第6話
無事に正月を迎え、表面上は穏やかな日々が過ぎた。
アタリに『良い人』と思わせられるような人を探してはいたが、いい感じの人にはもう連れ合いがいる。村の端に住む怪しい女と警戒されたり、アタリと夫婦だと思っている者もいて、なかなか思うようにはいかない。
焦っても仕方がないと解ってはいるのだが、一年近くも子を腹に抱えるのならば、時間はより無いように感じていた。
夜中に出掛けるアタリのことも気になっていた。
そう長い時間ではない。
明るくなる前にはひやりとした空気を纏って帰って来て、眠っている(ふりをしている)ぼくを時々じっと覗き込んだりする。
ひと月も続いた頃、我慢出来なくなって、ぼくはアタリの後をつける機会を窺っていた。
風のない、月の綺麗な夜。
足跡を頼りにアタリを追っていく。薄着のまま出て行った彼の毛皮の外套を抱えて。
アタリの姿は、家の少し先のひらけた場所で見つかった。意外に近くて拍子抜けでさえある。特に何もない場所で、何を、そう訝しんだ時、アタリの手元で何かがひらめいた。
月光に照らされ、淡く浮かび上がる白い扇子。
ゆっくりと半円を描くように回転する身体。軸はぶれずに指先まで真直ぐと伸ばされ、美しい角度を保っている。
時に月を仰ぎ、時に顔を隠すように、優雅な動きは繰り返される。下ろされたままの髪が、動きについて揺れた。
気が付くと、手に持っていた物も、自分の外套も脱ぎ捨て、アタリの横に並んでいた。
扇子はない。けれど、持っているつもりで。
アタリの動きをなぞる。思い出す。姫様に捧げる舞を。
きちんと思い出して、アタリの前に進み出た。向かい合い、もう一度初めから舞い始める。
今は月のものは来ていない。これは正式な神事ではない。
きっと、舞っても叱られたりしない。
舞うほどに熱くなる。周囲の冷えた空気は気持ちいいくらいだった。
気が付くと、アタリがじっとぼくを見ていた。
あんなに気を散らすなと叱ったアタリが。
「……アオバ」
「は、はいっ」
叱られる! と思わず首を竦める。
「俺の……俺の、子を産むか?」
「はいっ。ごめんな…………えっ?!」
予想外の言葉過ぎて、何を言われたのか解らなかった。
「ずっと、解らなかった。姫様の言うことが。誰が何を盗んだというのか。失態を犯したのは、自分なのに、何故アオバにまで罰を与えるのか。何もかもをアオバから取り上げようとするのか」
少し上がった息が白く月光に浮かぶのを、緩やかな動きではらって、アタリは懐から何かを取り出した。
指先で摘まむのは、丸く淡い虹色に煌めくもの。
「……アタリは、何をしたの?」
「姫様を見間違えた」
「え?」
どうして。いつも面を着けていて、そのお着物からも間違えようがない。
「だから、罰はちゃんと俺に向けてのものでもあったんだ。俺は選ばねばならない。朽ちるのか、離れるのか。どうする、アオバ」
「ぼくが決めるの?」
「まだ考えてもいい。けれど、もし、決められるのなら、期限ぎりぎりまで親子一緒にいられる。子を奪っていく理由もあれこれ考えなくてもいい」
「……アタリも一緒に?」
「俺が、父親でいいのなら。結局、アオバから子を奪うことには変わりない」
「でも、その子はお山で父さんといられるんだね?」
ゆっくりと、アタリは頷いた。
「いいよ。それならいい。アタリの子を産む。でも、どうして? 初めから、そうすれば話は早かったのに」
ふっとアタリは微笑んだ。
「……口を開けて」
摘まんだものを差し出されて、反射的に口を開ける。
ひょいと、アタリはそれを自分の口に放り込んだ。
え、と思ったのも束の間、あっという間にアタリの顔が近付いた。
塞がれた口に甘苦い塊が差し込まれる。一つの飴玉を二人で舐めるような状態に、息苦しくなってくる。
鼻に抜ける香りと、アタリの呼気が、初めて会った時嗅いだアタリの匂いと同じだった。
溶けきる前に、それは喉の奥に落ちていき、胃の辺りがぽっと熱くなった。
「アタ……アタリ、これ、何?」
「神事の前に口に含むものだ。荷物に入っていた。姫様が何故入れたのか不思議だったんだが……子ができやすくなる。たぶん」
「ぼく、舞の前にもらったことないよ?」
「子供には与えてはいけないと言われていた」
話しているうちに、身体の奥から熱が広がる。
「気を鎮めて考えるために舞おうと思ったのに、いつもの癖で口にして酷く大変な思いをした。宮では陽の気を増やすために使われるらしい」
「陽の、気?」
なんだか足に力が入らなくなってきたかと思うと、アタリに抱き上げられた。
「子供は陽と陰の気を持ってる。大人になると男は陽、女は陰と分かれる。姫様は女神だから、陰の気は足りているのだ。陽の気を補うのに男から気を分けてもらう。それが、姫様が男児を欲しがる理由だよ。今夜、一緒に舞ってようやく解った。アオバと舞うとアレを含まなくとも熱くなる。姫様が目覚めるはずだ。けれど、姫様は面白くないだろうな」
「……どうして?」
「姫様に向けた舞でなくなる。アオバのことしか、考えられなくなる。宮では、そういう衝動が気に昇華されているから……気付かなかった。全く、姫様の言う通りだ。俺が一番知っていた。アオバ、お前に心を奪われていると」
優しく抱締める腕と、柔らかく落ちる唇に、ぼくはふわふわした幸せに浸っていて、アタリが答えずにいたものがなんなのか、すっかり忘れてしまっていた。
※ ※ ※
その年の雪が来る前、少し早く子は産まれてきた。
パンパンになったお腹からは、小さいながらも元気な男の子が二人。
双子を嫌うところもあるけれど、産婆さんは賑やかになるねと笑ってくれた。
片方が乳が欲しいと泣くと、もう片方も泣き始める。バタバタと時が過ぎ、気が付くとアタリの髪が伸びていた。ずっと短い髷のようだったのに、結んでも肩に届くくらいに。
「アタリ……もう、行って」
子供達を寝かしつける背中に、そっと手を添えた。
朝も晩も泣くだけだった子供達も、三つになっている。そろそろ時間切れだと、物語っていた。
「そうだな……」
ゆっくりと寝返りを打って、ぼくを見上げたアタリは柔らかく微笑んで、そっと手に手を重ねた。
「アオバが、二人も産んでくれたから、片方はもう少し残していこうと思う」
「え?」
「成長を考えると、やはり五年。五年したら入れ替えてまた五年。ちょうど、独り立ちの頃までどちらかがアオバの傍にいられる。その後は、二人とも連れていくことになるけど」
「それで、いいの?」
「右近か、左近か、どちらが先に行くのか、彼等に聞こう」
次の日、二人を並べてアタリはどちらが先に姫様の元へ行くのか訊いていた。姫様の話は事あるごとに口にしていたので、説明もそう長くはない。
右近も左近も真剣に聞いていて、嫌だとか駄々を捏ねたりすることはなかった。もしかしたら、それも呪の影響なのかもしれない。
やがて、右近が手を上げた。
「ぼくがさきにいく。ぼくがおにいちゃんだから」
少し不安そうに右近を見る左近の肩に手を置いて、アタリは真面目な顔をする。
「じゃあ、左近は母さんを守る役だな。五年したら、交代だぞ」
きゅっと表情を引き締め、左近は頷いた。
「あと、右近は宮に着いたら左近と名乗る。名前も入れ替えるんだ。呼び慣れているから、大丈夫だな?」
だいじょうぶと頷く二つの小さな頭を、アタリはくしゃくしゃと撫でまわした。
子供一人と夫がいなくなったことを、誰も表立って訊かなかった。もとよりふらりとやって来て住み着いた一家だ。関わり合いになりたくなかったのかもしれない。
それでも、ぼくたちが手伝った田畑は鳥や虫の害が少ないと、仕事に困ることはなかった。小さいながらも左近も手伝いに出る。
あっという間に五年が経ち、カラスの先触れに従って、お山の中腹の原っぱまで左近を連れていった。
アタリに会えるかもと少しだけ期待していたけれど、彼は姿を現さなかった。代わりに右近を連れてきたクラマもどこか口数少なく、けれど何か言いたげな瞳でぼくを見下ろす。
「左近、頑張ってね」
「うん。大丈夫。右近、母さんを頼んだぞ」
「もちろん」
二人は五年も離れていたとは思えないほど息のあった様子で、パンと手のひらを合わせていた。
「クラマも、お願いね」
「分かっておる――ああ、面倒だ」
変わらぬ口癖に、少しだけ笑う。
村に戻った右近も左近と入れ替わっているなどと誰も思わなかったらしく、「少し大人びたな」なんて言われながら、すぐに溶け込んでいった。
冷夏や猛暑もあったけれど、村はぎりぎりのところで持ちこたえた。
家の井戸の水が涸れることはなく、時には魚が紛れ込んだりもして、右近も左近も姫様に可愛がられているのだと知れる。
右近との五年も、矢のように過ぎた。
五年前と同じように山の中腹まで右近を送って行くと、今度もクラマが迎えに来ていた。
「久しぶりね。クラマ。ご苦労様」
「ああ、苦労だ。なんと面倒臭い。ハズレめが、大ハズレにならなければ、こんな面倒なことはあやつに全て任せるのに!」
五年前とは違い、滑らかな懐かしい言いように、ぼくは思わず笑ってしまう。
けれど、その内容は気になった。
「アタリが、どうかしたの?」
「どうも、こうも。おぬしも解っておろう? 清い身体を保っておらねば、神事は行えん。それは、男も女も変わらん。チビどもの舞では姫様をお目覚めさせるほどのものにはならん。二人揃うたから、これからは少し良くなるかもしれんが……」
ぼくは息を呑む。
「男も……? じゃあ、アタリは、舞ってないの?」
「ないことはない。チビどもに教えておるからな」
右近を見ると、そっと視線を逸らされた。
「……言っちゃ駄目だってアタリが……」
「姫様も、また眠って?」
「大丈夫。左……ウコンと二人でちゃんと起こすから。母さんも知ってるだろ? アタリは舞に関しては、にこにこと笑いながら恐ろしく厳しいんだ。母さんも教えてくれたから忘れてないし、アタリをびっくりさせてやる」
「じゃあ、アタリが迎えに来られないのは、忙しいわけじゃなくて……」
「境界付近まで来てしまうと、帰れなくなる可能性があるのだ。ハズレでも、伊達に長く仕えていた訳じゃない。今いなくなられるのは困る。まったく、ああ! 面倒だ! この間だって、来られない理由くらい話せと言うたのに、ワシにまで呪をかけよって!」
きゅ、と胸が詰まる。
アタリは解っていたのだ。自分が子を作るということがどういうことなのかを。姫様の元に戻るのに、役立たずになって戻るというのがどういうことなのかを。
この場所で、呆然と佇んでいたアタリを思い出す。
それでも、アタリはぼくの言うことを聞いてくれたのだ。いなくなるのは嫌だと言った、ぼくの言葉を。
「母さん」
右近がアタリによく似た少し色の薄い瞳で見上げる。
「アタリから、伝言を預かってる。『次に生まれるのは女の子だから、安心して幸せにおなり』」
右近の声に、アタリの声が重なって聞こえる。
柔らかな絹の糸で包まれた気がした。
「あっ! まったく。ハズレめっ! そういう小賢しいことばかり得意になりおって!」
「えっとね、『
ぼくは温かな糸を感じながらも首を傾げる。
「でも、姫様の『呪』は消えてないよね?」
「盟約通り、生まれた男児二人が揃い、現在姫様は眠っておられる。ちょうど呪が弱まったところに、上から被せるようにかけたのだ。しばらくはアタリの呪の方が強く影響するだろうな。その後は、すっかり運に任せることになるだろうが」
詰まった胸が、急に膨らんだ。広がった想いは、押し出されてはらはらとこぼれていく。
笑顔で子離れしようと思っていたのに。
ちょっとずるいよ。アタリ。
「母さん……」
「……ん。大丈夫。みんな、元気でね。カラスを見たら手を振るから。アタリを、よろしくね」
最後に右近を抱きしめて(三人分って言ったら呆れられた)、泣き笑いで背中を押した。
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