扇子が鳴る。


「待つと申したが、妾は気の長い方ではない。アタリも里では五年が限度だろう。それまでに元気な子を産んでおくれ。ギリギリになれば腹を裂いて連れてくることになる。さすがにそんな面倒なこと、したくないがの」

「ごねん……」


 ひどく頭が鈍っていて、オウム返しのように呟いたぼくに姫様は微笑んだ。おそらく、微笑んだのだ。


「子のためだ。住むところと水はなんとかしよう。山の幸も採ることを許す。妾が優しくてよかったであろ? クラマ、妾は一眠りしようかの」


 一振りで扇子を開くと、姫様はゆったりとそれを振った。

 その優雅な動きとは裏腹に突風が部屋を駆け巡る。目を開けていられないような風が肌を叩いて、頭を抱えこんだ。


 やがて風がおさまると、呆然と立ち尽くしたアタリと二人、山の中腹にある原っぱにいた。




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