四年に一度の水

静嶺 伊寿実

ペンション・キュリアスでのこと

  四月、雪と氷で覆われた季節も過ぎ、雪解け水が万斛ばんこくの量を流れ、木々が陽射ひざしに応える頃。北国のとある山奥では冬期の休館を終え、春になって再び客を招き入れ始めたペンションがあった。


 ペンション「キュリアス」。山と一体化しているように木で作られたログハウス風のペンションは、萩乃木はぎのきしんが四十代になって祖母から受け継いだもので、部屋数が三つしかないものの、いつも賑やかな声が響いていた。

 しんが三十五歳の時に射止めた十歳下の妻あやめは、元々都心部で接客業をしていただけあって、どんなお客さんとも明るく楽しげに話し、また酒好きが高じて作るお酒は評判が良く、しんの料理をさらに盛り立ててくれていた。


 今回泊まっている二連泊中のご夫婦は内藤さんと言って、しんの祖母の代から来泊してくれており、今回は四年ぶりの来訪だった。

 四年ぶりになった理由は、この山で四年に一度だけ湧き出る天然の炭酸水目当てだろう、としんは察しがついていた。


日本で天然の炭酸水が汲める場所は数少ないが、この山ではなぜか四年に一度しか炭酸水にしかならず、他の年は炭酸を含まないただの湧き水しか出なかった。四年に一度しか炭酸水が出ない要因は、雪の量や気温変化などが考えられたが、未だ詳しいことは分かっていない。ただ、この山の炭酸水はミネラル成分が多く、日本では珍しい硬度が高い硬水であるということだけが分かっていた。ちなみに普段の湧き水はそれほど硬度が高くなく、一般的な軟水に分類されている。

 この天然炭酸水を求めて四年に一度だけこの山にやって来て、十リットル五百円で売られている天然炭酸水を汲んだ後、しんのペンションに立ち寄ってくれる人もいる。この年にペンションを訪れる人の多くは、四年に一度だけ振る舞われる天然炭酸水のお酒が目当てだ。


 食材と天然炭酸水の調達を済ませたしんが車でペンションに戻ると、来客用の駐車場が空いていた。きっと内藤夫婦がどこかへ出掛けたのだろうとペンションの裏口を開けると、内藤テツユキ氏がペンションの台所に駆け込んで来て叫んだ。

「僕の水が無くなったんです!」


 濡れたままの髪を振り乱しながらあやめに迫る内藤氏は、鳩胸はとむねの迫力もあいまって大きく見え、線の細いあやめがより小さく見えるほどだった。しんは食材もそこそこに慌てて内藤氏とあやめの間に入った。

「内藤さん、ちょっと待って下さい。どうしたんですか」

「水が無くなったんです!」

 しんはひとまず内藤氏を落ち着かせることが先決だと理解した。

「ここではなんですから、レストランの方へどうぞ」

 しんが身体全体で促すと、内藤氏はレストランスペースへ移動してくれた。その間にあやめに目配せをして、飲み物を用意するように合図し、内藤氏が椅子に腰掛けたところでしんもその隣の椅子に座った。

 

「実はこちらで四年に一度採れる天然炭酸水のファンでして、昨日五リットル容器とペットボトルに分けて、十リットルを汲んで来たんです」

 間近で見ると内藤氏の身体は隆々に引き締まっており、半袖のリラクゼーション着から覗く腕は、毎日薪を割っているしんの腕よりも太い。十リットルの水を持つのなんて楽だっただろうな、と話を聞きながらしんは思った。

「このペンションにいる間も天然炭酸水を堪能したいと思い、一・五リットルのペットボトルを二本持ち込んで部屋で飲んでいました。シャワーを浴びる前に一口飲んだ時は、二本ともほぼ炭酸水が入った状態でした。けれど、先程シャワーから上がった時にペットボトルを持ち上げると、なんと二本とも空だったんです」

 内藤氏はその時の気持ちを思い出したのか、大きな溜め息をついて話を区切った。その時ちょうど、あやめがアイスコーヒーを内藤氏の前に差し出して、しんの隣に立った。一緒に話を聞くことにしたのだろう。

「ちなみに奥様は?」

 あやめが内藤氏に尋ねる。

「妻は散歩かバードウォッチングにでも行ったんでしょう。ちなみに妻が水を捨てたんじゃないと思います。ユニットバスは僕がずっと使っていましたし、窓から外を見ても濡れている様子はありませんでした。どこかに隠したとしても、あんな三リットルも四リットルも水が入る容器なんて他に無く、部屋にも変わったところはありません」

 そう言って内藤氏がコーヒーを口にすると、氷とグラスがからんと透き通った音を響かせる。

「そうでしたか。それは残念でしたね。もしよろしかったら私達が炭酸水を汲んで来ましょうか」

 しんは事態の打開を狙って発言したつもりだった。

「違うんです。水が無くなったことが残念なのではなく、誰がなぜこんなことをしたのかが不思議なんです。もしあなたや奥さんがなにか知っているなら教えていただきたい」

 実業家らしいこってり顔の内藤氏が目を見開いて凄んできた時、ドアベルがカランコロンと鳴って、内藤氏の妻のチカコさんが戻ってきた。「どうかしたんですか」と心配そうに駆け寄って来たが、なにやら重そうな荷物を持っていたので、二階の客室に移動しながら経緯を話すことになった。ちらりと見た限り、荷物の中身は図鑑や双眼鏡が入っていたので、やはりバードウォッチングだったようだ。

 内藤氏に促されるまま客室に入ったが、特にこれと言った不自然さは感じられなかった。一応窓の下も見てみたが、真下はテラスとなっていて、内藤氏の言う通り濡れた様子は一切無かった。

 森の風景を楽しんでもらおうと装飾を排した客室の内装は、北欧風のシングルベッドが二つにシェールランプがあり、窓の高さに合わせた金属の一本足テーブルが部屋のアクセントになっている。ちなみに、一階の薪ストーブだけでは二階を暖めきれないので、客室は全て床暖房が入っており、加湿器も設置していた。静かさを保つため、あえてテレビは置いていない。

 普段と違う点は、まだメイキングされていないベッドと加湿器にセットしておいたムスクの香りがしなかったこと、そして窓際のテーブルに空のペットボトルが二本置いたままなことくらいだった。ムスクはタンクに直接入れるタイプの香料だが、もしかしたら前回入れ忘れてしまっていたのかもしれない。

 振り返ると内藤氏は鼻息を荒くしてしんとあやめを睨んでいる。そこに来てしんはようやく内藤氏が自分達二人を疑っているのかと気付いた。


「奥さん、話してしまって大丈夫でしょうか」

 あやめが口を開いた。何を話すのかしんにも内藤氏にも分からなかったが、チカコさんだけは下を向いたままうなづいた。

「内藤さん、落ち着いて聞いて下さい。炭酸水はこの部屋から持ち出されていません」


 あやめは内藤氏の目を真っ直ぐ見たまま話した。内藤氏は反論しようとしたが、あやめが先に言葉をかぶせた。

「シャワーに入る前に加湿器が動いていたか覚えていますか?」

「動いていたかな、いや、動いてなかったような……チカコ、どうだった?」

「きっと動いていなかったと思います。そしておそらく、炭酸水はこの加湿器の中です」

 チカコさんが答える代わりにあやめが答えた。あやめが指差す円柱形の加湿器は水がたんまり入っており、今も蒸気を出している。確かにこの加湿器であれば五リットルは入る。

「奥様は内藤さんがシャワーに入っている間に炭酸水を加湿器に移し替え、近くの自動販売機まで一般的な炭酸水を買いに出掛けたのでしょう。先程持っていた荷物の中身は買ってきた普通の炭酸水だと思います。本来ならば内藤さんがシャワーを上がる前に戻って来ようとしたのでしょうが、運悪く今日は早く上がってしまい、炭酸水の入れ替えが間に合わなかったのです」

「ということはチカコが炭酸水を入れ替えたんですか。なぜ?」

 内藤氏は疑問が一気に溜まったのか、今にもキレそうな雰囲気だった。

「これは私の推測ですが、おそらく内藤さんは金属アレルギーではないですか」

「そうです。あなた、ごめんなさい」

 チカコさんが震える声でせきを切って話し始めた。

「夫は普段アクセサリーを付けないので気にしていませんが、実は数年前から金属アレルギーが酷くなってきてしまったのです。ここの炭酸水の成分が夫にとってアレルギー物質だと分かってから心配でしたが、夫はここのお酒を楽しみに仕事をしていましたし、なによりこのペンションが気に入っていました」

 消え入りそうな声は、抑揚が時折不自然になり、泣きそうなのを堪えながら話していることが伝わってくる。

「夫の楽しみを奪いたくありませんでしたが、夫の発疹はそれは痛々しくて、だから……」

「そうだったのか」

 内藤氏は妻に寄り添った。後から聞いた話だが、チカコさんは汲んで来た炭酸水を飲むたびに発疹が出る夫を心配して助言していたが、内藤氏が聞く耳を持たず、ストレスのせいだと一蹴していたらしい。

「だから昨夜、私に『夫にここの炭酸水を出さないで』と頼んで来られたのですね」

 あやめは優しくチカコさんに話し掛けた。そんなことを頼まれていたのかと驚いたが、内藤氏はもっと驚いたようだった。

「僕が飲んだあのお酒に、ここの炭酸水は入ってなかったんですか!?」

「はい」

「なんだ……そうだったのか。あんなに美味しかったのに、いやあ気付きませんでした」

 内藤氏は乾きかかっている髪をかいて、しん達に頭を下げた。

「本当に申し訳ありませんでした。なんだか僕ばかりが騒いでしまって。それにチカコ、心配してくれてありがとう。これからはもっと自分の身体に気を付けるよ」


「それにしても、君が謎を解くのは四年ぶりだね」

 しんはあやめと夕食の支度を始めた。じゃがいもの皮を剥きながらあやめは答えた。

「こんなの謎を解いたって言わないわよ」

「それにしても内藤さんはなんで気付かなかったのかなあ」

「お酒は雰囲気で飲むものだからね」

 あやめはどこか嬉しそうだった。

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四年に一度の水 静嶺 伊寿実 @shizumine_izumi

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