第3話

 掃除に洗濯に食事の支度。

 まずは家でもしていたことから始まった。違ったのはアタリが『宮』と呼ぶこの御殿が広いこと。二人でいくら頑張っても一日で掃除しきれるものではない。

 アタリも諦めているのか「実はそう汚れない」と片目をつぶる。毎日清めるのは神事を行う部屋だけでいいと、他の部屋は毎日順繰りに変えていた。


 洗濯も自分の分だけ、食事は姫様にお供えする分も入れて三人分で、アタリと二人で作れば苦ではなかった。

 作業の合間や休憩時間に少しずつ話を聞く。

 姫様が女子おなごを求めないのは、月のものが来てしまうと使い物にならなくなるから、とか、醜女しこめと言われるのを気にしてるから、とか。


「姫様は見る者の心持ちによっておかおが違うらしいのだ。恐れ、慄くものには恐ろしい顔に。慕っていれば好みの顔に。畏れ敬っていれば神々しい顔に。そういうのを厭って、四角い布の面をつけているので、本当のところはどうなのか俺にも分からん」


 そう話すアタリの声は優しく弾むようで、きっと姫様の面の中を覗いても、好みの顔が見えるのではないかと思わせた。

 アタリの好みの顔とは、どういうものだろう。やはり彼に似合う大人の色香漂う女性だろうか。

 問うのも気恥ずかしくて、聞けずじまいだ。

 

 アタリはここに来た最後の子供なのだそうだ。昔は色んな子がいたという話から、どのくらい姫様が眠っているのか問うと、逆に最後の贄の話はいつだったのか問い返された。村の年寄りのひいひい爺さんの頃の話だと言うと、じゃあ、そのくらいだとあっさり言われる。

 この時ほど落ち込んだことはなかった。

 青葉が爺さんになってしまう。

 肩を落とすぼくに慌てたように「爺さんになるまで生きているのならいいではないか」とアタリは慰めた。


 宮には実はぼくたち二人ではない。

 人ではないものと、遣いのカラスが出たり入ったり。人ならざる者の相手は烏天狗からすてんぐのクラマがしていた。

 カラスの頭に人のような体つき。背には黒い翼が生えて山伏のような格好をしている。あの、羽音と声の主だった。

 手や足は鋭い鉤爪があって、掃除や細かい仕事は向かないと、そういう仕事はアタリとぼくに丸投げする。お山の警護も任されて、常に飛び回っているので本当に忙しいのだろう。

 ぼくにはクラマや烏天狗達の言っている事しか分からないけれど、アタリは遣いのカラスの言うことも解るらしい。長くいれば解るようになるのだと、頭を撫でられた。


 クラマの連れてきた幼い烏天狗の子供達と、どんぐりや山の幸を採りに行ったり、チャンバラや相撲をとったり。たまにはそんなこともした。

 そうやって、瞬く間に時が過ぎる。背が伸び、髪が伸び、袴が短くなり、胸や腰が丸みを帯びる。

 髪の長さも変わらないアタリを見ていると不思議でしょうがない。真似をして後ろで括った髪も、すぐにアタリの長さを越えてしまった。

 せめて恰好だけでも男らしくしようと、膨らみ始めた胸はさらしで巻いて潰していた。


 それは、自分なりの姫様への気づかいでもあった。

 女児は月のものが始まると、その間は神事どころか神事の間に入ることもできない。けれど、子供の間は男児と変わらず神事に携われる。舞う数を増やしたアタリの手助けになればと、舞も習ったのだ。

 女子おなごは嫌だというのだから、見た目くらいは男子おのこにしておいて、本来二人舞だという舞いを一緒に舞う。

 指先まで魂の行き届いたアタリの舞は見事で、時々目を奪われて叱られてしまうけれど、それ故に姫様もそうだったのではないかと密かに思う。


 中くらいのアタリではなく、胸の的を的中させられてしまったのではないかと。


 もう少し、あと少し。

 アタリと舞っていられたら。


 そんな風に思い始めたのはいつからだろう。

 初めから、だったのかもしれない。

 邪な気持ちは、姫様に伝わっていて、怒りを買ってしまうかも。

 そういう予感はあった。

 最初に言い含められたことは、ちゃんと憶えてる。


 アタリは、姫様のものだ。



 ※ ※ ※



 その日は朝から調子が悪かった。

 ここに来てから病気になんて罹ったことが無かったのに。

 朝日と共に舞い、食事の支度をして掃除。いつものことなのに、頭もお腹も重くて息苦しくて上手く動けなかった。

 見かねたアタリが休んでいろと言うのに、意地を張って掃除を続けていて、下腹に走った激痛にうずくまったところで、しゃんしゃんと澄んだ鈴の音が響き渡った。

 とたんに辺りが騒がしくなる。

 カラスたちは一斉に飛び立ち、クラマを先頭に烏天狗たちがやってくる。

 中庭に面した廊下でそれを見上げると、世界がぐるりと回った。


「こりゃ! アオバ! 何をしておる! 姫様がお目覚めじゃ、はよう……」


 すんっ、とクラマが鼻を鳴らす。


「おぬし……このような時に、なんと面倒な!」

「ひめ……さま?」


 クラマの舌打ちと同時に廊下をこちらに向かう足音が聞こえてくる。


「アオバ!」


 いつものんびりとした響きを持つ声が緊張で固くなっている。


「クラマ、大、丈夫と言って。姫様を、迎えに行くの、でしょう? アタリの、大事な、しご……と」


 その腕にしがみつくと、クラマは苦々しい顔をしながら頷いた。

 ほっとしたら目の前が白くなった。

 誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれど、しっとりとした光が纏わりついていて、水の中のようにくぐもった音が響くのみだった。




 目を覚ますと自分の部屋だった。下腹部にまだ鈍痛はあるが、気分はだいぶ良くなっていた。

 当然のように誰もいなくて、いつもは何かかにか運んでいるカラスたちの気配もない。

 そっと起き上がると、チリンと風鈴が鳴った。

 羽音が近付いて、襖の向こうで止まる。


「アオバ、姫様にご挨拶しろ」

「今、行きます」


 解かれていた髪を、なるべく丁寧に括っていると、袴の色が浅葱色になっていることに気が付いた。呼吸が楽になっているのも、胸に巻いていたさらしを誰かが外して着替えさせてくれたから、らしい。

 変わった袴の色に何故と首を傾げるものの、そこに頓着している暇も、胸にさらしを巻き直す暇もなかった。

 襖の向こうにはクラマがいて、先導して飛んでいく。時々早くしろと言う目で振り返るのだが、どたどたと走って行く訳にもいかない。

 出来るだけ急いでついて行った先は、夏の間と呼ばれる一室だった。


「姫様のお部屋ではないの」


 零れた言葉に、クラマは呆れた顔をする。


「月のものが来ている間は、神事の間にも姫様の部屋にも入られん」


 はっとして鈍く痛む下腹を押さえる。

 これが。


 クラマは片膝をつき、頭を垂れて声を張り上げた。


「クラマ、並びにアオバ到着いたしました」

「入られい」


 いらえはアタリの声だった。

 クラマに習い、片膝をつき頭を垂れた姿勢で彼が襖を開けるのを待つ。何度か練習した通り、中に入ると正座をして畳に額がつくほど平伏した。


「アオバにございます」


 じろじろと値踏みする視線が飛んでくる。何を言われるのかと、少しだけ手に汗が滲んだ。


「……アタリ、わらわおなごはいらぬと言わなんだか」

「は。久しぶりの贄だった故、少々確認を怠った某の失態でございます」


 鈴を転がすような、一言ごとに香りがするような、えもいわれぬ声に、アタリは用意してあった科白を読むように飄々と答えた。

 山神さまがムッとしたのが判る。

 頭を上げずとも、空気が一瞬で変わる。


ナリだけ変えれば妾の目が誤魔化せるとでも思うたのか。目覚めた妾に挨拶もしに来ないどころか、部屋を移させた無礼者は、何か申すことでも?」

「お手数をおかけして申し訳ありませんでした」

「姫様。意識のないものが挨拶に参じられる道理はありませぬ。狭量に見せる振る舞いは……」

「狭量」


 ビシリと空気に亀裂が入ったかのような声だった。

 傍で控えているクラマが身体を固くしたのが分かる。

 なのに、アタリときたら。


「狭量に見せる、と言ったのです。どういう訳か、我が姫様は時々そのような振る舞いをなさる。今は人手も足りぬ時。短絡な人事お考えはお控え下さると、クラマも喜びます」


 「なにっ」と小さく声を上げて顔を上げたクラマを、冷たい瞳が見下ろしている気配がする。


「ほぅ。クラマも歳をとったの」

「い、いえ! 私は、何も!」


 ハズレめっ。と小さく聞こえて、ぼくは少しだけ口の端を上げた。


「それに、アオバは今朝まで奉納舞を舞っておりました。もう、この先は無理でしょうが、姫様のお目覚めの手助けになったのではございませんか」


 ふぅと、少し長い吐息が吐かれた。


「なるほど。つまり、まさに今日、役立たずとなったわけだな」


 これにはさすがにアタリも言葉に詰まる。


「もう用など無い。下がりゃ」

「姫様っ」


 すでに畳に置いた手についている額を、さらに押し下げて礼として、ぼくはその場を後にした。

 廊下で襖を閉める一瞬に目の端に捉えた姫様は、真っ白い四角い布の面を着けていた。

 煌びやかな衣装にその面はいささか浮いていて、せっかくお綺麗なのにと不思議なことを思った。布の向こうのお顔は見えはしないのに。


「アタリ、冷やし飴を持て。久々に味わいとぅなった」

「……すぐに」


 閉じた襖の向こうで、姫様の甘えた声が聞こえた。

 気が緩んだのか、空腹を感じて自分も厨房に足を向ける。

 昼餉は過ぎてしまっているのだろうか。そうならば、かなり姫様をお待たせしてしまったことになる。不機嫌になられるのも仕方のないことかもしれない。

 厨房に入ると、赤い漆器に盛られた色とりどりの金平糖が置いてあった。

 姫様へのお供えに違いない。

 ぼくには縁のないものだと、目を逸らし、朝残した握り飯はどうしただろうかと、棚を開けてみた。

 背伸びをした瞬間に、じくりと下腹が痛んで、そっと手を添える。


「青葉……大人になるって、痛いんだねぇ」


 この宮に来てから里の時間で五年ほど。体感的には三年くらいなのだが、それはこちらの時間の流れに慣れつつあるから、らしい。

 折角姫様が目覚めても、青葉も十六。子供といえる年ではなくなっている。

 連れてくることなど、出来なくなってしまった。


 村では十二、三で初潮を迎える娘が多かった。ここまで遅くなったのは、子供の頃の栄養失調と慣れない暮らし。そして、里よりもゆったりと流れる時に身体が慣れ始めてしまったせいだろう。


 ――もう少し遅くても良かったのに


 少しだけ寂しい思いを抱えながら腹をさする。


「アオバ! また、痛むのか?!」


 急にかかった声に、肩を跳ね上げる。

 急ぎ、傍による顔は少し青褪めているかもしれない。


「アタリ……いや。大丈夫。お腹、空いたなって」

「そうか……そう……あ、すまぬ。ばたばたしておったから、アオバの残した握り飯、食ってしまった」

「そう。なら、水でいいや」


 水瓶へと振り返り、何か言いたげに宙に浮いているアタリの手に気付いて首を傾げる。


「何? 冷やし飴、作るんじゃないの?」

「あ。そう。そうだった」


 慌てて身を翻すアタリがいつになくそわそわしていて、少し可笑しくなる。

 水をわざとゆっくりと飲みながらアタリの仕事を見守っていると、盆に湯呑と金平糖の乗った漆器も一緒に乗せた。


「それも持っていくの?」

「別に言われるよりは先に出した方が面倒がないからな」


 少し迷って、やっぱり口を出すことにした。


「それを持っていくなら、冷たい抹茶も入れた方がいいと思う。姫様が選ばなかった方をアタリが飲むといいよ」


 アタリはきょとんとして、ぼくと金平糖を見比べた。


「冷やし飴が飲みたいと言ったのに?」

「金平糖が出てくると知らないんでしょ? 甘い物には抹茶の苦味が恋しくなったりするよ?」


 ふぅむ、と一唸りして、結局アタリは抹茶も入れて戻って行った。




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