第4話
水のようなシャワーを止めると、冷え切った体にじんわりと体温が戻って来た。
体温が戻ると同時に、じくじくとした神経の痛みが、額に蘇って来た。
自らの、微かな呼吸音。気怠い瞬き。腕は、湿気を吸ったタオルをじっと持ったまま、少し前から動きを止めている。灯りの点いた風呂場にいるにも関わらず、周囲はまるで冷蔵庫のような冷気に満たされている。裸の体を壁に凭れ掛からせたまま、随分前から思考回路は止まったままだ。
昼間の、木津という患者のことが、頭から離れない。
なかなか、難しそうな患者だ。第一印象で言えば、たったそれだけの感想には違いない。
精神科において、暴力的な患者は特に珍しいものではない。かつての勤め先の医院でも、数々目にしてきた。
十分に、予測はできた筈だった。患者が突発的に他者に攻撃的になることは、この分野の医師でなくとも、いとも想像するに容易いだろう。
けれど、動けなかった。
思考すら、すべてを奪われた瞬間だった。
「悪魔」
舌の廻らぬ口で、彼はそう言い切った。
はっきりと、自分に向かって。
……ただ……。
患者ではない第三者の声が、幻となって鼓膜に渦巻く。
あなたは……自らが悪魔であることをお忘れのようで……。
目線を、上げていた。
タオルを落とし、風呂場のドアを開く。
濡れた体のまま、バスタオルには目もくれず、リビングへ足を踏み入れた。
部屋の隅、床上に寝そべる鞄の前で立ち止まると、水分にふやけた指先でファスナーを開き、迷わずそこへびしょ濡れの手を差し込んだ。
折り畳まれ、鞄の底でしわくちゃになった紙切れを探り当て、引っ張り出す。
息を吐く。
紙を開こうとすると、目先のソファで電話の着信音が響いた。
駆け寄り、咄嗟にスマホの時刻を確認する。すでに、深夜一時を廻っている。
「……深夜に、申し訳ありません。椎堂先生、木津……306号室の患者のことで……」
電話の向こうで、木津の担当看護師と思われる男の声が言った。「……緊急です。香西先生と碑石先生も、いまこちらへ向かっています。加邉先生一人の手には、負えません。警察も……」
「……落ち着いて。何が起こっている?」
「患者が、脱走しました。警察も、すぐに到着します。お願いします、早く……」
「解った。すぐに病院へ向かう」
「病院では、ありません」
何かに怯えるように、看護師は言った。「……廃屋です。病院から車で十分ほど、近くに私立煉岐高校があります。立ち入り禁止の、……いま、警察が……」
通話はそこで途絶えた。
嫌な予感を抑えながら、馨は急ぎシャツを頭から被った。
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