第3話
「精神科は主に第一、第二病棟の二つに分かれていて、全二十九床、第一病棟を通称“一般”と私たちは呼んでいる。“一般”は、症状が比較的安定している患者のための空間で、現状二十一床ほど設けられている。対して第二病棟は、重症患者……興奮など感情の激しい起伏、勁烈な妄想や幻覚症状を有する……のための施設になっていて、八床のうち半分が隔離室、もう半分が身体合併症にも対応したHCU(高度治療室)となっている。……隔離室と言っても、恐らくはあなたが想像するようなものじゃない。物理的にかつ強制的に身体を拘束する……従来そうするのが一般的だが……身体ではなく、私たちが行うのは“精神の拘束”だ」
階段の中央で、無数の血痕で薄汚れた白衣を翻して、香西ははじめて自らの二メートルほど後ろを歩く馨の方を振り返った。
目が合う。その瞳は薄暗い天井の灯りに照らされどこか爛々としていて、単なる眠気や疲労とは異なる狂気、もしくはパラノイアを彷彿とさせる。
「たとえば、マインドコントロールと呼ばれる手法があることは有名だろう。支配者と被支配者における関係のもとに成り立つものだ。仮に支配者を医師、被支配者を患者とすると、私たちは一時的に患者の思想をコントロールし、強制的に彼らの精神状態を我々の意図する結果へと導くことを可能とする。飽くまでも一時的にだ。惑乱、あるいは薬物による混迷、錯乱、忘失……患者を暴力的にさせる原因がいかであろうと、関係はない」
「それは……」
あからさまに眉を顰めながら、馨は言った。「要するに、どんなことをするんです…?」
「レベルは患者にもよるが、患者自らで自らの精神を責めさせる」
淡々と香西は言った。「無自覚、程度に関わらず、誰しも後ろめたさや罪の意識は持っている。解り易く言えば、そこにつけ込むということだ」
「具体的には……」
「たとえば……混乱状況における興奮が治まらず、暴れる患者Bに私はこう言った。優しく……“例の彼が足に怪我を負ったのは、決してきみのせいじゃない。そもそも、きみには到底解らないだろう。きみにとってはそれがかすり傷でも、彼にとっては自らの命よりも大事なものだったということを”……。途端に患者は、血の気が引いたように大人しくなった」
天井の蛍光灯が、数回点滅した。
馨は思わず、息を呑み込んだ。
「まるで、悪夢のようですね」
「そうでなくてもね。常に彼らは、悪夢の中にいるようなものだ」
「そのような手法を、ここでは全員…?」
「全員だ。といっても、医師は三名しかいないが」
「碑石先生も…?」
「ヒセキ先生?ああ。彼、従順そうに見えるだろう?」
不意に鼻息を荒くして、皮肉げに香西は嗤った。「なかなか毒のある人間でね。同じことを言ったら、私の白衣を指して……それがこの血痕の結果ですか?……だとさ。ウケるだろう?」
笑い声が、不気味に廊下を反響する。目の前の白衣にこびり付く、墨のような血液の染みから、馨は目を離せなかった。
一人の看護師が、死んだような貌で一礼をして、二人の前を通り過ぎてゆく。
馨が沈黙していると、ぴたりと香西は笑うのをやめた。
「…患者の一人を紹介しようか」
思い出したように歩き出し、香西の手がゆらりとipadを掲げて見せた。「担当に関わらず、患者データは、基本的にすべての医師と一人の師長に共有されている。院内の情報共有のため、ipad自体は看護師を含めたスタッフ全員に配布されているが、電子カルテを閲覧するにはパスワードと虹彩認証が必要で、これは限定されたスタッフにしか配布されていない。外部流出は論外、コピーや持ち出しも禁止、なお登録に関することは事務長から事前に説明が行っていると思う。……さて、三階西、この廊下を行った先の、306号室。二人部屋のうちの一人で、現在は加邉先生…もうすぐ退職の…が担当している患者だ。一年近くドーパミン拮抗薬の投与歴があるが、患者の意思による中断を繰り返し、最近は離脱症状が目立っている。幻覚症状あり、とうに成人しているが、その影響で大分幼さを感じさせる。引継ぎで、椎堂先生、あなたにお任せすることになる」
階段を上り切ると、薄暗い廊下に灯りは数基しか点いていなかった。
言われた通りの306号室と思われる病室の前に、人影がぼんやりと佇んでいた。
「……いまは、駄目だ」
馨に向かって、嗄れた声で、白衣を着た老人は言った。「危険な状態だ。最近、比較的安定していたが、このままでは限界があるだろう」
「このままでは?」
香西が、言葉を繰り返した。「いつものように、コントロールが甘いのでは?薬は。ちゃんと飲んで貰っていますか?」
「甘い?甘いだって?まさか」
自嘲的に唇を引き攣らせて、その瞳が香西へ移された。「そもそも、薬物療法にしろ、限度というものがある。…わかるだろう?これ以上の神経、精神圧迫は、修復が効かない」
「修復する必要がありますか?」
平然と香西は返した。「ここは一般棟ですよ。生半可な治療対応は、他の患者さんの迷惑になります」
「すぐにでも、彼を第二へ移す必要がある。他の患者やスタッフに危害が及んでからでは遅い」
「そこ、どいて頂けますか。私が診ます」
「脱走する可能性だって…」
「カルテからしても、彼のレベルで隔離は必要ありません」
躊躇いのない腕が、加邉の背後へと伸ばされる。簡単に、鍵の掛かっていないドアは開かれた。
加邉の恨めしいような視線が、自分へと向けられていることに、馨は気が付いた。
得体の知れない気まずい空気を感じながらも、それを無視し、香西の後へと続く。
「……木津さん」
二十畳ほどの病室の一角。
白いカーテンを潜り抜けて、香西が患者の名前を呼んだ。「どうしました?まだ、頭がぼんやりしますか?」
「くる……来るな……来るなよ………・…」
ぶつぶつと、患者は呟いた。衣服の股間部がぐっしょりと濡れている。「わかんねえ……わからない……明後日…昨日?………今日……」
「あなたにとっては、一昨日から、時間が進んでいないように思えるでしょうか。ご心配なく。二日間眠っていたので、感覚が狂っているのです。厳密には、薬の効果で、時間間隔が鈍っているとも考えられます。それから、何度もいいますが、失禁は恥ずかしいことではないのですよ。現状、コントロールすることは難しいでしょう。薬が効いている証拠です。すぐに、着替えを用意しましょう…」
「ねむ……もう眠りら……くない……」
「なぜ?」
「あく……あくまに会うから…・・」
「悪魔。それは怖いですね…」
「会いたくない……起きていたくない……」
「それは、なぜ?」
「悪魔が、いる……」
「悪魔?どこに……」
「おまえら、だよ」
呂律の廻らぬ患者の眼光は、鋭かった。
微笑を浮かべたままの香西の横で、馨は閉口した。
「おまえら……おまえら……だよ……」
「落ち着いてください。何も心配は要りません」
「あ、く、ま!」
唐突に、患者はベッドから跳ね起きた。
鈍い衝撃とともに、馨はその場に倒れ込んだ。
怒号のような呼応。入院着を乱した男が、自分に馬乗りになり、唾を飛ばし何かを喚いている。状況を把握できないまま呆然としていると、次の瞬間には、慌ただしく加邉と二人の看護師が病室へと入って来るのが見えた。
殴られたと自覚したのは、看護師の一人がガーゼのようなもので自分の額に触れ、紅い染みが滲んだそれを、目の前に見せつけられたからだ。
「……落ち着いて……。私たちが、あなたを否定することは、絶対にありません。何があっても、私たちはあなたの味方です。悪魔の存在に、何も怯えることはないのですよ」
状況に不釣り合いな、含み笑い。
頭上で、昏い瞳が、患者を見下ろしていた。「ただ……あなたは、自らが悪魔であることをお忘れのようですが」
まるで、患者の表情から生気が失われてゆくようだった。
みるみるうちに、その目から涙が溢れ出した。
「あく……おれ……おれ………」
「大丈夫ですよ。さあ、ベッドに戻って」
「シ………わか……らない……ごめんなさい……」
「あなたが誰であろうと……たとえ誰を……に追い遣ろうと……私はあなたの味方です」
「ごめ……んなさい……ごめんなさい………」
縋るように掴んできた腕を、香西は優しく振り解いた。
患者が泣きじゃくりながらベッドに戻るのを確認すると、香西は病室の隅に苦い貌をして立ち竦む加邉をちらりと見遣った。
嗚咽。喧噪。
あとはお願いします。病室に、香西の声が木霊した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます