良い子の皆さんは真似しないように

烏川 ハル

良い子の皆さんは真似しないように

   

 僕の右手は、興奮のあまり、わずかに震えていたかもしれない。

 昔の登山家は、山登りの理由を聞かれて「そこに山があるから」と答えたという。

 今の僕の心境も、それに近いのだろうか。

 男の本能に従って、右手が勝手に、山のような目的地へ向かって伸びていき……。

 しかし『山』に触れる寸前で、バッと右手を引っ込めてしまう。しかも、いったん自分のところまで引き寄せたかと思うと、またすぐに、そろりそろりと伸ばし始めて……。

 再び、引っ込める。そして再び、伸ばし始める。

 そんな右手のUターンを、僕は何度も繰り返していた。


――――――――――――


 しばらく前から、気になっていた清美きよみちゃん。

 同じ音楽サークルに所属する、同学年の女の子だ。

 夏合宿の自由時間とか、普段の練習後とか飲み会とか、ふと気がつくと二人で話をしている、というケースも増えてきた。

 もしかしたら、彼女の方でも、僕に好意を寄せてくれているのでは……?

 そんな淡い期待はあるものの、まだ「二人で遊びに行く」というほど親しくはない。ただ、特に用事もないのに電話をかけておしゃべりする、という仲になったことで、僕としては、確実に進展していると思えていた。

 そして、今日。

 いつものように長電話をしているうちに。

「好きだよ、清美ちゃん」

 どういう話の流れだったかは覚えていないが、思いもかけずに、僕は告白の言葉を口にしてしまったのだ。

 ただし想定外の行動とはいえ、この気持ちは嘘ではない。言ってしまった以上は、このまま突き進むしかない。

 相手から拒絶の意思を示される前に、思いのたけをぶつけることにした。

「明るくて優しい清美ちゃんは、僕にとっては女神様、聖女様だ。その名の通り、清く美しく……」

「私、あなたが思っているほど、清くも美しくもないわよ」

 僕の言葉を押し留めるかのように、電話の向こうから返ってくる声。それは、いつもより厳しい口調に聞こえた。

「だって私、つい最近まで彼氏がいたもの」

「……えっ?」

 驚きの声が出てしまった。いや清美ちゃんは魅力的な女性だから、彼氏なんていない、と決めつける方が失礼とも思うが……。

 動揺する僕の心を、彼女は、さらに激しく揺り動かす。

「ごめんね。私、清らかな乙女ではないの。もう経験してるのよ、いわゆるCセックスってやつを」

 今度こそ、僕は絶句する。

 別に女性の処女性にこだわるつもりはないが、今の今まで彼女は未経験だと思い込んでいただけに、大きな衝撃だったのだ。

 それでも、

「……だとしても、僕は清美ちゃんが好きだ」

 というのが、本心からの言葉だった。

 その気持ちは、彼女にも伝わったらしい。

「ありがとう。あなたなら、そう言ってくれるかもしれない、って思ったわ」

 さらに清美ちゃんは、こう続けた。

「私も、あなたが好きよ。……ねえ、これ以上は、会って話しましょう?」

 そういうわけで、清美ちゃんが、僕の部屋に来ることになったのだった。


――――――――――――


 童貞だった僕は、男女交際に関して、次のような青写真を描いていた。

 付き合い始めたら、まずはデート。数回のデートを重ねて、ようやくファーストキスだ。キスも数回は繰り返してから、いよいよ二人は結ばれる……!

 つまり。

 僕は性行為セックスにがっついていたわけではなく、むしろ、そこに至るまでの過程を大事にしたい、と思っていた。

 いや、思っていたはずなのに。

 いざ気持ちを確認しあった相手から「つい最近まで彼氏がいた」とか「その男と経験済み」とか言われてしまうと、胸の内にムクムクと対抗心が生まれてくる。早く自分も、そのラインに並ばないといけない、と思ってしまう。

 だから……。


――――――――――――


 僕たち二人は、部屋の壁に背中を預けながら、並んで座っていた。

 少しずつ、ずり落ちるような姿勢になり、いつのまにか二人とも、座っているというより、カーペットに寝転んでいる、という格好になっていた。

「……」

 会話が途切れて、僕に無言の視線を向ける清美ちゃん。

 未経験の僕でもわかった。これは、サインなのだろう。

 ならば、男としては、応じなければならない。これは「据え膳食わぬは何とやら」とは違う。お互いに「好きだ」と言い合った男女が結ばれるのは、愛に満ちた自然の行為なのだ!

 だから僕は、右手を彼女の胸に伸ばしたのだが……。

 その手を、何度も引っ込めてしまった。

 本当に、何度も何度も。

 正直、自分でもわからない。何を躊躇しているのか、何を迷っているのか。

 そうやって、僕が右手の逡巡を繰り返していると、

「……どうしたの?」

 清美ちゃんの声が聞こえてきた。

 僕は呆れられるのが怖くて、その瞬間まで目を合わせないようにしていたのだが、思い切って彼女の顔を見てみる。

 蔑むような視線ではなかったが、かといって、ロマンティックな雰囲気でもなかった。無表情に近くて、これから行為に及ぼうという目には、とても見えなかった。

 とにかく、何か答えなければならない。そう思った僕の口から出たのは、

「いや、ほら……。こんなことになるとは思っていなくて、何の準備もしていないから……」

 確かに避妊具ゴムは買っていないが、それだけが理由だったのだろうか。

 自分で自分を誤魔化しているような気分になったが、少なくとも彼女の方では、言葉通りに受け取ったらしい。

「はあ……」

 ため息を一つ口にしてから、彼女はバッと起き上がり、小さな鞄からゴソゴソと手帳を取り出す。カレンダーだかスケジュール欄だかを確認していたようだが、すぐに手帳を閉じて、また僕の隣で横になった。

「気にしないで。今日は大丈夫な日だから」

「大丈夫な日、って……?」

 慣れない僕は、つい聞き返してしまった。

「ハッキリ言わせないでよ。安全日ってことよ」

「ああ、ごめん……」

 恥ずかしそうな彼女の言葉は、むしろ艶っぽく聞こえた。

 その色気が、後押ししてくれたのかもしれない。再び伸びた僕の右手は、今度こそ、彼女の胸の膨らみに届いて……。

 一度到達してしまえば、もはや妨げるものは何もなかった。そのまま胸だけでなく、彼女の体じゅうを、僕は撫で回すのだった。


――――――――――――


 ちなみに。

 この初体験の思い出の中で。

 僕としては、最初の右手のUターンは煮え切らない態度であり、これこそが女性に嫌われるような情けない行動だと感じたのだが……。

 事が終わった後で彼女が指摘したのは、別の点だった。

「あなたも結局、AキスよりBペッティングが先だったのね……。前の彼氏と同じだわ」

 どうやら清美ちゃんは、胸の愛撫以前にキスされなかったことを、残念に思ったらしい。

 なるほど。

 そういえば、僕の『青写真』でも、キスを繰り返してからセックスに至るはずだったのだから……。

 あの時、何度も右手をUターンさせる暇があるくらいなら、その間に一度でも唇を奪うのが、一番の正解だったようだ。




(「良い子の皆さんは真似しないように」完)

   

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