第2話

 大層な水しぶきを上げて水へと沈んだ身体は、すぐに底に辿り着いた。お尻が当たって浮き上がろうとする身体を持ち上げるべく、底を蹴る。何度か体勢を立て直してようやく立ち上がると、顎のあたりまで深さがあった。

 水を吸い込んでしまったのか、鼻の奥がツンと痛い。小さく咳込む。

 日差しでぬくんでいたのかな……

 見た目よりも冷たさのない水に首を傾げつつ辺りを見やれば、件の男が笑いながらふんどし一丁で近付いてきた。思わず後退さるが、水が絡みつくようで、思うように逃げられない。すぐに捕まって、手拭いで顔を擦られた。


「ほれほれ。暑かったから、気持ち良かろう?」


 にやにや笑いながら目の縁まで丁寧に拭われて、涙の跡を消してくれたんだろうかと思う。

 次に背中を擦った後で、その手拭いをぼくに握らせると、今度はざんばらな髪へと指をさし入れた。爪を立てぬよう、痛くない程度の力で丁寧に洗われる。


「いくつだ?」

「……とお……もうすぐ、十一」

「なんだ。もっと幼く見えるなぁ。まあ、きちんと食えるようなら、こんな所へは連れて来られないか」


 あばらの浮いた辺りを自分で擦りつつ、日に焼けた腕との違いを揺れる水越しに見比べる。

 真っ黒に焼けた腕はかさかさでざらざらで、ところどころ皮が剥けていた。それでも色付いているだけまだ健康に見える。白く骨の浮く脇腹の下、ぽこりと出た腹には、あせもがぽつぽつと赤い点を散らしていて、病気持ちだと勘違いされそうだ。


「あの……ぼく……」

「まあ、焦るな。坊主の話はゆっくり聞くから、まずはきちんと身を清めてしまえ」


 滝の流れへと頭を差し出されて、言葉は遮られる。

 不思議なことに、注がれている水はキンと冷たかった。

 全身を洗い終えるまで男は傍で待っていた。

 不思議に思いつつ、清め残しが無いか見張っているのだと勝手に納得して、おずおずと手拭いを返してみる。

 男はうんと頷いて、それを首にかけると、おもむろにぼくを抱き上げた。

 さすがに小さく悲鳴を上げてしまう。


「……やめて! ひと……ひとりで上がれ……」

「何を言う。縁まで行っても深さは変わらん。その細腕では……」


 出会った時も「坊主」と呼びかけられた。ならば、ぼくは『男』であることを望まれているのだ。家を出る時も弟として出てきた。だからアオバとしてやり通すつもりだったのに……!

 身を捩りつつ、股座またぐらを手で隠そうとした……けれど。

 両脇をしっかりと掴んでいる両手に遮られ、届くもんじゃない。

 男の視線が下がり、少しの間固まる。その隙(隙だろうか?)に両足をばたつかせ、彼の胸を蹴りつけた。


「みてんじゃ、ないっ!!」


 男の手を離れ、また水中に落下する。慌てた男がすぐに掬い上げて、今度はしっかりと抱きとめた。

 痛かった訳でも、水を飲んだ訳でもなかったけれど、なんだか全てが台無しになったような気がして、ぼくは声を上げて泣き出した。


「ああ……すまない。ええ、と」


 泣き声に引きつけられたのか、あちらこちらからぼくたちを窺う気配がする。

 男は自分の着ていた白い着物で手早くぼくを包むと、早足にどこかに向かったのだった。



 ※ ※ ※



 だん、だん、と木の板を踏みしめる足音が響いて、建物の中へと入ったのだと分かる。

 進むごとにざわつく気配が増えて、山奥なのに随分人がいるものだと不思議な感じがした。


「アタリ! 廊下が濡れておるではないか!」

「すまぬ! 拭いておいてくれ!」

「なにぃ? これだからハズレは!」


 羽音が遠ざかっていく。カラスがまだいるのだろうか。それとも別の鳥だろうか。

 当たりだの外れだのよく分からないが、どうも迷惑をかけているのだろう。

 冷静に頭は回るのだけれど、一度溢れだした感情はなかなか引いてくれなかった。

 しゃくりあげ続けるぼくを男はどこかの部屋に連れ込んで、泉に放り投げたのが嘘のように丁寧に畳の上に下ろした。それから男が着ていたものと同じ白い着物と、松葉色の袴を用意して着替えさせてくれる。

 泣き続けながらも着替えの支持に大人しく従っていると、「いいこだ」と大きな手で頭を撫でられた。


「少し席を外すが、ここで待っていてくれ。誰が来ても応えなくていい。『戸は開かないから』俺が来るまでじっと黙っていろ」


 ぺたりと座り込んだぼくに優しくそう言い置いて、男は出て行った。

 たん、と襖の閉まった後に、低く「解散」と聞こえた。襖の向こうに感じていたいくつかの気配はそれで離れていく。

 静かになって、涙の跡にそよそよと風が当たって、初めて部屋の中を見渡した。

 タンスが一さおあるばかり。襖の反対側には障子戸があって、指一本分くらいの隙間が空いていた。風はそこから入ってきたらしい。


 庭にでも面しているのかと考えて、ひっくとしゃくりあげる。

 今度は気持ちいいと感じるくらいの風が入って来て、チリン、と涼しげな音を立てた。

 視線を上げる。

 青銅色のシンプルな釣鐘型の風鈴が下がっていた。

 そこから下がっているのは短冊ではなく、染まりかけの紅葉の葉で、風にひらひらと踊っている。

 不規則に鳴るその音と風に揺れる紅葉を眺めているうちに、少しずつ気持ちは凪いでいった。

 袖で涙を拭ってしまってから、借りものだったと少し慌てる。

 改めてよく見てみると、たどたどしく繕った跡があるものの、綺麗に折り目のついた子供用の着物と袴だ。

 こういうものがあるということは、やはり子供もいるのだろうか。

 ぼくと同じように、神様にお願いに来た子供が。


 耳を澄ませてみても、子供の声は聞こえなかった。

 もっと言うならば、大人の声も。

 聞こえるのは風の音と、風鈴の済んだ音色だけ。

 気配はしてたのに。廊下で聞いたあの声以外は、そういえばひとつも言葉を聞いていない。

 気持ちを落ち着けてくれた静けさだけど、今度は急に不安になってきた。


 ぎしり、と廊下の軋む音に身体が強張る。

 「誰が来ても」と彼は言ったけど、が来るというのだろう?

 バサバサと羽音が響いて、ガタガタと襖が揺れる。ひっと息を呑んで、襖から離れるように尻でいざった。


「こりゃ! アタリ! 開けろ! しゅなどかけおって!」

「やめろ。俺はこっちだ。客人が驚くだろう」


 急ぎ足でやってくる人の気配がしたかと思うと、少しのんびりとした男の声が誰かを諌める。


「客?」

「今のところはな。話を聞いてみんことには、どうともできんだろう。酷く取り乱させてしまったから、落ち着くまでしばし待て」

「えぇい。まどろっこしい!」


 バサリと再びの羽音。それから小さな溜息が聞こえて、襖は開かれた。

 白い着物に紫の袴。髪は少しほつれていたけれど、乱れているほどではない。男はぼくを見てにこりと笑うと後ろ手に襖を閉めた。


「よかった。少し落ち着いたようだ」


 柔らかい声に、また涙が浮かびそうになる。

 慌てて、ぼくは少し視線を下げた。下げた先に盆に乗った二つの湯呑を見つける。

 のどが鳴った。

 男はぼくの前に膝をつくと、ひとつをぼくに差し出した。


「飲みながらでいいから聞いておくれ」


 コロンと鳴った湯呑に驚いて、そっと覗き込むと氷が浮いていた。

 氷、だと思う。透明な塊。

 湯呑に触れるとひやりと冷たく、指先の体温が奪われていく。

 どきどきしながら湯呑を傾けると、冷たくて甘くてほんの少し刺激のある味が舌の上に広がった。味わいたいのと喉が渇いているのと、葛藤はほんの数瞬で、気が付くと天井を向いて湯呑を逆さまにしていた。

 くすくすと忍び笑いが聞こえる。

 恥ずかしくなって、冷たい塊を舌の上で名残惜しみながら湯呑を戻すと、入れ替えるように彼は自分の湯呑を差し出した。

 上目遣いに窺うぼくに、彼は「どうぞ」と笑う。


「美味しいかい? 俺はそう好きでもないから飲んでくれてかまわない」


 そんな風に言われて、ぼくは疑いもせずにじゃあと手を伸ばした。

 今度はちびちびと舐めるように飲む。

 その様子を目を細めてしばらく眺めてから、男は本題を口に乗せた。


「俺はアタリ。姫様に着けてもらった名だ。姫様っていうのは、君の言う『山神さま』のこと」


 こくんと頷きながら、首を傾げる。


「当たり、なの?」

タリ。文字で言うと真ん中の中っていう字を充てるそうだ。良くなく悪くなく、平平凡凡。どちらかというと外れだと言われるな」


 苦笑しながら頬を掻いて、ともかく、と彼は話を戻した。


「ここにある、手の届く全ての物は姫様の物だ。その湯呑も、中の冷やし飴も、君に着せた着物も、例外なく。君も供物と共に届けられたのだから、一応、その扱いとなる。ただ……」


 視線を外して躊躇う様子に、ぼくは姿勢を正して湯呑を膝に置いた。

 何を言われても、花の蜜くらいしか甘いものを知らなかったぼくにしてみれば、最初の一杯でお釣りがくる。

 手の中にまだ残っている半分に自分の顔が映り込んで、アオバにも飲ませてあげられればよかったのにと胸が痛んだ。


「ただ、その。姫様はここしばらく眠っておられて……君をどうするか、確認が取れない。結界を越えた時点で受け取ったことになってしまうから……まあ、俺の失態なんだが」


 アタリは軽く額を押さえると、「ハズレと言われても仕方ないな」とぼやいて、ちらりとぼくを見上げた。


「『供物は男児』が通例だったんだ。何がどうして君が入っていたのか、聞かせてもらえるかな? それから、ここでは本当の自分の名は使わないように。全ては姫様の物。その名も例外じゃない。思い付かなければ俺が決める。いいな」

「……里にいる人の名は大丈夫?」

「自分の名でなければ、どこの誰のでも問題無い」


 はっきりした答えにほっとして、ぼくは初めから名乗るつもりだった名を口にした。


「青葉。アオバ、でお願いします。……今年、里では日照りが続いていて――」


 つっかえつっかえ、行きつ戻りつするぼくの説明を、アタリは上手く合いの手を挟みながら急かすことなく聞いてくれて、最後に大きな溜息を吐いた。


「姫様が眠っているうちに、口減らしも減って作法をきちんと知る者がいなくなったのか。さらに、君は――アオバは、弟を庇ったと」


 頭を抱えたまま、アタリはもう一度息をつく。


「あ、あの。はどうなるのですか。ここに来たはずの子供は……」

「男児は、姫様の世話やこの宮の些事一切を引き受け、時々姫様に捧げる舞を舞う。だが、基本的に結界……この宮周辺から外へ出ることはない」

「女児は」


 アタリはしばらく押し黙った。


「……受け取ったことが無い。姫様は「いらぬ」と一蹴しなさるので」

「受け取られなかった子はどうなるの」


 真直ぐに向けた視線を避けるかのように目を伏せて、アタリは柔和な顔に縦皺を刻む。


「そのままに。里まで送り返した時もあったけれど、あまりいいことにはならなかった。一緒に乗せられた供物を食いつなぎ、違う里に出られた者もいることはいる」


 そうか。やはり自分は幸運だったのだ。


「では、今からでも弟とぼくを取り換えられませんか」


 ずいと膝を出すと、アタリが驚いたように顔を上げた。


「弟だったなら、ここで、少なくとも暮らしていけるのでしょう?」


 アタリは優しい。弟がひ弱でも根気よく教えてくれるに違いない。


「それ、は……」


 少し考えて、アタリはゆるゆると首を振る。


「駄目だ。受け取る前ならば、まだ良かったかもしれないが、すでに姫様の物を俺が勝手にどうこうできない。姫様にお伺いを立てた上でなら、弟を呼び寄せることくらいは出来るかもしれないが……そうすれば、アオバ、お前は用済みだと捨てられるかもしれないのだよ?」

「青葉が助かるのなら、自分の事はどうにかします! どうか、姫様に……!」


 ずずい、と詰め寄るぼくに、アタリはもう一度頭を振った。


「すまぬ。姫様は眠られている。いつ起きなさるかも判らぬ。明日目覚めればよいが、山の結界を自由に越えられるのは、子供のうちだけだからな。ここと里では時の流れが違う。それぞれの流れに身体が慣れるまで里の時間でおよそ五年。実質二、三年の間でなければ、おそらくもう無理だろう」

「そんな……」


 肩を落としかけ、自分の役目を思い出してもう一度顔を上げる。


「では、日照りや、川の水は? 水が戻れば、里でもどうにか暮らしていける……!」

「そちらも……すまぬが、俺ではどうしようもない。と、いうか、本来、姫様の管轄とも違うというか」

「……え?」

「お眠りになられているのも、力の衰えと関係があるのだ。まあ、奉納舞を増やしてみよう。日照りはどうにもならなくとも、山に貯えられた水が少しはそちらに向くかもしれない」


 結局、自分は何の力にもなれないのかと落ち込む僕の頬を大きな手が包み込んだ。


「どうにしても、人手は足りないのだ。姫様もそれは解っていらっしゃる。アオバがしっかり務め上げていれば、文句は言わないかもしれない」


 とても希望的な考えだったけれど、ぼくとしてもそれに縋るより他にない。


「ここに置いてもらえるのですか」

「もちろん。姫様の物は、姫様にお伺いを立てるまでどうにもできない。しっかり、働いてもらうぞ」


 にっと笑ったアタリがとても眩しく見えた。




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