フェアリー・テイルは向こうがわ

柳なつき

小さなキトリー

 少女に、四年にいちどの誕生日がやってきた。



 明日から、三月。

 空気の透き通る、二月の最後の日。


 快晴。寒さだけが、まだ冬の余韻を大きく残している。

 夕方というにはまだ早く、あかるい青空が住宅街のうえに広がっていた。


 二月二十九日生まれの少女――キトリーはいま下校中で、鼻唄を歌っている。

 子どもが歌っているとちょっと微笑ましくなってしまうような、おとなの歌だ。


 赤いランドセルを背負った背中が、歩みに合わせて揺れる。母親から受け継いだガーデン・グリーンのまっすぐな髪、それを真っ赤なりぼんで結んだひとつ結びも、ぴょこぴょこ揺れる。



 帰り道。

 平凡な住宅街。

 突き当たりを、右へ曲がる。


 あと三分も歩けば家に着くとキトリーは身体からだで覚えきってしまっている。

 がちゃんがちゃん。ぴょこんぴょこん。ランドセルも、髪も、キトリーの歩みに合わせて左右に動き続ける。



 鼻歌がやむ。

 歩みがすこし重たくなる。

 あのひとが、いるかもしれないから。




「にいちがに、ににんがし、にさんがろく……」



 気をまぎらわせるために。

 キトリーは、九九の練習をはじめた。キトリーはごく普通の頭脳をもった小学二年生だ。二年生のうちに九九をマスターしたいですねと小学校の先生たちはみんな言っていた。


 正直もう九九なんて長くやりすぎていてやっぱり、うんざり、だったけれど、でも仕方ない。それに、もうすこしで三年生にあがれる。やっとだ――やっと。キトリーは、八歳になれるこの誕生日をどれだけ楽しみにしていただろうか。

 成長したい。すこしでも早く。早く……。



 そして――自宅の、おとなりのおうちの玄関の前に。

 やはり、そのひとがいることを、キトリーは知った。



「あら、キトリーちゃん」



 おとなりさん――二十四歳のマリンダは、キトリーに向かって微笑みかけた。真っ白のエプロンを着て茶色の髪をざっくりポニーテールにまとめている。

 ご機嫌な笑顔は、むかしからちっとも変わっていない。柔らかく、優しく、すべてを包み込んでくれるかのような女性、マリンダ。


 キトリーは小さく会釈した。いればいいな、いなければいいな、でも、いた……そう思っているキトリーに、マリンダはしゃがみ込んでキトリーを抱き寄せ頬ずりしたのだった。おまけに、髪だの頬だのもみくちゃに撫でまわしてくる。



「わっ、わっ、わっ」

「つれないのねえ。わたしとキトリーちゃんの仲なのに」

「はな、はなして」

「はなしませんー」

「からだが大きいからって、ずるいっ。……マリンダちゃん」


 すると、じゃれてくる力が、すこし、弱まった。


「……そうね、わたしはキトリーちゃんと違って、ずるいわよね。わたしは大きくなってしまったもの。二十四なんて、そんな歳、自分でも信じられない。……おとなになるって、こんなもんなのよね、とかね、思うのよ」

「もう、むすめだって、いるくせに」


 マリンダは三年前に結婚して、二年前に子どもを産んだ。

 あんなにキトリーのうしろをついてまわっていた、おくびょうなマリンダは、もうお母さんだ。


「キトリーちゃん。お誕生日、おめでとう。ねえ、今日はクッキーを焼いてみたの。キトリーちゃんのためによ。このあいだのケーキもおいしかったでしょう? ねえよかったらこれからうちに来ない? キトリーちゃんのためにわたし――」

「……こどもあつかいしないで」


 腹が立った。やたら、むしゃくしゃした。そんな猫なで声で。そんな言い聞かせるようにして。ふざけないでほしい。


「そう、そうよね。キトリーちゃん、子ども扱いされたらいやよね。ほんとだったらわたしたちみたいに、おとなのはずなのに――」

「……かえる」



 キトリーは背を向けると、ぱたぱたとまっすぐ家のなかに入った。

 キトリーちゃん、まって、と背後から聞こえたけれど。キトリーは、完全に無視した。

 ご機嫌な気持ちはどこかへ吹っ飛んでいた。




 部屋に入って、ベッドにぽすんとダイブした。

 涙が、勝手に溢れてくるのだった。




 マリンダの、うそつき。

 ぜんぶ、うそだったんじゃん。


 だんしなんかより、キトリーちゃんがいちばんすき、っていって。

 キトリーとけっこんしようねって、いったのに。



 キトリーのおよめさんになるって、いってたのに……。




 キトリー・ブレステアは、三十二年前に生まれた。

 しかし、戸籍上でも、実質的にも、いまちょうど八歳になったところだ。


 フェアリー病。

 新しい時代に入って、突発的に起こりはじめた、原因不明の超難病だ。


 うるう年だけに存在する二月二十九日、この日に生まれた人間は、なぜかほかの人間と比べて成長速度が四倍遅くなってしまう。


 肉体や精神、それに知能や脳の発達にかかる時間も四倍になるため、基本的には発達段階を先取りすることはできず、そのあいだの時間ずっとおなじ発達段階に留まらなくてはならない。要は子ども時代がすごく長くなるということだ。

 キトリーも、八年前に小学校に入って、いま二年生の終わり。

 ここからさらに小学校を卒業するまで、十六年かかるだろう。


 フェアリー病のメカニズムは、不明である。

 政府は対症療法として、二月二十九日に子どもを産むことをなるべく避ける方針でいるが、なにぶん、子どもの誕生の日ばかりは現代科学をもってしても完全にはコントロールできない。結果として、フェアリー病の人間は、毎年一定数は産まれ続けているのだった。




『キトリー、映像メールだよ、映像メールだよ。おしゃべりしたいって、したいって。いい?』


 パソコンのしゃべる通知のお知らせで、キトリーは目を開けた。

 泣き疲れて、気がついたら眠ってしまっていたらしい。あたりはもうすっかり真っ暗だった。


 キトリーは頬を手でぬぐい、立ち上がって、電気をつけた。パソコンに手のひらをかざすと、一瞬で起動する。


 動画の再生が始まった。金髪のおとなの女性が、笑顔で手を振っている。


『ハーイ、あなたがキトリー・ブレステアさん? ワタシはファイミといいます。フェアリー病なんだ。百年以上かけて三十歳になったのよ。ねえ、アナタとしゃべりたいわ』


 キトリーはこくんとうなずくと、ひとさし指をかざした。すると通話がスタートする。


『いきなり、ゴメンねえ。いまワタシはフェアリー病のみんなに呼びかけているの。フェアリー病って、とくに子どものときはさ、つらいことが多いわよねえ。そうじゃない?』


 キトリーはどう答えればいいかわからなかった。


『だからね、ワタシはね――』


 ファイミが、キトリーにもわかるように説明したことは。

 フェアリー病の人間だけが集まる国をつくって、そこで暮らそうということだった。


『フツウの人間のほうにワタシたちが合わせているから、つらいのよ。だいたいワタシたちは二月二十九日に生まれただけで、なんの罪もない。ワタシたちは、フェアリーのみんなだけで生きればいい。苦しむ理由なんてないのよ。みんなと、おんなじふうに成長していくの。それってスゴク素敵でしょう?』

「ねえ」


 ずっと無言だったキトリーが唐突にしゃべったことに、ファイミは驚いたようだったが、すぐに笑顔で続きを促してくれた。


「ちっちゃいころ、フェアリー病で、つらかった?」

『そうねえ』


 ファイミは顎に手をあてた。


『……もう、むかしのことすぎて、あまり覚えてないんだけど。すごく、さみしかった気がする』



 すごく、さみしかった気がする――。



『あっ、ごめんね、そろそろ次の子におはなしをしてこなくっちゃ。キトリー・ブレステアさん、ぜひとも、考えておいてね。フェアリーの子ならだれでも大歓迎なんだから』



 そうして、通話は終わった。




 夜中。

 キトリーはパジャマ姿のまま、マリンダの家のインターホンを押した。


 ごそごそする気配。がたがたする音。


「……はあい?」


 眠そうな声。マリンダの声だ。やっぱり、こなければよかった。そう思うのに口は勝手に動いていた。


「キトリーです」


 キトリーの、子どもらしい、か細い声。

 すこしのあいだ、完全な静寂があった。

 そうして、やがて、がちゃりとドアが開いた。



「……キトリーちゃん。どうしたの」



 マリンダは立ったままだと、キトリーよりずうっと背が高い。

 だから、見上げざるをえないのだ。


 あんなによわむしだったくせに。

 あんなによわむしだったくせに。

 マリンダちゃんなんか、マリンダちゃんなんか――



「マリンダちゃんなんかだいっきらい」



 キトリーはそう言うと同時に、その腰に、脚に、しがみついていた。



「マリンダちゃん、ずるい、ひどいよ。よわむしで、おくびょうだったのに、いまはうそつきで、おとなだから。みんなキトリーおいて、かってにおとなになってく!」



 マリンダは、しゃがみ込んだ。

 キトリーに視線を合わせて、やっぱりあの優しい顔で、すべてを理解して包み込むかのように、全身を抱き寄せた。



「ねえキトリーちゃん、あなたにプレゼントを用意してたんだよ。お菓子、いまからでもいいよ、キトリーちゃんに、食べてほしいな。おうちのひとにはわたしが連絡しておくから、だいじょうぶだし」

「プレゼントなんかどうでもいい。おかしなんかどうでもいい。やめて。やめて。やめてやめてやめて。はなしてよう。うそつき。ばか。うらぎりもの」

「ごめんね、キトリーちゃん……わたしばっかりおとなになっちゃったよね。つらいよね。ごめんね……」




 そのとき、キトリーは、強烈に悟った。



 ……わたしは、もう。

 マリンダちゃんを、泣かせることができないんだ。

 悔しがらせることも、怒らせることも、……ほんとのほんとに嬉しがらせることも、できないんだ、と。




「さみしい」




 呪文をとなえるように、キトリーはゆっくり言った。

 さきほどのおとなの女性が言っていた、……すごく、さみしかった気がする、という言葉。




「……さみしい」




 ぽつり、と漏れたひとしずくのような言葉に。

 おとなの大きな手が、そっと、少女の頭のうえに載せられた。

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フェアリー・テイルは向こうがわ 柳なつき @natsuki0710

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