第2話 昔語り
『──姉より、ずっと声も器量も良いね。この子にするなら、相場の2倍出してあげるよ』
その言葉が、少女の運命を変えた。まだ七つになったばかりの、
『特技を磨かねば、この世界では使い捨てられるただの駒になってしまうよ。それを、よく覚えておおき』
そう言って厳しい稽古をつけてくれたのは、花街の女たちに芸事を仕込む役の老婆だった。少女の声に惚れ込んだ彼女は、内緒で他の女たちよりも多く稽古をつけてもらった。おかげで見習い時代の
そうやって少女は春をひさぐ女たちの中で必死に生きるすべを身につけ、今日まで生き延びてきた。いつか借金をすべて返し、元の家に戻りたい──その願いだけを胸に、ずっと。生き延びた、という言い方になるのは、文字通り少女が何度も死にかけたからである。
年頃になり、遊女が一人前になるために行う水揚げの相手を店が探し始めた頃。嗜虐的思考を持ち、気に入った女を痛めつけることに興奮を覚えるという客に目をつけられた。
『――女の悲鳴を浴びるのが、一番若返るんだよ。君は良い声をしているねぇ』
そう言って彼は少女を買い上げ、自分専属の遊女として囲った。数日ごとにやってきては、首を絞められ、縛られ、殴られる。見えない服の下に火傷やあざを作ったり、意識が飛ぶのはもう毎回のことだった。それでもその客が上客として扱われていたのは、ひとえに誰も払えないような大金を落とすからである。
少女はその男に水揚げをされ、「
唯一生きるよすがにしてきた希望が絶望に変わったのは、ふた月ほど前のことだった。
『ある武家くずれの家にね、先日物盗りが家に押し入ったらしいんだ……これ、何か見覚えはないかい?』
桔梗を買った男がそう言って差し出した遺品は、一枚の羽織だった。物盗りに斬られたのだろうか、羽織は一部が裂け、どす黒く血の色に染まっている。なんて酷い、と思いながら視線を滑らせたその先。見覚えのある家紋に、桔梗は声もなくくずれ折れた。間違いなく、その家紋は桔梗の家のものだった。
震える声でその家の人々は、と問うと、『残念ながら、誰も助からなかったと聞いたよ』と彼は答えた。それは、いつか年季が明けたら家族の元へ帰りたい、というひそやかな夢を潰えさせる通告だった。呆然と座り込む桔梗へ、男はとびきり甘い
『天涯孤独の身は寂しかろう。君を身請けして、ここから出してあげるよ』
男の声はじわじわと染み込む毒のように絡みつき、桔梗の体を縫い止めた。なんて酷い、地獄への誘いなのだろう。この男で無ければ、遊女の誰もが夢見る言葉なのに。そうして、桔梗は己の死期を悟った。きっと、男に身請けされれば、今の何倍もの
『僕の可愛い小鳥さん。ああ、今日はどんな声で
甘く掠れる声とともに、男の指がじわじわと首へ食い込む。ぼんやりと意識が霞む中、桔梗は確かに男が呟いた言葉を聞いた。
『──やっと君が手に入る。色々骨を折った甲斐があったよ……』
その言葉で全てを悟った。ああ、家族は桔梗のせいで死んだのだ、と。この男が、一人の遊女を手に入れて慰み者にしたいという、くだらない理由で。
空気を求めてあえぐ唇から、乾いた笑いが漏れる。桔梗の小さな最後の夢は、そんな理由で叩き潰されたのだ。胸の中へ、深い絶望が広がっていくのを、ただ桔梗は受け入れた。
少しでも多くの空気を吸おうと胸を必死に上下させながら、桔梗はうっすらと笑みを浮かべる。私の味わった絶望の、ほんの片鱗だけでも、この男に与えられたなら。そう願わずにはいられなかった。折檻用の
(──この男に髪の毛一本だって、与えてなるものか。身請けされるくらいなら自害するか、足抜けして男衆に
そうして桔梗はずっと、機会を伺ってきたのだった。徹底的に刃物類は排除されていたので、早々に自害するのは諦めた。代わりに身請けが決まり内外へ発表された後に、足抜けをしてやろうと決めた。体面を非常に気にする男には、きっとそれが一番効くはずだった。逃げてしばらく行方をくらましたあと、花街へ戻る。どうしても身請けされるのが嫌だったのだと声高に叫んで狂人になった振りをすれば、より一層話題へ上るに違いない。花街の掟で狂人と足抜けは死刑だと決まっている。これだけ条件が揃えば、あの男も桔梗を身請けしたいとは思わなくなるだろう。それで復讐は完成だ。
身請けの話は、驚くほどあっさりと進んでいった。妓楼を出ていく日も決まり、準備は粛々と進められていく。その中で桔梗は息を詰めて、ただ機会を待ち続けた。獲物を狙って息をひそめる獣のように。
好機だ、と思ったのは、滝のように雨が降る夜のことだった。近くの川が氾濫しそうで、多くの男衆がその対処に終われている。そんな話が耳に飛び込んできたとき、逃げるなら今しかない、と思った。
部屋を共にする
思いのほか桔梗付きの禿は長いこと楼主に言いつけずにいてくれたらしい。目指した門前まで来てもまだ追っ手がかからないままだった。花街の中心部から一番遠いこの門は、人手が足りないときは門番がいなくなることもある。全く困ったもんだよ、と楼主が番頭にこっそり零していたのを桔梗はしっかりと覚えていた。半信半疑でその門を目指したのだが、楼主の言葉通り門の所へ見張りがたっている様子は見受けられなかった。
かくして桔梗は誰にも知られることなく、花街から逃げおおせることが出来たのである。まるで、神の思し召しのような奇跡だった。今まで頑張ってきた自分に、最後の最後で少しだけ、ご褒美をくれたのかも知れない。そんなことを思いながら、門を出てからは脇目も振らずにずっと走り続け、気付けばここの桜の木の下へたどり着いていたのだった。
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