清らかなるもの/魔なるもの

斧寺鮮魚

清らかなるもの/魔なるもの

 ――――憧れていたのだ。

 心から、あの人に憧れていたのだ。

 他の誰よりも、あの人に。

 本当に本当に本当に、心から。


 美しい女性ヒトだった。

 艶やかな金髪は滝のようで、白い肌は陶器のよう。

 鋭い美貌は、例えるなら――――いいえきっと、何物にも例えられないほどに美しかった。


 優れた女性ヒトだった。

 類稀なる剣と銃の腕を以て、若くして銃士隊隊長の座に上り詰めた。

 誰も彼女には敵わなかった。

 巌のようなオーガだって正面から打ち勝って見せたし、五十歩離れた人間の耳飾りだって撃ち抜いて見せた。


 そして、気高い女性ヒトだった。

 国中の憧れである銃士隊の長であるに相応しい、高潔な精神の持ち主だった。

 人々のために刃を振るい、平和のために弾丸を込める。

 悪を滅し、善を尊び、弱きを守る。寝物語に語られる、気高い英雄の姿だった。



 嗚呼――――なのに、どうして。

 どうしてですか。

 どうしてなのですか。

 どうして貴女が、魔に堕ちてしまったのですか。

 魔へと身を堕とすことを代償に手にした力には、それほどの価値がおありでしたか。

 誰も貴女には敵わなかった。

 だというのに、それ以上の力に価値を見出されたのですか。


 あの日、追いすがる私に対して向けられた視線を覚えている。

 鋭い翠の瞳は真紅に染まり――――その瞳に乗っていた感情は、きっと嫌悪。

 なにをそこまで、憎く思われていたのですか。

 貴女に憧れて銃士になりました。

 貴女に憧れて、精進して参りました。

 少しでも貴女に近づけるように、少しでも貴女のお役に立てるように、精進して参りました。

 あの憎悪は、私に向けられたものだったのですか。

 それとも、別の何かに向けられたものだったのか。


 今となってはもう、確かめる術もない。

 あの人はもう、王都から去って行ってしまった。

 今は魔族の将兵として、砦をひとつ預かっているのだと、そう耳にした。


 ……嗚呼。

 わかっています。

 貴女がどうして、魔に魅入られたのか。

 誰も貴女には敵わなかった。

 そのはずの貴女が、あの日魔族に敗北したことを、存じております。

 誰よりも強いことで称賛されてきた貴女は、誰よりも強くは無かったのです。

 それがどれほどの衝撃だったのか、どれほどの喪失だったのか、どれほどの絶望だったのか。

 私にはわかりません。

 けれど、それが悲劇の引き金だったのだと、わかってはいるのです。


 嗚呼、隊長。

 誰よりも立派で、私が心から焦がれた貴女。

 どうして、どうして、どうして。

 その言葉が、ずぅっと私を捕らえて離しません。

 わかってはいても、どうしても。


 どうして、魔などに身を堕としてしまったのですか。


 どうして、王国を裏切ってしまったのですか。


 どうして、魔族などに従っているのですか。



 どうして――――――――私を連れて行っては、くれなかったのですか。




   ◆   ◆   ◆




 敵襲があった、と報告があった。

 執務机……とは名ばかりの、乱雑に略奪品が積み上げられた机を離れ、緩慢な動作で部屋を出る。

 砦、とは名ばかりの施設だ。

 所詮我らは魔族の尖兵。

 人から魔に堕した将が率いる、雑兵の群れ。

 いいところが山賊だろう。

 多少腕に覚えのある者であれば、容易に侵入を許す程度の防備。

 今まで幾度もそのようなことがあり、その度に私が手ずから蛮勇の報いを受けさせてきた。

 挑む勇者のひとりやふたり、まるで相手になるものか。

 私が人であったころ、この身は無双と讃えられていたのだ。

 それが魔族に魂を捧げることで、人の領域を超えたものが私なのだ。

 もはや人間では、私を倒すことはできない。

 できてはならない。そんなことはあり得ない。

 人の頂点であった私が、さらなる高みに至るために人であることを捨てたのだ。

 それを証明するために人間を切り伏せる度、後ろ暗い優越感が私の中に満ちていくのを感じていた。


 かつては輝きを放っていた金髪は、冷たい銀色に変わっていた。

 かつては鮮やかな翠であった瞳は、鮮血の如き真紅に染まった。

 かつては雪のように白かった肌は、穢れによって褐色に変じた。


 鎧を身に着ける。

 剣を佩き、長銃を背負う。

 かつ、かつ、と鉄靴てっかが廊下を叩く。

 外へと出れば、幾人もの手下どもが屍を晒していた。

 それを冷たく一瞥し、侵入者へと意識を向ける。

 さぁ、今回はどのような勇者が現れたのか。

 僅かな期待を乗せ――――私はすぐに、悔いることになる。



「――――――――お久しぶりです、隊長」



 嗚呼――――その顔を、覚えている。


 宝石のように輝く黒髪も。

 海のように深い蒼眼も。

 決意に満ちた相貌も――――どうして、忘れようものか。


 私がかつて銃士隊の長だったころ、私によく懐いていた部下のひとりだった。

 若くして才に満ち、素直で、実直で、勤勉で、きっと誰よりもひた向きな女だった。

 私の後継は彼女になるだろう、と内心ながら思っていた。

 彼女は私の後を継いで、人々をよく守ってくれるだろうと思っていた。

 きっと、誰もがそう思っていた。

 あり得たかもしれない、幸せな未来の姿。

 その結末を裏切ったのは、他ならぬ私自身。


「……ああ。久しぶりだな」


 絞り出すように、けれどそれを気取られぬように、私は返事をした。


「元気だったか――――などと、悪趣味が過ぎるか?」


 皮肉げで、酷薄な笑みを浮かべる。

 どんな気分なのだろうか。

 己を裏切ったかつての隊長を前にする、ということは。


「銃士隊を抜けました」


 ……嗚呼。

 そのことを、責められまい。

 元より隊長が魔族に堕ちたとあっては、立場も悪かろう。

 そうでなくとも、決意も揺れよう。それで当然だ。

 彼女は酷く悲しそうな、しかし感情の冷え切った顔で続けた。


「貴女に会いに来ました、隊長」

「……なんだ、お前もこちらに来るか?」

「いいえ」


 短く首を横に振ると、彼女は低俗な魔物たちの血で塗れた剣を鞘に納めた。

 降伏?

 否。そうではない。

 その瞳は氷のように冷え切っていたが――――かつてと同じように、決意に満ちた瞳であった。


「一年後」


 朗々と、高らかに。


「また来ます」


 堂々と、厳かに。


「隊長。今日はご挨拶に伺ったのです。一年後の今日のため――――――――」


 彼女は銀の鎧に拳を打ち付け、その蒼い瞳で真っ直ぐに前を見つめ、宣言した。



「――――――――貴女に、決闘を申し込みます」



 ……それが、今から一年前の話である。




   ◆   ◆   ◆




 そして、一年が経過した。


 決闘の約束を一方的に取り付けて去って行った彼女は、宣言通りに再び砦までやってきた。

 そのはずだ。

 その、はずなのだ。

 これは――――彼女である、はずなのだ。


 嗚呼――――――――なんだ、これは。


 砦に現れたは、あまりに――――あまりに、あまりに。

 と、それが真っ先に浮かんだ言葉。


 嗚呼、夜の森にも似ておぞましく黒い長髪は、顔の半分と肉体のいくらかを覆い隠している。

 まるで外套のようだった。頭髪という外套を、上からすっぽりと被っている。あるいは、闇を纏っているかのような。闇が歩いているかのような。


 嗚呼、深き深き海の底のような暗い蒼眼は、けれど深海魚にも似て爛々と輝いている。

 さながら深淵そのものだ。あらゆる狂気を煮詰めたまなこが、ぎらぎらと世界を覗いている。視線を合わせれば、それだけで百の呪いが身を蝕む錯覚を覚えるほどに。


 嗚呼、その相貌は、なんと呼ぶのが相応しいのか。

 悪鬼のようであった。汚れ、傷付き、爛れている。魔女のようであったし、屍のようでもあった。にたにたと浮かべたぎこちない笑みが、一層不気味だった。それは嘲笑ではなく、純粋な喜悦によって浮かべられていた。


 最初は魔物かと思った。

 はぐれの魔物が、偶然砦を襲っているのか、と。


 けれどその手には、錆び付いた剣が握られていた。

 見紛うはずもない。銃士隊の物に与えられる剣であった。

 他ならぬ私が入隊の祝いにこの手で与えた、業物であった。

 それが血と泥と錆びに覆われ、犠牲者の命を滴らせていた。


 けれどその手には、薄汚れた銃が握られていた。

 ロクに手入れがされているのかも怪しい、ボロボロの銃だった。

 そしてやはりこれも、銃士隊の証であった。

 銃士隊の誇りとして、半身として、常に共にあるように教えられる、銀細工の銃だった。


 砕けた鎧が、千切れた外套が、そのどれもが、それが私の知る女であることを主張していた。

 宝石のようだった黒髪は、沼に朽ちる枯れ木のよう。

 海のように深かった蒼眼は、深海の闇を湛えていた。

 決意に満ちた相貌は、不快な狂気に侵されていた。

 痩せぎすの指先が、かつては積み重ねた訓練によって硬くなっていた銃士の手だったものが、だらりと剣と銃を握って垂れ下がっていた。

 常に堂々と陽光を受けていた胸は、酷く丸まった背のせいでかげってしまっていた。

 大きなずた袋を背負っていて、さながら荷運びをする奴隷のようでもあった。


 それは緩慢に、困惑する私を見てにたにたと笑い――――ぱん、と乾いた音がした。

 一拍遅れて、それが射撃音だということに気付いた。

 銃口は虚空に向けられ――――遥か遠くで、狙撃のために狙いをつけていた部下が倒れた。

 見えなかった。

 本当に一瞬。気付けばもう、それは射撃を終えていた。

 ボロの銃で、寸分違わず遥か彼方の的を射抜いて見せた。距離にして、三百歩はあろう距離の的を。

 そして、彼女はその間も常に私のことを見てにたにたと笑っていた。

 これがもはや人ではないのだと理解させるのには、十分すぎる光景だった。


「お前」


 詰まる呼吸。

 絞り出すように、どうにか。

 一年前とは違う理由で、言葉が詰まっていた。


「どうして」


 問えば、怪物は一層笑みを深くした。

 ぎぃ、と音が聞こえた気がした。

 それは多分、口角が三日月を描いた音だった。

 ゆっくり、怪物の口が動いた。

 弧を、すぼめるように。

 それからまた、弧を描く。

 かと思えばまたすぼめて、たっぷりと息を吸い――――音を出すでもなく、また嗤う。


 ……自覚があった。

 怯えている。

 この私が、だ。

 魔族に魂を売り渡し、人の壁を越えたこの私が、怯えている。

 その証拠に、怪物が思わせぶりに口を動かす度に私の心に緊張が走っていた。

 怪物は、それを愉しんでいるようにも見えた。


「っ、答えろ! お前はどうして、そんな」




【 わたし 】




 ぞ、と。



【 そんなにおそろしいですか 】【 隊長 】



 悪寒が背筋を駆け巡る。

 酷く掠れた、くぐもった、けれど不思議とよく通る声だった。

 それはにたにたと嗤いながら、酷く上機嫌に続けた。


【 修行 】【 したんです 】


 おぞましいことに――――本当に、本当におぞましいことに――――その語り口は、確かにかつて私を慕っていた彼女のものと、酷く似通っていた。


【 隊長に勝ちたいなぁ 】【 と 】


 随分と愉快そうに、丸めた背を震わせていた。

 爛々と輝く目を細める。

 それはまるで肉食獣が獲物に狙いを定める姿を想起させ、気付けば私は半歩後退していた。


【 嗚呼 】【 どうしては 】【 わたしがお聞きしたかったのですよ 】【 隊長 】


 畳み掛けるように、けれど一言一言にゆっくりと、呪詛を込めて。


【 憧れでした 】【 貴女に憧れていました 】【 貴女の背中を追ってきた 】


 恨みがましいようで、けれど愉悦に浸っているようにも見えた。

 もう半歩、無意識に後退していた。


【 嗚呼 】【 どうして 】【 どうして 】【 ゆるせない 】【 ゆるせない 】


 呪詛を吐きながら、とうとう怪物はげたげたと嗤い始めた。

 顔を上げ、牙を覗かせて、げたげたと。


【 ほら 】【 隊長を追って 】【 このように 】


 枯れ木のような両腕を、誇らしげに広げた。

 細く、長く、どちらかといえば類人猿のそれのようにも見えた。

 あまりにも、あまりにも醜い姿だった。


【 外法を用いたので 】【 いささか形は変わりましたが 】【 きひ 】


 気付けば、己の呼吸が浅くなっていた。

 心臓がバクバクとうるさい。

 恐怖している。

 私のせいなのか。

 私がこのような怪物を生み出したのか。

 私の罪は、このような形で罰として現れるのか。


 ――――嗚呼、確かに。

 まるで罰という概念が形を得たような姿だと、場違いな思考が脳裏を過ぎった。

 罪を刈り取り、苦痛と死を与えるために使わされた、罰の怪物。

 怪物は乱雑に剣を放り捨て、細く尖った指を私に突き付けた。


【 さぁ 】【 隊長 】【 約束致しました 】【 我らが銃士の誇りにかけて 】


 冗談だろう。

 叫びたかった。

 

 魔に魅入られた私と、魔そのものと化したこいつとでか?

 どこに銃士の誇りなどというものがあるのか。笑ってしまいそうなぐらい、酷い冗談。

 けれど怪物はお構いなしで、やっぱりにたにたと嗤ったまま、掠れた声で宣言する。


【 ここに 】【 決闘を 】【 申し込む 】


 きひ、と。

 喜悦の声が漏れていた。

 逃げ出したかった。

 恥も外聞もなく、生娘のように叫んで逃げ出したかった。

 けれど私の中に僅かに残った誇りと矜持が、それを許してはくれなかった。


 強くあるために魔に堕した。

 強くなければ、魔に堕した甲斐がなかった。

 ならば逃げるなどあってはならず、私には決闘を受ける義務があった。

 浅い呼吸。

 震える声。


「引き受けた」


 そう呟くのがやっとだった。

 怪物は、嬉しそうに嗤った。

 決闘を引き受けたのが嬉しかったのか、私の醜態が嬉しかったのか。

 羞恥。悔しさが私の中で鎌首をもたげはじめた。


【 では 】【 作法に則り 】【 受け手である隊長から 】


 構えるでもなく、怪物はじっとこちらを見据えていた。

 ちろり。色素の無い舌が唇を舐めていた。まるで蛇のようだった。


 決闘。

 銃士隊の間に伝わるそれ。

 単純だ。交互に銃を撃つ。先に死んだ方が負け。

 あまりにシンプルな、けれどそれ故に絶対的なルール。

 先手は挑まれた側。つまり、こちら。

 なんてことはない。このまま頭蓋か心臓を撃ち抜けば、それで終わりだ。

 ルール上、先攻が圧倒的に有利。

 焦ることはない。時間制限があるわけでもない。

 撃てばいい。

 構えて、撃てばいい。

 彼我の距離は、二十歩と少しといったところ。

 なんてことはない。

 魔族に隷属する前ですら、この距離の的を外すことはなかった。

 嗤うな。

 だから当たる。

 それで終わる。

 なんてことはない。

 当然のことだ。

 落ち着いて、長銃を構える。

 私は落ち着いている。

 銃身を左手で支え、銃床を肩口に当てる。

 狙いをつける。

 嗤うな。

 引き金を絞る。

 終わりだ。

 これで終わり。

 嗤うな。

 引き金を絞る手を止める。

 銃口がブレていた。

 息を止め、これが止まるのを待つ。

 嗤うな。

 息を止める。

 息を止めろ。

 止まれ。

 止まれ。

 止まれ。


【 どうしました? 】


 止まれ。

 止まらない。

 肩が上下する。

 心臓が喉から飛び出そうだ。

 嗤うな。

 息が荒い。

 止まれ。

 止まってくれ。

 じゃなきゃ当たらないじゃないか。


【 銃口がブレないように 】【 呼吸は一度だけ深く 】【 ピタリと止める 】


 そうだ。

 それが鉄則だ。

 そうしてきた。


【 そう教えてくれたじゃありませんか 】


 そう教えてきた。

 怪物が喜悦に嗤っている。

 憎い。恐ろしい。憎らしい。

 嗤うな。嗤わないでくれ。

 己が酷く矮小で滑稽に思えた。

 指先が震えはじめる。

 狙いをつけろ。

 ついてくれ。

 外せば向こうの番だ。

 殺される。

 こいつは弾丸で死ぬのか?

 決着の条件はだ。

 弾丸が心臓を貫いて、その上でこの怪物がまだ生きていたら?

 考えるな。

 急所を穿つことだけを考えろ。

 震えるな。

 動くな。

 頼む。


【 きひ 】【 かわいそうに 】【 そんなに震えて 】


 けたけた。

 やめろ。

 げたげた。

 やめろ。


【 きひ 】【 きひひ 】【 きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ! 】

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 がん、と。

 竜の咆哮。

 引き金を絞った。

 弾丸を放った。


 虚空へと消えていった。


「あ……」

【 はずれ 】


 怪物の表情が、スッと抜け落ちた。

 外した?

 外した。

 手番が終わった。

 恥も外聞もなく逃げるか?

 それとも、次弾を装填して今度こそ急所を穿ち、全てを無かったことにするか?


 ――――できるわけがない。


 あの、神速にして正確無比な射撃を既に見ている。

 逃げられない。

 次弾装填の隙など、見逃して貰えるものか。

 終わりだ。

 外すまい。

 外す理由がない。

 酷く冷たい蒼眼が、じっとこちらを見据えていた。

 怖い。

 怖い。怖い、怖い、怖い。

 死にたくない。

 負けたくない。

 もう負けるのは嫌だった。

 もう、失望されるのは嫌だった。

 自分の価値は強さに依っていた。

 だから、負ければその価値は失われる。

 敗者は弱者であり、弱者は強者ではない。

 強者であるから数多の栄光を手にしてきた自分は、強者でなくなった途端に全ての意味を無くす。

 それは嫌だ。

 それが嫌だ。

 耐えられなくて、魔に身を捧げた。魂を捧げた。

 強く在れるのであれば、他のことなんてどうでもよかった。

 例え悪であっても、強い自分でいたかった。


 けれど、無意味だった。

 死ぬ。

 殺される。

 感情の無い視線が、私を射抜く。

 先ほどまでは雄弁に狂喜を語っていた蒼眼は、急に熱量を失わせていた。

 緩慢に、怪物が銃を構える。

 先ほどの腕を見れば、早撃ちでも十分過ぎるだろうに。

 勿体つけているのか。

 そんな感情の色は見受けられなかった。

 殺してくれ。

 楽にしてくれ。

 泣きそうだった。

 否。泣いていた。

 理由はわからなかった。

 恐怖か、あるいは他の何かか。

 はらはらと、涙を流していた。

 膝を着いた。

 立っていられなかった。

 怪物は狙いをつけている。

 無表情。終わらせてくれ。


 たん。


 渇いた音。


 ――――痛みは無かった。

 自分の体を見下ろす。

 当たっていない。

 ……当たっていない?

 外した?

 バカな。外す理由が無い。


【 嗚呼 】【 手入れをしていないから 】【 狙いがブレましたね 】


 嘘をつけ。

 ならば先ほど、遥か遠くの部下を正確に射抜いたのはなんだったのか。

 疑問が浮かび、言葉が出なかった。

 なんにせよ、再び私の手番だった。

 必死で呼吸を整えようとしながら、弾丸を装填する。

 何が起こったのかはわからなかった。

 なぜ助かったのかはわからなかった。

 ただきっと、次は無いと思った。

 当てないと、殺される。

 それでもいい。早く終わらせたかった。

 怪物はまた、にたにたと嗤っていた。


【 ……ああ 】


 私の肩が、びくりと跳ねた。


【 きひ 】【 そんなに怯えないでください 】


 にたにた。

 けたけた。

 私は胸を抑え、必死に呼吸を整えようとする。

 怪物は私を嘲笑いながら、背負っていたずた袋を下ろした。

 思えば、大きな袋だった。ひと抱え……よりも大きいぐらいだ。

 口を開け、怪物は乱雑に中身を取り出した。


【 少し 】【 食事でも 】


 子供だった。


「――――――――は」


 子供だった。

 意識を失った、幼い女児だった。

 歳はまだ五つか、そのぐらいだろう。

 怪物は、と言った。

 その意味ぐらいは、混乱した私でもすぐにわかった。


【 手番 】【 お好きに 】


 ――――――――――――嗚呼。

 どうして、どうして、どうして。

 あれほどに純真だったお前が、どうしてここまで。

 私を追う真っ直ぐな瞳が好ましくて、嫌いだった。

 お前の期待に恥じない自分で在りたくて、それが苦痛だった。

 それでも私に憧れているとはにかんで、気高く正義を謳い上げるお前が好きだった。

 お前が私の背にいると思うから、私は気高くなければならなかった。

 お前はやがて私を追い越して、私の手の届かない高みまで行くのだろうと思っていた。

 それが誇らしいと思うこともあった。

 それが憎らしいと思うこともあった。

 だからお前を裏切った時、楽になれると思った。

 もう決定的に、道を違えることができたのだと思った。

 ……なのに、どうして。

 どうしてお前はこうして、魔道にまでついて来たんだ。

 どうしてお前はこうして、魔道でまで私を追い越して行くんだ。


 嗚呼――――――――これが私の罰なのだと、この時とうとう理解した。


 恥ずかしげに憧れを語り、堂々と理想を語り、時には控えめにケーキを頬張っていた口が、異形に大きく開いていた。

 その口で、少女を喰らおうとしているのだと理解した。

 本当に、怪物に堕してしまったのだということを理解した。

 全て理解した。

 このを私が止めなくてはならないのだと、理解した。


 私は弾丸を込めた。

 私は銃を構えた。

 左手は銃身に。銃床は肩口に。

 静かに大きく息を吸い、止める。


 ぴた――――と。


 銃身が動きを止めた。

 大口を開けて少女を喰らおうとしていた彼女が、視線をこちらへと向けた。

 その顔は、酷く嬉しそうだった。

 に、と嬉しそうに笑っていた。

 私は引き金を絞った。

 たん。

 心臓を穿った。

 今度は、外さなかった。




   ◆   ◆   ◆




 ――――憧れていたのだ。

 心から、あの人に憧れていたのだ。

 他の誰よりも、あの人に。

 本当に本当に本当に、心から。


 美しい女性ヒトだった。

 艶やかな金髪は滝のようで、白い肌は陶器のよう。

 鋭い美貌は、例えるなら――――いいえきっと、何物にも例えられないほどに美しかった。


 優れた女性ヒトだった。

 類稀なる剣と銃の腕を以て、若くして銃士隊隊長の座に上り詰めた。

 誰も彼女には敵わなかった。

 巌のようなオーガだって正面から打ち勝って見せたし、五十歩離れた人間の耳飾りだって撃ち抜いて見せた。


 そして、気高い女性ヒトだった。

 国中の憧れである銃士隊の長であるに相応しい、高潔な精神の持ち主だった。

 人々のために刃を振るい、平和のために弾丸を込める。

 悪を滅し、善を尊び、弱きを守る。寝物語に語られる、気高い英雄の姿だった。


 だから、嬉しかった。

 隊長は少女を守るため、私という怪物を討つため、己の罪と向き合うため、弾丸を放った。


 美しかった。

 豊かな金髪は冷たい銀に。

 透き通る碧眼は鮮血の真紅に。

 陶器のように白い肌は褐色へと。

 なにもかもがかつてとは異なって――――けれど、けれど!

 決意に満ちたその表情と、微動だにせぬ射撃姿勢は、確かに私が憧れたあの人の姿だった。

 

 そうでなくてはならないのです。

 私が憧れた隊長は、誰よりも誇り高い清廉なる銃士でした。

 だから、私は嬉しいのです。


「……阿呆め。こんなことを……」


 私の命が失われているのがわかります。

 それを見て、隊長は悲しそうな顔をしました。

 その優しさが、私には嬉しいのです。

 嬉しくて、笑顔になってしまうのです。


【 貴女に 】【 憧れていました 】


 隊長の瞳には、決意の色がありました。

 正義の意志がありました。

 私にはそのように、見えました。

 先ほどまでのように、恐怖や諦念や、絶望などの色はありませんでした。

 きっと、もう大丈夫でしょう。

 彼女はもう、高潔さを取り戻してしまったのでしょう。

 それは彼女を蝕むでしょう。

 苛むでしょう。傷つけるでしょう。

 魔に魂を売り渡したことを後悔し、それに抗う茨の道を想うことでしょう。

 それが私の望みでした。

 それだけが私の望みでした。

 私が憧れた隊長が、私が憧れた隊長に戻ること。

 酷く自分勝手な、私のワガママでした。

 隊長が魔などに隷属することが、どうしても私には許せなかったのです。


【 隊長 】


 私は嬉しくって、にたにたと笑いました。

 以前ほどかわいく笑うことはできません。

 けれど、悔いの一切はありませんでした。


【 いつも 】【 見ていますよ 】

「……手抜きはするな、ということか。私はお前のそういうところが、嫌いだったよ」


 怪物に向け、銃を構える隊長の姿は――――きっとこの世のあらゆる英雄よりも、気高く美しいものでした。


【 きひ 】【 傷つくなぁ 】


 嗚呼、隊長。

 私の憧れ。私の理想。私の夢。

 どうか気高く清らかに、善なる銃士でいてください。

 私はそれだけが望みで、こうもなり果てたのです。


 ……なんだか、眠たくなってきました。

 私は満足でした。

 特等席でした。

 とびきりの特等席で、英雄の物語を堪能しました。

 もう、十分でしょう。

 最高の寝物語です。


 どうか――――――――嗚呼、どうか。


 この英雄が、とこしえに誰かの憧れでありますように――――――――




 私は、寝物語をせがむ子供の声を幻聴として聞きました。

 とてもとてもとても、幸せな幻聴でした。



「「おやすみなさい」」



 ――――とてもとてもとても、幸せな幻聴でした。

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