第5話
「……あなたの愛する人に、逢わせます。ただし、死者に限り」
霧の中にいた。
街灯も灯らない、暗闇。雑草の生い茂る、廃れた駐車スペースに停まった数台の警察車両から、目の眩むようなヘッドライトが放出されている。
ペンライトに照らされた薄闇の中で、いまにも塵となって崩れ去りそうな、ぼろぼろの紙切れを摘まみ上げ、一人の警察官が淡々と文章を読み上げた。
「……あなたの命?…保障できません……。……ふうん」
彼さあ。
冷たい風が、吹いている。
どこかぼんやりした口調が、不意に自分に向けられたことに、馨は驚いた。
「狂いきれなかったんだろうね。可哀想に。…治療の結果が、これですか」
「容易ではないですよ」
冷静な香西の声が、周囲の闇に溶けていった。「たとえどれだけ複雑な、心の根が視えたとしても。私たちにできることは、限られています」
「彼の身に着けていた入院着の中から、アンフェタミンやMDMAといった成分の強い、向精神薬と呼ばれるものが見つかりました。中枢神経刺激薬が、果たしてこの患者さんにとって、本当に有効的だったのでしょうか…」
「何かの、間違いでは?我々が患者に投与していたのは、MDMA等とは真逆の作用をもつ神経遮断薬ですが」
「ともかく、何らかの手段で、患者はそれを入手していた。恐らくは向精神薬の影響で、幻聴や幻覚症状が悪化し、死の直前には熾烈な興奮状態にあったものと視られます」
「薬の影響で、錯乱状態にあったと?」
「錯乱……まさしく、その表現が相応しいのでしょう。……それで、この紙ですが………先生方が、木津…彼に渡したものですか?」
真っ白の指先の、薄汚れた紙切れが、風に吹かれて蠢いた。「担当の先生、看護師さんは…何か知りませんか?」
警察官の目が、少し離れた所で立つ加邉と看護師に、向けられた。
闇の中で、きつく眉を顰めながら、加邉ははじめて口を開いた。
「……その紙が、何か?」
「この文章……この場所が何なのか、ご存知ないですか?」
「十年前であるならまだしも、いまとなっては、すべては非現実的です。患者自身、それをよく理解していた筈だ」
「幻想の中で生きる患者にとって、現実も非現実も同じようなものでしょう」
「木津は、薬の影響に関わらず、日常的に自らを追い詰めていた。少なくとも私は、担当医として、全力を尽くしてきたつもりだ」
「この紙切れを彼に与えたのは、あなたではない。そういうことでしょうか?」
「その紙は……」
「特定の宗教団体及び詐欺師による、何かしらの収益目的で作られたものなのか、あるいは個人による悪意、単なる悪戯目的なのかは、まったく特定できていません」
「彼は結局……愛する人に、逢えたのでしょうか?」
静寂が、辺りを包む。
夜の帳。第三者の声に、その場にいる全員の視線が、集まった。
「文章の意味通りなら…彼は首を吊る代わりに、自らの愛する人に逢いに行った。いや……逆か。愛する人に逢えたからこそ、彼は自らを死に追い遣った」
唇から、溜息を催す息が、吐き出される。「それこそが、彼の浄福だったんでしょう。半狂乱になりながらも、彼が求めた唯一のものは、他の誰も叶えられるものではなかった」
「…だからって、アンフェタミンを接種していい理由にはならんよ、直季先生。覚醒作用のせいで高揚感を服用者にもたらすが、依存性が高い上に、退薬すれば自殺衝動までも引き起こす」
茶化すような香西の目が、碑石に向けられた。「二年足らずの研修期間じゃ、足りなかったかな?先生」
「中枢神経刺激薬の作用については、十分に理解しているつもりです。ただ…」
「ただ…?やだねえ、怖いぜ。こんな状況下で。先生は……」
「僕は、彼の死を否定しません」
沈黙。
警察官の、呆然とした貌。一瞬、加邉が唇を開いたが、言葉が漏らされることはなかった。
直季先生。にやけた唇が、そう呼んだ。
「マジでおっかねえぜ…。それはどういう…」
「そのままの意味です」
「そりゃあ、斬新だ。けれど、医師が、患者の死を肯定してどうする?」
「少なくとも、患者を死から遠ざけるのが、僕の役目ではありません」
「何?なんだって……」
「僕は、ただ寄り添うだけです。たとえ、彼らが死に向かっても」
吹く風に、ぽつぽつと雨が混じり出した。
眩いヘッドライトの前を、雨粒が、生白い閃光となって降り注ぐ。周辺の雑草と、廃れた教会の藍白の壁が、灯りに酷くぼんやりと照らされている。
唐突に、香西は嗤い出した。
ふと碑石と目が合い、馨はどきりとした。
動けない。ここが死の現場であることも忘れて、少しの間、馨は瞬きもできずにいた。
白い掌の中で、ペンライトの灯りが揺らめく。…消灯。
ゆっくりと、視線が逸らされる。
冷たい雨が、開いたままの瞼の中に潜り込んできた。
霧の街Ⅱ 見上げた先にあるもの @gooat
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