第3話 いざやうたえ、むくの子よ
「そうだったの。お気の毒……だったわね」
「私の身の上を気の毒だと思って下さるのなら、どうか安らかな死を私へ賜り下さいませ。もう……私は疲れてしまったのです」
お願いです、と死を
「決してあなたのお目を汚すようなものはお見せいたしません」
「あら、自信があるのね。いいわよ、あたしが気に入ったら、何でも言うことを聞いてあげる」
さあ、あなたは何を見せてくれるのかしら。そう歌うように言われて、少女はすっと背を伸ばした。息を整え、手足の隅々まで気が行き渡るよう、集中する。一つ息を吸っただけで、体中の痛みがすうっと消えていく。呼吸一つで様子が変わった少女を見て、神はほう、と面白そうに眉根をあげた。
「
口上を終えた少女がふわりと袖を
香に迷う 梅が
花に逢瀬を待つとせの
明けて嬉しき
開く初音のはずかしく
まだ解けかぬる薄氷
雪に想いを深草の
百夜も通う恋の闇
君が情けの仮寝の床の
少女がうたっていたのは端唄と呼ばれるもので、人々の間で親しまれている恋唄の一つだった。待ちわびていたあなたからの文を開けるのは気恥ずかしい、まだまだ薄氷のような壁があって打ち解けているとは言えないけれど、それでもあなたを想っています――そんな風にうたう、ようやく初恋を知った少女の瑞々しい恋唄。少女が一番好きな唄だった。
いつか、こんな恋をしてみたい。自分を必要としてくれる人に想われ、一生添い遂げたいと想う人を見つけたい。そんな願いはついぞかなうことがなかったけれど、うたうときだけはどんなひとにだってなれた。ほんのひとときの自由と、幸せを与えてくれるもの。それが少女にとっての『うた』だった。
「……まずは、年若いあなたにあたしを満足させるだけの芸が務まるか、と侮ったことを詫びましょう」
少女が歌い終わってから呼吸二つ分だけ間をあけたのち、神は枝からふわりと舞い降りた。詫びる言葉とは裏腹に、彼女はとても厳しい表情で眉をつり上げ、口をひき結んでいる。手を伸ばせば触れられるくらいまで距離を詰められ、少女は一歩身を引く。その距離を更に縮められて、もう一歩下がったところで、背にとんと木の幹が当たった。
ああ、自分はこの方のお眼鏡にかなう芸が出来ず、殺されるのだ。そう覚悟するほどの、厳しい表情だった。自分で死を乞うておきながら情けなくなるほどに、恐怖で体がこわばる。さあ、殺すならどうぞひと思いに、と目をつぶって待つこと数瞬。神がとった行動は、少女が全く思いもしないものだった。
「──怖がらなくて良いわ。さあ、こちらへおいでなさい」
ふいに優しく手を引かれ、少女はやわりと抱きしめられた。驚きに目を見開き、慌ててその腕から逃れようとしたが、びくともしない。ふわっと鼻をくすぐったのは、
こんなにも優しく扱われたのは、一体いつぶりだろうか。家を出て十年、泣く少女を叩く者は数知れずとも、優しく抱きしめてくれる者は居なかった。久々に触れる温もりに涙する少女にそっと顔を近づけ、神は優しく耳元へ
「……見事な芸だったわ。二度と聞けなくなるのが口惜しくなるくらいに」
さっきのお願い、撤回しない? そう言われて、少女は目を見開いた。賞賛の言葉は過去に数多くもらえども、彼女の言葉は何より胸に響いた。花街から逃げ出してきて、捕まって死ぬか、身請けされて死ぬか、自ら命を絶つか、そのどれかしか選べないと思っていた。そのどれでもない選択肢を差し出されて、死への覚悟が揺らぐ。
もし、まだ自分が生きていることに価値を感じてくれる人がいるのなら。そんな希望はとっくに捨てたはずなのに、彼女の言葉が呼び水となり、温かいものがじわじわと胸に広がっていく。
「あなたがその命を要らないというなら、あたしに頂戴? 花街になんて、戻させやしないわ。ずっと傍にいて、あたしのためだけにうたってよ」
「あなたの、そばに……?」
「ええ。そうよ。あたしだけの歌姫になって」
その言葉に、少女の瞳からは大粒の涙が溢れた。
いつか。自分自身と、この歌声を気に入ってくれて、一緒に生きたいと願ってくれる人が現れたなら。その時は、全てをその人に捧げようと自分に誓った。けれど、そんな風に少女を見てくれる人は生涯現れず、女としてしか必要とされない自分に絶望を抱いた。所詮、自分の歌声はそんなものだったのだと言い聞かせ、希う事を諦めたのに。
これは夢なのだろうかと涙する少女の、雨と泥に塗れた髪に口づけが落とされる。汚れてしまう、と少女が身を引くまもなく汚れは全て消え去った。極彩色の刺繍が彩る絹の衣。艶やかな
足元の水たまりに身を映してみた少女は、自分の変貌に目を見張る。花街一の花魁でも、これほど豪奢な衣装に袖を通したことはないだろう。絵巻でしか見たことのない、お姫様のような衣装。夢のような、と形容するのも恐れ多いほどの待遇だった。
「あなた、名前はなんて言うの。桔梗じゃなくて、本当の名前」
「私の、名前……」
「あるでしょう、家族から呼ばれていた名前が」
少女は記憶の水底奥深くにしまっていた、数少ない幸せな日々をそっとすくい上げる。思い出すのは、家族が少女の誕生日を祝うために、いっぱいのご馳走を用意してくれたときの記憶だ。辛い日々に負けないよう、時たま思い出していた記憶は、今も色あせずに少女の胸の内にある。その声も、温かさも、料理の美味しさも、すべて。少女に今まで生きる希望を与えてくれていたものだった。
「私の名前は……むく、椋、です……!」
はっと思い出したかのように、椋は二度、三度と己の名を口にした。神の桜色の唇が、その名を紡ぐ。とてもあなたにぴったりな名前ね。そう囁く声が耳元で聞こえたのち、少女はそっと腕の中へと閉じ込められた。何度も名を呼ばれ、椋はほたりほたりと涙を落として幸せそうに笑う。それはまるで、今までその名で呼ばれていなかった時間を埋めるかのような。そんな優しさと幸せに満ち足りた時間だった。
「どんな穢れにも染まらぬ無垢な子よ。さあ、あたしのために歌って頂戴。いつまでも、ずうっとそばにいて」
「ずっと……おそばにいて、うたいます。あなた様のために」
声を震わせて誓う少女に応えるように、神は磨き抜かれた
「──あたくしの名は、
そうして少女は神のものになった。
大雨が降った次の日の朝。花街の人々は、街中を練り歩く奇妙な花嫁行列を見たというものが数多くいた。大勢の女たちが担ぐ
ある妓楼の主はあんぐりと口を開けたまま、神の花嫁行列だ、とだけ呟き、気を失ってしまった。これは私の花嫁だと叫んで行列に乱入し、花嫁を奪おうとした男がいたが、周りを取り囲む女たちに邪魔をされて、川中に投げ捨てられてしまったという。天女の声を持つ太夫が神に見初められて嫁入りした話は「良い人に見初められたいのなら芸をしっかり磨け」という教訓として、後世まで花街の中で語り継がれたそうだ。
次の春、しだれ桜のそばには一本の椋の木がそっと芽吹いた。桜に寄り添うようにすくすくと育った椋の木は、いつも歌うように葉をさやさやと鳴らしていた。その音は山を通る者の心を癒やし、また体を休める木陰となって、末永く旅人を助けた。仲睦まじく寄り添い枝を伸ばすしだれ桜と椋の木は、数百年後朽ちて土に還るときまでずっと一緒だったという。
いざやうたえ、むくの子よ さかな @sakana1127
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