縁側と舟
猫村まぬる
縁側と舟
右手には青い闇に沈んだ庭があり、左側は明かりの無い座敷だった。その境界をなす縁側で、柱にもたれ、足を投げ出して座っているのだった。
座敷は広い。二十畳ほどあろうか。そのあちらこちらに、布にくるまって眠る人影がある。大きい者や小さい者。体を横に向け、あるいは背中を丸め、誰も顔を見せず、男か女かも分からない。幾人かは、布の端から黒い髪を少しのぞかせていた。
もはや痛みも無く、苦い思いも無かった。ただ懐かしい。みな気心の知れた親しい人ばかりだ。ひとりびとりを誰が誰とは見分けられなくとも、そのことは確かだった。
暗い座敷の奥には、水墨画の
細部の情景は暗くてよく見えないが、たしか霧雨が降っていたはずだ。そして、あるか無きかの風を
霞の底に水面が広がる。見やると船頭は目の前にいる。笠の縁から口元だけがのぞく。青白く薄い唇。長く黒い髪がはらりと垂れ、その幾筋かが微風にあおられて、濡れた笠の縁にはりついた。
背筋を激しく打たれたように、
――この人を、知っている。
と気づいた
静けさが戻ると、船頭も舟も景色もすべて元どおりに薄暗い襖絵の中に沈んでいた。
今の音は何だったのか。庭の石灯籠の辺りから聞こえた。生き物の声のようであった。ひぐらしの鳴く声にも似ていた。夢にうなされた少女の、声にもならぬ声とも思えた。
薄闇の座敷は、今はまた
二十人近い人がいるのに、
寂しかった。誰かと声を交わしたかった。この中の、誰にでもいいから、せめて別れを告げたかった。
寝ている人影の中で最も近くにいるのは、細い身体を黒っぽい毛布にくるんだ小柄な女性、もしくは少年だった。丸めた背中をこちらに向けて、微動もしない。
誰だろう。幾人かが思い当たる。いずれもごく近しい相手だった。誰か、その中のひとりに違いないのだ。少し手を伸ばせば、その肩に触れることも、毛布をめくって顔を見こともできたろう。しかしそうすれば、この静かな時は永久に消え去ってしまうかもしれない。
彼らと顔を合わせ、言葉を交わすことは二度とできない。そう納得せねばならないのだろう。こうした時間が与えられただけでも幸いなことなのだ。
暗い座敷を目を凝らして見渡す。誰も身体を丸めて石のように動かない。床の間の掛け軸には細い筆で何か書かれているようだったが、はっきりとは見えなかった。奇妙に崩された二文字は「未生」とも読めたし、「未来」とも「来世」とも「本来」とも読めるようだった。
それより他には家具も調度も無い。
誰かが脱いでそのまま置いたような服。それだけがこの美しい空間と止まった時間の調和を乱していた。
それはグレーのパーカーのように見え、遠い呼び声のごとく、記憶が胸を打った。
この中に、あの子がいるのか。
そうに違いない。あの子が寝る前に脱いで、丸めてあの違い棚に置いたのだ。グレーのパーカーを。そうに違いなかった。
静寂を乱さぬように、座ったまま目で探す。
この十何人かの中に、あの子がいる。考えてみれば、いない筈が無いのだ。どこかに……どこに? 体形の極端に違う者はすぐに除外できる。では床の間の前で寝ているのがあの子か。でもあの子はもっと手足が長かった。部屋の中央でうつ伏せになっているのは? それともやはりパーカーのいちばん近く、違い棚の下で体を折り曲げているのがそうなのか。
それらしき姿を三、四人にまで絞り込むことはできたけれど、そこまでだった。どれもあの子のようであり、だがやはりどれも違うように思われて、そうなると違い棚に置かれているのがあの子のパーカーかどうかも分からなくなる。ここにあの子がいない筈が無いという確信だけが残り、見つけ出すことはやはりできないのだと悟った。
だがとにかく、あの中の誰かなのだ。その筈だ。いる筈なのだ。ひとつひとつの人影を、しばし見つめた。あの子でなくても、みんな誰かしら大切な人であることは間違いない。
この時間はいつまでも続かない。皆が目覚める前にここから消えなければならない。自分は遅れて来て、先に行く者だ。それは分かっていた。
襖絵の舟が、少しずつ進んでゆく。微かな風を帆に受け、注視し過ぎると動きが見えなくなるほど、ゆっくりと。
いや、そうではない。舟が進むのではない。舟の描かれた襖一枚だけが動いているのだ。
開いてゆく。少しずつ、少しずつ。
やがて現れた隙間の向こうは、黒漆で塗りつぶしたように真っ暗だった。
徐々に広がってゆく四角な闇に目を凝らすと、そこにもやはり光はあった。オレンジ色の小さな灯火のようなものが、ぼんやりと見えた。目を凝らすと消えてしまう。しかし目の力を抜くと、やはりそこにある。
長方形の闇はさらに少しずつ広がり、何もかもを飲み込んでいった。襖も、眠る人々も、畳も床の間も、やがては縁側も庭も、なべて暗闇と成り果て、それでもなおオレンジの光はゆらゆらと揺れる。裸足の指先に触れるのはもはや磨かれた縁側ではなく、冷たく濡れた船底である。編み笠をかぶった船頭が、白くか細い腕で舵を取っている。凪いだ水の上を、オレンジ色の光にむかって音も無く、ゆっくりと進んでゆく。
すとん。
襖の閉じる音を背後に聞き、すべてが
何もかも分かっていた。船頭のこと、あの子のこと、あらゆる物事の意味さえも。しかしそれを口に出そうにも、もう言葉にもならず声にもならない。そこには縁側も舟も無く、光も影も形も無い。時間も無く、私も無い。
(了)
縁側と舟 猫村まぬる @nkdmnr
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