花はかく語りき
星灯
第1話
楚の民謡が聴こえてから数刻が経ったころ、項羽軍八百余名は薄羽蜉蝣のような饗宴に酔っていた。
項羽の幕に招かれた左右は皆、美酒に舌鼓を打ち、即興の詩歌、流行の謡曲が彼の頭上を飛び交う。
酒を舐めつつ様子を眺めていた項羽が腰を上げると、その腕にすぐさま女がしなだれかかった。柳のような肢体は雪のように白い連絹のごとく、漆を点じたような瞳に僅かしずくを浮かべた女は項羽を見上げる。
「項羽さま、どちらへ行かれるのでしょうか」
「少し様子を見に行くだけだ」
「虞も供したく」
そのまま幕を出ていく項羽に付き従う虞美人を、ひどく酔った男がぼんやり見つめていた。項羽の寵愛を一身に受け、戦場では先頭で睨みを効かせていた、天女の如き彼女も所詮は人間でしかなく、明日にもその身は露と儚く消えるのだと。
項羽は車座になって座る雑兵の中を縫って歩いた。身分に隔たりがあるとはいえ、誰も彼も家族に、また故郷に別れを告げて、ここまで自分に従ってくれた
陣中に悲哀の色は見えず、炎に照らされた白い顔は、そのどれもが己の運命を受け止め、研ぎ澄まされた刃、早朝の凪いだ湖面のようであった。項羽は度々立ち止まっては声をかけ、兵を労い士気を上げた。
明日、項王軍は漢軍の包囲を抜ける。
幕に戻った項羽を、赤ら顔の左右が迎えた。項羽は彼らに勧められるがまま、次々に杯を空けていく。
いつから己は覇道を外れてしまっていたのだろう。楚を再興させることだけを願い、ひたすらに最善と思われる道を邁進してきた。
それなのに今、こうして敵軍に囲まれて、頼れる味方は残り幾何もいない。
項羽は幕の中心に立った。左右たちが動きを止めて項羽を注視する。空を仰ぐ項羽の顔には、深い苦悶の皺が刻まれていた。
力山を抜き 気世を蓋ふ
時利あらず 騅逝かず
騅の逝かざるいかんすべき
虞や虞や
祖国を奪われた悲しみに暮れた項羽は、自らの力不足を責め、憤り、嘆きを込めて繰り返し
「嗚呼、虞や虞や若をいかんせん──」
幕舎の中で、ぐわんぐわんと反響した音が、突然ふつりと消えた。左右は一人残らず目頭を押さえ、顔を上げて二人の姿を見られる者はいなかった。
深く暗い水底に沈んでいくような、逃れられない沈鬱さが辺りに漂う。
虞美人の美玉を重ねたような顔は蒼白で、噛み締めた唇の朱さとの対比に目眩がする。
項羽のしとどに濡れた睫毛が微かに震え、いくつも細かな傷のついた武骨な手が、ゆっくりと天下第一剣の柄に伸ばされた。
「この先は、ただ破滅へと向かう道である。虞や、可愛いお前を連れていくのは心苦しい。なれば今ここで、楽にしてやりたいと私は思う」
誰かが細く息を呑んだ。静まり返った空間で、虞美人はかぶりを振り、冷えた項羽の手に自分の手を重ねた。
「いえ、いえ、項羽さま。どうしてこれ以上、あなたさまに背負わせることができるでしょうか」
「愛しいお前が蹂躙されるのを、黙って見過ごせとでも言うつもりなのか」
「いいえ、わたくしの
「なれば虞よ。お前は私に何を求めるのだ」
「──何も」
そう言って天下第一剣を奪い取り
虞美人はすぐに見付かった。彼女は漢軍を、そしてその先にいる劉邦を牽制するように、見晴らしの良い高台にひとり立っていた。
「私は、虞は、ここで項羽さまを待ちたく思います」
月明かりに照らされた細く青白い喉に、鈍く光る刃があてられる。視線を受けて、赤子ほどもある重さの剣を、震えもせずに片手で支え、一切の躊躇なくそのまま勢いよく曳いた。あっという間の出来事だった。
赤黒く、粘度の高い液体が緑を染める。重力に従い地に伏した虞美人のからだへ項羽が駆け寄った。
「何故だ、何故、こんな」
愛しい女が呼び掛けに応えることはない。失われていく温もりを抱いて、項羽は声を上げ咽び泣いた。瑞々しく潤いのあった虞美人の肌は、枯れ木のような質感に変わり、たっぷりとした艶やかな黒髪が次々に抜け落ちる。
虞美人のからだは、既に原型を留めていない。余りにも速すぎる崩壊を項羽が訝しんだとき、薄く女の歌声が耳に届いた。項羽は目を見開く。
最早土くれになった懐中のそれから、ひょこりと双葉が覗いた。又から同じように柔かい芽が現れ、毛が生えてふさふさとした茎が伸びる。先端に蕾がついた。花の成長はまだ止まらない。とうとう開いた、優雅に曲線を描く薄い花弁は、まるで朱を塗ったかのように赤く染まっていた。
「虞や、虞──」
項羽がまた一滴、花弁に水滴を落とす。花は可憐にからだを揺らした。
「わたくしは後にも先にも、人間ほど醜悪ないきものはみたことがありません」
「約せずして信あり。わたくしは、愛しいあの方を、ここで待ち続けます」
荒野に揺れる、一輪の花があった。
二千年以上も前から、枯れることなく咲き続けると伝えられる、その花に与えられた名は──。
花はかく語りき 星灯 @ningyonoyume
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