紅葉

かどの かゆた

紅葉

 

 野球部をサボって、禁止されていた甘味を頬張る。

 温かいあんまんは、背徳感のある旨さだった。白くふわっとした生地はほんのり甘く、上品な黒の餡は、久しく感じることのなかった濃厚な甘みを感じさせる。


「はぁー……」


 コンビニエンスストアの前で、息を吐く。いわし雲に合流するように、口から白い息が立ち昇った。

 肌寒くなったなぁ、と思った。この前まで、夏空の下地獄のような特訓をしていたのに。今じゃジャージの上にウィンドブレーカーを着ているなんて。

 あんまんに付いていた紙を、握る。

 くしゃり。

 そのまま野球ボールのようにして、ゴミ箱へ丸まったそれを投げた。


「あ」


 冷たい風がぴゅうと吹いたかと思えば、俺の放ったゴミは、あらぬ方向へ飛んでいってしまった。

 あーあ。

 これじゃあポイ捨てになってしまう。

 追いかけねば。


「……拾うか」


 別に単にサボっただけで、用事があったわけじゃない。なら、ちょっとゴミ捨てに時間をかけても良いだろう。むしろ贅沢な時間の使い方と言えるかもしれない。

 そんなふうに考えながらゴミを拾っていると、ふと向かいの公園が目についた。俺が小学校の頃よく遊んでいた、広い公園。久々に見たけれど、綺麗な紅葉は未だ健在らしく、少し懐かしい気分になる。


「えーい!」


 遊んでいるのは、元気にゴムボールを投げる小学生男子と、高校生くらいの女子。どうやらキャッチボールをしているようだが、女子のほうがかなり下手で、まともに続いていない。

 ぼーっと見ていると、女子の方と目が合った。


「あぁ! 野球部!」


 唐突に指を差される。遠くだったから気が付かなかったが、どうやら知り合いだったらしい。


「ちょっとこっち来て! お願いだから!」


 道路を挟んでも大きすぎるくらいの声を出して、女子は俺を呼ぶ。通りかかった婆さんが俺をちらと見た。

 俺は今、野球部をサボっている身なので、あまり知り合いに会うのは好ましくないし、逃げたいのだが。


「えー! にいちゃん、野球部なの! まじ!」


 少年の純粋そうな大声が、俺の足を止めた。

 大方、俺はあの女子に「代わりにキャッチボールをしてくれ」と頼まれるのだろう。

 野球から逃げた先でキャッチボールをする。因果応報とはこの事か。俺はため息と共に、手押し式信号機のボタンを押した。


「思わず呼び止めちゃってゴメンね。どうしてもキャッチボールしたいってコイツが……」


 横断歩道の向こうで待っていたのは、クラスメイトの女子だった。隣に居る少年は、年の離れた彼女の弟らしい。聞けば、地元の野球クラブに入ったばかりだとか。


「まぁ、どうせ暇してたから、良いけど」


 言いながら、ゴムボールを受け取る。この手のボールに触るのは小学生以来だろうか。夏も冬もひたすら草野球に明け暮れて、「プロ野球選手になる」と嘯いていた思い出が蘇る。


「にいちゃんがキャッチボールしてくれんの!」


 俺がボールを持ったのを見て、少年はビー玉のような瞳を大きく広げた。


「ちょっとだけな」


 苦笑とともに頷くと、彼は飛び跳ねながら俺と距離をとった。

 少し遠くの少年を見ようとすると、自然と視界が公園全体に広がる。

 鮮やかな赤。

 地に落ちた紅葉の上で、少年が笑う。、


「ばっちこーい!」


 恐らく覚えたてであろう掛け声もばっちり。気合い充分である。


「よし! いくぞ!」


 こんなにも平和な気持ちで投球したのは、いつ以来だろうか。

 ぽすり。

俺の手から放たれた柔らかなボールは、緩やかに、確かな軌道で少年の小さな手に収まった。

 受け取って、投げる。単純作業だけれど、相手はどこか満足げで。俺も少しだけ笑顔が溢れた。


「野球、好きか?」


 ボールを受け取る。


「うん」


 ボールを投げる。


「じゃあ、将来の夢は野球選手か」


「当たり前じゃん!」


 ボールをしっかりキャッチして、少年は誇らしげだ。


「にーちゃんは違うの?」


「んー?」


「好きなんでしょ、野球! 野球部なんだから、さっ!」


 勢いよく、ボールがやって来る。胸に迫るような、鋭い球。何とかキャッチして、ゴムボールを改めて見ると、何だか呆れてしまって、自分を鼻で笑った。


「好きなんだよなぁ、やっぱ」


 ボールを持つ、ゴツゴツした自分の手。それが目の前の少年ほどの大きさだった頃を思い出す。


「どうしたの?」


 ボールよ来い、といった感じで、少年が手のひらをこちらへ向ける。

 寒さで赤くなった手は、まるで紅葉のようだった。

 それからしばらくキャッチボールを続けて、肩が温まった頃。少年は「次は壁当てだ!」と言って、公園にあるトイレの壁を使って練習をし始めた。

 立ち去るのが名残惜しく、俺はベンチに座ってそれを眺める。隣ではクラスメイトが缶コーヒーを啜っていた。


「なんかごめんね」


 本当に申し訳無さそうな声音だった。


「いや、別にいいよ」


 目も合わせずに返事をする。すると、視界の端に、悪戯っぽい笑み。


「野球部サボって暇してただけだもんね」


「……やっぱりバレてたかぁ」


 まぁ、バレない方がおかしいのだが。我が野球部はとんでもない強豪で、休みなど一つも無いことで有名である。本来、部員には一秒たりとも暇など無いはずなのだ。


「なんでサボったの?」


「サボりたかったから」


 短く答えて、空を見上げた。体勢がフライを見上げる時と似ていて、ボールが落ちてくるような錯覚を覚える。

 でも、ボールは落ちては来ない。

 本当は、ずっと前から、俺はこうして休みたかったのかもしれない。

 中学校ではエースだったけれど、強豪校での俺は、ベンチにも入れない雑魚に過ぎなかった。甲子園のマウンドには立てないし、プロにもなれない。いつか映画か漫画で見たような、宿命のライバルにも、本当の仲間にも出会うことはない。


「野球、あんまり好きじゃないの?」


 クラスメイトに聞かれて、俺は、自分の顔が少し困ったような表情を作ったのを感じた。


「好きだよ。残念ながら、どうしようもないくらいに」


 空を見るのを止めて、顔を正面に向ける。

 少年の練習はまだまだ続く様子で、冷えた赤い手に力を込め、躍動していた。

 俺の心のざわつきに呼応するように、強い風が吹く。

 ひらり、はらり。


「紅葉だ」


 辺りがスローモーションになったかと思うほどにゆっくりと、真っ赤な葉が宙を舞う。

 地に落ちればただの土くれになるだけのそれが、どうしてこんなにも、泣きそうになるほどに美しいのだろう。何も残さず消える定めだっていうのに、そんなに華麗に舞わなくったって良いじゃないか。

 赤い決意が、俺の胸に降りてくる。


「この公園、紅葉綺麗だよねぇ」


 隣の発言を無視し、俺はただ落ちていく紅葉を眺めた。

 サボって良かったと思った。

 明日から俺は、もっと頑張れる。

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紅葉 かどの かゆた @kudamonogayu01

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