第5話
ぐるりと見渡すと、背負子がひとつと毛皮の外套が置かれていた。
見比べて、大きい方の外套をアタリの背にかけてやる。
「アタリ、行こう。このままでは凍えてしまう」
どうしてか、雪の降る前の方が同じ気温でも寒く感じる。ともかく山を下りなければ。
ふと、思いつく。
「アタリは帰る? 姫様、アタリのことは許してくれるかも」
あっという間に冷えてきた手に息を吹きかけて、アタリの手を包み込む。弟にもよくこうしたな、と急に鮮明に思い出した。弟の手はすっぽり覆えたけれど、アタリの手は大きくて両手で包んでもはみ出してしまう。
「ちがう……」
もう一方の手をぼくの手の上に重ねて、ようやくアタリは声を出した。
「違う。姫様は、俺を……俺の為に、アオバを……!」
ぎゅうと、彼の手に力がこもる。
「ぼくが追い出されるのはなんとなく解ってたじゃない。それでも、住むところと水も保証してくれた。熊や猪の餌にならなくて済むんだよ? きっと、アタリがいるから大盤振舞いしてくれたんだ」
少なくとも、五年は。
行こう、と彼の手を引く。
背負子に手を掛けると、アタリが横から持ち上げた。さっと背負うと、ぼくの手を引き先を行く。
「……すまぬ」
ぼそりと呟かれた謝罪が何に対してのものなのか、ぼくには解らなかった。
山を下りはじめると、どこからかやってきたカラスが先導してくれた。
木がまばらになり、道が広がり、山と里の境くらいにその家はあった。小さくてぼろぼろで、屋根の上には沢山のカラスが止まってギャアギャアと鳴いていた。
小さな畑だったであろう空間は枯れた草がぼうぼうで、少し奥に井戸が見える。
近づくと、カラスたちが一斉に飛び立った。
ガタガタ言う扉をなんとか開けて中に入ると、ほわりと温かい空気が頬を撫でた。
囲炉裏には火が入り、鍋がくつくつ音を立てている。甕には水が満たされていて、箪笥が一棹。押入れには布団も用意されていた。さすがにふかふかとはいかなかったけれど、
土間に下ろされた背負子に括られていた荷物の中身は、米と野菜、少しのお金。上り
もう一度、ぐるりと家の中を見渡す。
「青葉……」
一緒に荷物を整理していたアタリがびくりと身体を揺らす。
「青葉と暮らした家だ」
場所は違う。外見も違う。でも。
見上げる柱には背比べの痕。
ぼくが暮らしやすいようにと、姫様の配慮だろうか。それとも……弟を置き去りにしたわたしへの罰だろうか。
「竃も箪笥もあんなに大きかったのに」
柱の一番上の疵も自分の腰の高さ程度しかない。慈しむように指でなぞる。
「……アオバ。明日、行こう」
何処へ、と聞かずとも分かるような気がして、黙って頷いた。
※ ※ ※
そこにはもう見慣れた景色は無かった。
人の住まなくなった家は寂れるのが早い。あるものは傾き、あるものは潰れ、田畑は草にまみれていた。
少し高台からそれを見下ろし、じわりと滲む目元をぬぐう。
「弟は……」
アタリは首を振る。
「わからない。ひとりででも、誰かに連れられてでも、他の村や町に身を寄せていれば、あるいは」
「ぼくが出て、すぐに?」
「三年ほどは、煙の立つ家があったそうだ……すまない。アオバ……俺は……」
今度はぼくが首を振った。
そういう可能性があると、知っていたのだ。知っていても、送り出す側には回れなかった。
「……俺は、姫様がこんなに早く目覚めると思ってなかった……すまない」
「青葉を輿に乗せればよかったな。山神さまを信用して、託せばよかった。わたしならきっと村から逃げ出して……逃げて、逃げて……」
「弟を輿に乗せても、アオバはきっと後悔した。私が乗ればよかったと、お山を見上げて毎日……食べ物が手に入れば、半分を弟に供える。アオバは、そういう人間だ――だから……」
アタリはそっとぼくを引き寄せ、その頭をアタリの胸に押し付けた。大きな手が優しく頭を撫でる。
「俺はアオバが輿に乗っていて、良かったと思う……思って、しまう。俺に、言われたくはないかもしれないけれど」
そんなことはない。
ぼくが何も出来なかったように、アタリにもどうしようもなかったはずだ。ぼくらは結界に守られた場所から勝手に出ることは許されなかったのだから。
それでもきっと、機会ごとにクラマやお山のカラスたちに話を聞いていてくれたに違いない。
厳しい現実を聞いても、ぼくの仄かな希望を吹き消せなかったのだろう。
ぼくも、アタリがそういう人間だと知っている。
知っている、から。
「……アタリ」
もう子供ではないのにと、少し気恥ずかしくなったので、わざと明るい声を作る。
「ちょっと待ってね。早く帰してあげられるように、すぐに子供を作るから。どうすればいいのか、よくわからないけど、相手を見つけたら、なんとかなるよね」
突き飛ばされたように、アタリは後ろに飛び退いた。
きょとんとするぼくを、信じられないものを見るような顔で見下ろしている。それからはっとしたように頭を抱えると、小さく呻き声を上げた。
「アタリ? 具合でも悪い?」
差し出そうとした手を、アタリはそっと押し返した。
「……いや。そういう話は、宮では必要ない物だから……そうだな。知らない、な」
「アタリは知ってる、ん、だよね? 教えてくれる? どうすれば男の子が出来るの?」
「……そっ……」
じり、と後退って、カッと上気した顔の口元を片手で覆う。瞳を泳がせ狼狽える様が新鮮で、ぼくは開いた距離を埋めるように足を踏み出した。
「ぼくだって、男と女がくっついて出来るというくらいは知ってる。でも、それでいいなら、ぼくのお腹にはもうアタリの子ができた?」
「できぬ!!」
あまりの剣幕に、小さくこだまが返って来ている。
「もう。解ってるよ。そんなにポンポンできたら困るものね」
「そうだ。十月十日、その身体で慈しみ育てるんだ。きちんとアオバを大切にしてくれる相手でないと――」
「相手はどうでもいいよ」
「よくない。子は、お山へ連れていくんだ。残ったアオバの身体も心も労わってくれる相手でなければ、任せられる訳がなかろう!」
怒ったように背を向けて、アタリは来た道を戻り始めた。
ぼくは早足で後を追う。
「だって、時間が無い。姫様が五年が限度だって。アタリ、それが過ぎたら、アタリはどうなるの? 宮に戻るだけ?」
「俺のことは、いい」
「よくない。そうなった時の、アタリへの罰は何?」
深く長い吐息が吐かれる。
「……結界の中と外では時の流れが違うと教えただろう? 緩やかな流れの中で歳を重ねた俺が、急流に出るとどうなる?」
「あっという間に……流される」
「それぞれの時の流れが別の流れに溶け込んでいって、その影響が出始めるまでが、五年程度、だ」
思わず息を呑む。
「……アタリが、宮で暮らし始めたのは……」
「生まれて数日、という話だ」
それだけの時間、共にいたアタリを。
アタリは姫様にとって特別なはずだ。なのに、どうして。
姫様はアタリが戻ると信じている? それとも、どうなってもいいと思うくらい怒ってらっしゃる?
アタリは、何をしたのだろう……
その腕に突然しがみついたぼくを、アタリはちらとだけ見て咎めなかった。
そんなことでは時は止められないし、アタリも止められない。
ただ、しがみついていないと今にも流されていってしまいそうで――家に戻るまで、アタリの腕を放せなかった。
※ ※ ※
山のふもとに住みついた、夫婦とも、親子とも取れそうな二人を、村の者はひそひそと噂した。
やってきた庄屋様や村役に、繁忙期の田畑の手伝いを条件に仮の形で居付くことを承知してもらい、物の豊富な町へと半日近くかけて出掛けては生活を整えていく。
雪が降るまでは、めまぐるしく過ぎていった。
白いものが舞い始めたと思ったら、あっという間に世界は白く塗り替えられる。
家に閉じこもる時間が多くなり、ぼくはカラスたちが時々咥えてくる、美しい端切れで花飾りをこしらえ、棒の部分をアタリに作ってもらって簪とした。
嫁に、とはいかなくとも、女と見てもらうためにさらしを巻くのを止め、少しでも目を引くようにと考えた物だったが、どちらかというと年配の女性の関心を引いたようだった。初めは分不相応だと冷たく、手仕事だと知ると、子供や孫に欲しいと遠まわしにねだられた。
居候の身、餅や干物などとの交換条件を付けて譲り渡すと、他にないのかと囲まれた。それぞれと交渉の結果、いくつかを新たに作ることに。
正月前になんとか全てを作り終え、交換してもらえたみかんや小豆を抱えて、足取りも軽く家路を戻るところだった。
家々が途切れ、また雪がちらちらと降り始めていた。
ぽつんと建つ農具などを入れておく小さな小屋の影から、男が飛び出した。
驚くぼくをあっという間にその小屋に引き込み、息も荒く壁に押し付ける。
「白い米をやろう。綿を買う金がいいか」
耳元で囁かれる言葉の意味と、現状がよく結びつかない。
「簪は……もう……」
「……もっと、売れるモンがあるって言ってんだよ」
着物の前を割り、差し込まれた手が太腿を撫でた。
大立ち回りをしたわけでもないのに、男の息は荒く熱く首筋に吹きかかる。
ようやく恐怖と気持ち悪さが込み上げて来て、男の手を逃れようとした。
「おっと。暴れんな。すぐすむって」
簡単に自由を奪われ、今度は壁に向けられて痛いくらいに押さえつけられる。
小さな悲鳴は耳に入らないようだった。
裾をまくり上げられ、子供の頃、馬小屋の陰で見た男女を思い出す。あの二人もこんな風にくっついていた。
乳房に痛みが走る。
「いや……っ!!」
へへ……と昏い笑い声に、カア、とカラスの声が重なる。
続けて大量の羽音と、がさがさ言わせながら次々と屋根の上に群がる気配。
「な、なんだぁ?」
一瞬、男の動きが止まったかと思うと、ドカンと音を立てて扉が開いた。
「……は? おい……」
情けない男の声はあっという間に離れて、外で鈍く骨のぶつかり合うような音がした。
ほっとして、その場にずるずると座り込む。
「アオバ……アオバ、無事か?!」
男と同じくらい荒い息で、差し出されるアタリの指が赤くなっている。
「平気。びっくりしただけ……ありがとう、アタリ」
掴もうとしたその手は、ぼくの手をすり抜け、背に回される。
ぎゅうと抱き締められると、胸の奥もきゅうと音を立てた。
「ごめんね……もしかして、子が出来るいい機会だったのかも……」
「っっ!! 何を言う! あんな奴の子など、俺は許さない!」
「でも、アタリ……」
「もう、いい。子が出来なければ、姫様も手を出さない。良い人が現れぬのなら、それでいい。自分を粗末にしないでおくれ」
「……嫌だよ」
きゅうと縮まった胸の奥が、今度は針のように尖ってちくちくと痛み出す。
「アタリまでいなくなるのは、嫌だよ。子を連れて、お山の上で姫様に舞を舞う。その姿を夢に見させて。それだけで、頑張れるから……!」
ぼくもアタリに腕を回す。しがみつくようにしっかりと。
その日からアタリは夜中に家を抜け出すようになった。
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