いざやうたえ、むくの子よ

さかな

第1話 雷雨の夜に

 空を雷光が引き裂く。おくれて地響きのような雷鳴が空気を震わせていく。途切れることなくたたきつける雨の音と、泣き叫ぶような風の音が混じり合う、酷い嵐の夜だった。普段ならどの家も戸を固く閉じ、息をひそめて雷雨をやり過ごすのが常である。だが、今夜の花街に限っては、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「――どこだ、探せ!」

「女一人の足だ、まだそう遠くは行っていないはずだぞ!!」

「必ず捕まえて連れ戻せ!!」


 幾人もの男衆が街中を走り回り、怒号が飛び交う。それを見て、花街の女たちは息をひそめながら、足抜けだ、とささやき噂をしあった。今度はどこの子だ、と興味津々で言葉を交わす女たちにとって、もはやそれは一種の娯楽話のようなものだった。


 同時刻。花街の数少ない門の一つを抜けた先の、小さな町はずれ。鳴り止まぬ雷鳴を背に、闇夜の中を必死で走る少女がいた。ぬれて張り付く衣が気持ち悪いと思う暇も、泥だらけの足の痛みを感じる余裕すらもないほど、ただただ足を動かし、走り続けていた。


 バシャバシャと水を跳ね上げて走って行く男衆をやり過ごし、誰も追いすがってこないのを確認してからまた走り出す。松明が使えないほどの豪雨は恵みの雨だった。少女の姿も、足音も、息づかいも。全て雨と闇夜が消してくれる。暗闇を引き裂く稲光におびえながら、少女はただひたすらに走り続けた。ただ遠くへ。街から離れたところへ。それだけを胸に無我夢中で走った。


 重い衣も、鬘も、装飾品も、すべて。全部脱ぎ捨ててきたのに、思うように身体が動かない。何度も木の根に足を取られ、滑っては転び、身体を打ち付けた。それでも立ち上がって、また走り出す。手足は木々の枝でひっかかれ、ずきずきと痛みが広がっていく。いったいそれをどれほど繰り返しただろうか。気づけば、少女はどことも知れぬ山の中にいた。


 もう走れない。そう思って足を止めた先に、うすぼんやりと桃色に光る場所があった。すわ待ち伏せかと身構えたけれど、少女が近寄っても人が飛び出してくる様子はない。一体何だろうと興味をひかれて近づくと、少しひらけた場所に一本の大きなしだれ桜が居を構えていた。


「うわあ……きれい」


 豪雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。慈雨は花びらを散らすことなく、ただしとしとと優しく降り注いでいる。どこに明かりがあるのだろう、と周りを見回すが、灯籠や提灯の類いは一切見当たらない。はらりと落ちた花びらがゆっくりとその光を無くしていくのを見て、少女はようやく光の正体に気付いた。桜の木の周りだけが灯りをともしたように明るいのは、桜から舞い落ちる花びら全部が発光しているからなのだ、と。


 おいで、といわれたような気がして、少女はぼんやりとその大樹を見上げる。もう何をする体力も残っていなかった。よろよろと最後の力を振り絞り、根元に倒れ込む。寝てはいけない。もっと遠くまで逃げなければいけない。そう思うのに、身体は意思に反して眠りの泥沼へと沈んでいく。死ぬ前に見る光景がこんな美しいものであったのは、神様が最後に贈り物をしてくれたのかもしれない。そう思いながら、意識の最後のひとひらを手放そうとしたときだった。


「――あなた、死にたいの?」


 一人の女の声が、少女を眠りの淵から呼び戻した。さやさやと葉擦れする音のような、耳に心地よい声だった。あとすこしで眠れたのに。そんな恨みがましい気持ちで閉じた目を無理やりこじ開けると、一人の女が桜の枝に座ってこちらを見下ろしていた。


「死にたくなんてない。でも、もう動けないから……少しの、間だけ……」

「もしかして、あそこから逃げ出してきたのかしら?」


 すい、と女が手を上げ示して見せた先は、先ほど少女が逃げてきた方向だった。煌々こうこうと光を放つ、夜の街。やがて追っ手にこの場所が見つかるのは、きっと時間の問題だろう。そうなれば少女は連れ戻され、酷い折檻せっかんを受けて殺されるのだ。春をひさぐ街で育った少女は何度もそれを見聞きして知っている。貧しい下級武士と駆け落ちするのだと嬉しそうに告げた姐さんも、ほんの少しで良いから郷里に帰りたいと言っていた同い年の少女も、心を病んで逃げ出した禿の子も。誰もみんな帰ってこなかった。


「……花街あそこにいても、なぶり殺されるだけよ。死に方ぐらい自分で決めたいの」

「ふうん、そう。変わった人間ね」


 決死の覚悟を興味なさそうにあっさり受け流した女は、うっそりと目を細めて笑った。少女は少しむっとしながら、あなたは誰なのと問いかける。あたしに興味があるなんてますます変な子、と女はきゃらきゃら笑って、言葉を継いだ。


「あたしはここのしだれ桜よ。神さま、なんて名前で呼んでくれる人間もいるけど、本当のところはどうなのかしらね……?」

「桜の……まさか、咲夜さくやさま……?!」

「あぁ、そうそう。そんな名前だったわ」


 うふふ、と嬉しそうに笑う女の言葉に、少女は仰天して跳ね起きた。しだれ桜の神、通称咲夜様と呼ばれる神の事は、花街の住人なら必ず知っている。花街の東に位置する山に生えている、一本の大きなしだれ桜だ。花の時期、よく晴れていれば桃色に染まる木が花街からでも見える。それぐらい大きく、また1000年もの間朽ちず毎年花を咲かせている、と言われる木だった。その奇跡のような大樹には神が宿っている、と言われていた。花街の女たちが祈りを捧ぐ、芸事と美容、そして縁結びを司る神である。


『良い方に見初められて身請けされるよう、よくよく拝むんだよ』そう言っていたのは、まだ花街に入ったばかりのころよく面倒を見てくれていた姐さんだった。まだ少女が一人前の遊女になる前に病にかかり、あっという間に儚くなってしまった人である。病床にありながら、最後まで少女のことを気にかけてくれている人だったので、よく覚えている。もし、この目の前にいるのが姐さんの言ったとおりの神様であるならば。少女は覚悟を決めて、深く息を吸い込んだ。


「――咲夜さま。もし、私があなたの気に入るような芸が出来たら、私を苦しまずに死なせてくれますか」


 咲夜様は、芸事を司る神だ。『彼女が気に入るような芸ができたら、願いをひとつ叶えてくれる』と聞いたことがある。もしもそれが本当なら。そう一縷いちるの望みをかけて、少女は願いを口にする。ぎゅっと目を閉じて、手を胸の前で組む少女の様子が哀れに見えたのだろうか。条件付きではあるものの、その答えは願いを受け入れるものだった。


「あなたはなぜ死を望むの? 教えてくれたら、考えても良いけど」

「……希望が全てなくなってしまったから、です。父さんも母さんもみんな……誰も、いなくなってしまった……そして私は半月後、身請けされるんです」


 静かに諦念ていねんの情を瞳に浮かべ、少女は語りはじめた。胸に抱いていた小さな夢も、ほんの一欠片残っていた希望も全部叩き潰された、少女の人生を。

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