聖女の愛は、天使に捧ぐ
奏 舞音
聖女の愛は、天使に捧ぐ
とつとつと、おぼつかない足取りでエイマは神殿に連れられた。
毎日抱きしめてくれた両親は、もういない。
「……ふぇ、うえ~ん!」
まだ六歳のエイマにとって、両親以外の大人たちに囲まれて、荘厳な雰囲気の中を耐えることは難しい。
この神殿内では絶対に泣くな、と厳命されていたことも、悲しみと戸惑いの中にいるエイマにとっては重要なことではなかった。
「今すぐ泣き止め! 神のお怒りを買ったらどうするのだ!」
男に怒鳴られ、ますますエイマの涙は溢れてきた。
「おとうさぁん、おかあさぁん、どうして……おいていかないでぇ」
思い出すのは、最後に見た、両親の痛みを堪えたような笑み。
泣き続けていたエイマは気づかなかった。
周囲のざわめきが一瞬で消え、まばゆい光とともに現れた人智の超える存在に。
「君は、どうして泣いている?」
この世のものとは思えない美しい声に、エイマの涙はぴたりと止んだ。
そして、大きなその瞳が映したのは、穢れのない白を身にまとい、その背に白く大きな羽を持つ天使だった。
+ + +
そわそわと落ち着きのない足取りで、エイマは神殿内で待っていた。
十歳になったエイマは、少しずつ神殿での生活になれつつあった。
――あなたの白い髪は聖女の証です。
初めて神殿に連れられた時に淡々と告げられた言葉だ。
生まれた時はたしかに茶色であったはずの髪が、成長するにつれて白い色が多く混じり始めた。
その色を見つける度に、両親の顔が強張っていたように思う。
その理由は、娘が聖女に選ばれてしまったという決定的な証拠となるからだ。
聖女の髪には、神力が宿る。それは祈りとともに人々を救う。
聖女は純潔でなければならない。その清らかさで、悪しき闇を打ち払う。
聖女の生涯は神に捧げる。神の愛により、聖女は神力を得る。
神殿での厳しい規律による生活の中で、聖女たるや何かを教えられた。
そして、エイマは聖女として振舞うことを覚えた。
しかし、エイマが聖女として在ろうと思ったのは、この神殿のためでも、国のためでもなかった。
「やっと、あの方に会える……っ!」
この神殿に連れられ、聖女としての洗礼を受けることになったあの日を、エイマは生涯忘れることはないだろう。
聖女の洗礼――つまり、髪に神力を宿す儀式。
天上より神の使いが現れ、聖女に神の愛を伝えるのだ。
大泣きしていたエイマの前に現れた美しき天使の姿が、脳裏にずっと焼き付いている。
聖女の力を保つために、洗礼から四年に一度、天使は聖女のもとへ現れる。
そして、今日がその日だ。
神殿の本殿にはすでに聖職者たちは揃っており、聖女であるエイマの入場で扉は固く閉じられた。
静謐な空気の中、皆がじっと天使の訪れを待つ。
太陽光がステンドグラス越しに神殿内を照らしていたが、前触れなく、真っ白い光に包まれた。
「今日は、泣いていないのだな」
エイマの前に現れたのは、記憶と違わぬ美しい天使様。
中性的な声音は耳に心地よく、エイマはうっとりと目を細めた。
聖女に愛を伝えるという神の使いは、男性の姿形をとっている。
それは、聖女が人間の他の男に想いを寄せないようにするためともいわれている。
たしかにこれほどまでに美しい男性を知ってしまえば、地上にいる男たちは相手にできないだろう。
現に、エイマはこの天使に会うためだけに、聖女としての厳しい生活を耐え抜いている。
「四年前は、ご挨拶もできずにお恥ずかしい限りです。改めまして、エイマと申します。天使様に再びお会いできる日を心待ちにしておりました」
「そうか。また君を泣き止ませることになるだろうか、と思っていたがもう大丈夫のようだな」
にこりと薄く笑ったその顔の破壊力は、意識を保つのがやっとの代物だった。
しかも、その手には振ればカランコロンと音が鳴る、赤子用の玩具が握られている。
「……天使様、わたしはもうそんな小さな子どもではありません」
「それは失礼した」
「ですが、天使様がわたしのために持ってきてくださったのなら、いただいてもよろしいでしょうか」
恐る恐る告げたエイマに、嬉しそうに天使は微笑み、玩具を差し出した。
「もうこれで泣くこともないね」
その笑顔は地上にある宝石をすべて集めても同等になれないほど価値あるものだった。
そして、天使がそっと頭に振れ、優しく髪に口づけたことで思考は掻き消えた。
柔らかくて、あたたかなものに包まれる。
これが、神の愛というものなのだろうか。
ぼんやりと神力が自身の髪に満ちるのを感じながら、エイマは目を閉じた。
次に目を開けた時には、天使様の姿は消え、神殿内はいつもの冷たい空気を取り戻していた。
+ + +
逸る気持ちを抑えながら、エイマは神殿の本殿に向かっていた。
十四歳になったエイマの胸には、ある決意があった。
天使と言葉を交わせるのは、儀式の中のほんの数秒のみ。
四年に一度しか会えないのだから、もう少し側にいてほしい。
聖女として頑張る自分へのご褒美として。
それを今日、エイマはお願いするつもりなのだ。
いつものように天使の訪れを待つ。この時間はいつもドキドキする。
まばゆい光とともに現れた天使の姿を見て、エイマの中で会えない間に沸き上がった想いが爆発した。
「天使様! 大好きです!」
と、挨拶もすっ飛ばして聖女らしからぬ勢いで抱きついてしまったのである。
これには抱きつかれた天使様は目を丸くし、神殿内に整列していた聖職者たちの顔は青ざめている。
(お叱りは後で受けることにして。せっかくだから少しくらい堪能させて……)
しっかりとした筋肉を薄い布越しに感じる。天使にもぬくもりはあるのだということをエイマは実感していた。
「嬉しいことを言ってくれる。私が好きか?」
コクコクと激しくエイマは首を縦に振る。
「こんな風に抱きつかずとも、私は君の前から急に消えたりしないよ」
「本当ですか?」
エイマの問いに、慈悲深く、それでいて心臓を打ち抜く殺傷力抜群の美しい笑顔で天使は頷いた。
信じられない展開になった。
神の力を授ける儀式を終えれば強制的に天界へ帰らされてしまうから、という天使の一言で儀式を中断してエイマとの時間を作ってくれたのだ。
「それで、何か私に話したいことがあったのだろう?」
さすがは人外の存在だ。エイマの願いを聞いてくれる。
「はい。わたしは、はじめて天使様に会った日のこと、ずっとお礼を言いたくて……」
「君が泣いていたあの日だね」
優しい天使の声に、エイマは頷いた。
あの日は、聖女だと言われて両親から引き離され、二度と俗世には戻れないのだということを告げられた日だった。
幼いながらに、もう両親には会えないのだと理解して、ずっと泣いていた。
神殿の人々は皆、聖女としてエイマを扱う。そこに愛情なんてものは存在しない。
「両親と引き離されて、もう誰にも愛されないんだ、と泣いていたわたしに、天使様は言ってくださいました」
――私が君を愛するよ。君が聖女である限り。神がお許しになる限り……。
天使の言葉に、エイマは生きる糧をもらった。
眼差しはやわらかく、愛情をたしかに感じた。
時を重ね、その言葉を思い出す度に胸が高鳴り、心の奥底から愛が芽吹いた。
「天使様のおかげで、わたしは辛く寂しい日々を耐えられます。天使様の愛が、わたしの生きる力です。天使様を、心から愛しています」
神を愛さなければいけない聖女が、天使に愛を伝えた。
天使は困ったような笑みを浮かべる。
「……また、泣いてしまったね」
「ごめ、っなさい……」
愛しい人を困らせてしまったことと、絶対に許されないことだと分かっていたから、涙は次から次へと溢れてくる。
あやすような天使の手が、エイマの背中を優しく撫でる。
そして。
「泣かないで、愛する君」
ほんの一瞬、涙でにじむ視界に天使の美しい顔がアップになったかと思うと、唇にあたたかく柔らかなものが触れた。
口づけられたのだ。
理解した途端、エイマの涙はぴたりと止んでいた。
「君のことを忘れたことなどなかったよ。ちゃんと愛しているから、もう泣かないで」
――だったら、側にいて。
その言葉は押し殺した。
そろそろ時間切れだ、という天使の言葉で、神殿へと戻る。
髪に落ちる優しい口づけが、先ほどの唇への口づけを思い起こさせてエイマの顔は真っ赤に熟れていた。
しかしその相手は口づけた後、一瞬にして消えてしまった。
「また、四年後に会える日を待っています」
+ + +
天界に戻り、天使ルミエルは思わず微笑をこぼした。
「四年後、君はまたさらに美しくなっているのだろうね」
儀式として地上に訪れることができるのは、四年に一度。
しかし、天界から地上の様子を見守ることはできる。
エイマがルミエルのために、と聖女として日々頑張っているのを知っていた。
コロコロと表情がよく変わる、かわいい少女。
いつしか、天使である自分の役目以上に、エイマを気にかけていた。
しかし、儀式では神の使いとしての役割を果たさなければならない。
とは言え、最初から歴代の聖女にはしなかった特別扱いをしてしまっているのだが。
「聖女としての愛は神のものだが、もし生涯その愛を忘れずにいてくれたなら――」
聖女の魂は清く、その命が尽きた時には天界へ運ばれる。
新たな命として転生するか、天界人となるか、その判断は聖女の意思に委ねられるのだ。
彼女が天界を選んだ時にはじめて、ルミエルは本気で彼女を愛することができるだろう。
四年に一度の制限などなく、毎日側で抱きしめることも。
「君に会える日が待ち遠しいよ、エイマ」
四年後よりもずっと先の愛しい人へ、天使ルミエルは笑顔を浮かべた。
聖女の愛は、天使に捧ぐ 奏 舞音 @kanade_maine
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