わたしの傷跡
かどの かゆた
わたしの傷跡
小学生の頃、とっても大切にしているストラップがあった。別に何か特別なものではなく、ただUFOキャッチャーでお父さんと取っただけの、キリンのストラップ。私はそれにジョニーという名前をつけて、いつも肌身離さず持ち歩いていた。
それは林間学校に行っても同じで、山歩きの間も、私はジョニーを鞄に括り付けていた。
今から思えば、あれだけ大切にしていたストラップを山に持っていくなんて、どうかしているとしか思えない。しかし、小学校の頃の私は、ジョニーにも山の景色を見せてあげたいと考えていたのだ。
そして林間学校に泊まった夜。
私は、ジョニーがいなくなっていることに気が付いた。
「久しぶり」
玄関のドアを開くと、彼女は明るい笑顔を浮かべて、手をゆらゆら揺らしていた。
綺麗に切りそろえられた短髪が風で軽く揺れる。黒のノースリーブにジーンズ。彼女の格好はなんだか大人びていて、私たちは二人とも女子高生のはずなのに、随分歳が離れてしまったように錯覚をしてしまう。
「久しぶり」
彼女の言ったことを、オウムのように繰り返す。でも、それは彼女のものと比べ、ずっと小さな声だった。大きな声を出すのに、慣れていないのだ。
「どう?」
彼女が顔を横に向けて、耳元を見せてくる。形の良い耳には、小さな青い石のついた銀色のピアスがついていた。
「穴、開けたの?」
私はそのピアスをじっくりと観察した。自分の身体に穴が開くなんて、全く想像できない事態だ。とはいえ、否定するつもりはない。ピアスは、彼女にすごく似合っていた。元からこういう耳で生まれたんじゃないかと思うくらいだ。
私が「へぇ」とか「ほぉ」とか声を漏らしていると、彼女はくすりと笑った。
「ただ耳たぶを挟むだけのやつだよ。穴なんて開けたらさぁ、ほら、先生に怒られちゃうでしょ?」
「あ、そっか。うん。そうだよね。そっか」
私はどうやら、無意識のうちに彼女が女子高生であることを、完全に忘れてしまっていたようだった。彼女は県内でも有数の進学校に通っている。私服登校だし、自由な校風ではあるけれど、それでもピアスは禁止されているみたいだ。
「そういえば、おばさんは?」
彼女が辺りを見回す。
「お母さんなら、今日は仕事」
「スーパーのパートだっけ?」
「そうそう」
お母さんが居ないから、我が家は彼女が来るまで、妙に静かだった。でも今は、むしろ普段よりずっと騒がしいくらいだ。
「先に部屋、入ってて。お茶淹れてくるから」
私は彼女に背を向け、キッチンに向かった。
彼女が家に来ると、私はどうにも緊張してしまう。彼女が二階に上がる音がして、私は自分の胸のあたりに手を当てた。
電気ポットから出る湯気がしゅうしゅうと音を出しながら立ち上る。私はそれを眺めて、短く息を吐いた。
お茶を持って自分の部屋へ行くと、彼女はベッドの上に寝転がっていた。手にはスマートフォンがあり、画面には、ちゃんと見えなかったけれど、何かしらのSNSのアプリが開かれているようだった。
「ありがとね」
彼女は私が部屋に入ったのに気が付いて、すぐに身体を起こす。
私はテーブルにお茶を二つ、零さぬように、慎重に置いた。彼女はそのお茶を受け取り、すぐに口をつけた。
「あっつ!」
「そりゃそうでしょ」
呆れながらも、自分の口角が上がるのを感じる。
今の行動は、なんというか……すごく、らしかった。昔から、猫舌のくせに、妙に早く食べ物や飲み物に手をつけるのだ、彼女は。
「……」
「……」
しばらく沈黙して、お茶を飲む。お茶請けでも用意しておけば良かったなぁ、とか、関係ないことを考えてみると、ちょっとだけ緊張がほぐれた気がした。
「……白いね」
彼女が、急に口を開く。一体なんのことを言っているのかと思ったら、彼女は私の顔をじっと見ていた。彼女の瞳は猫みたいだ。静けさと好奇心が入り混じったような、そういう視線。
私はかなり時間をかけて、ようやく、彼女が私の肌のことを言ったのだと気が付いた。
「そっちは、かなり日焼けしてるよね」
「あぁ、うん。あたし、めっちゃ日焼け止め塗ったのにさ。こんがり焼けたわ」
見ると、彼女の肌には、くっきりと日焼けの跡があった。私はなんだか、太陽の下で友達と戯れる彼女の姿が頭に浮かんできて、微笑ましくなる。
「そういえば、写真アップしてたね。友達と海に行きましたーって」
何だか私とは絶対に相容れない感じの、言ってしまえばチャラチャラした友達が写っていた記憶がある。男女入り混じっての大騒ぎ。お近づきになりたくはないけれど、多分当事者になったら、とっても楽しいんだろうなぁとは思う。
「そうそう。海ね。めっちゃ楽しかった」
「私も行きたいなあ」
言ってから「しまった」と思った。
彼女はお茶の入ったティーカップを置いて、そしてゆっくりと私に近づいた。
「ごめんね」
その謝罪は、今までに幾度となく聞いたものだった。
でも、私は、謝られても困ってしまう。私は今までに一度だって、彼女に怒ったことなどないのだから。
ただ、彼女の言葉は、ただの謝罪ではなかった。それは、私たちの間でだけ通じる、合図のようなものだったのだ。
「……前に見た時と、そう変わらないと思うけど」
私は自分が着ていたシャツを脱いで、そのままの勢いで、中に着ているものも全て脱ぎ、上半身裸になった。
「……薄くなってるね」
彼女は左胸の下辺りを、じっと見つめる。
私は棒立ちで、自分の映る姿見を見ていた。彼女の顔を見るのは、流石に気恥ずかしかった。
私の身体にある、大きな傷跡。随分薄くなったそれを、私は改めて見つめてみた。とはいえ、毎日見ているから、もうすっかり慣れてしまっている。観察したところで、大した感慨はなかった。
「一生消えないって言われてたでしょ? この傷」
「うん」
「でもね、もしかしたら、消えるかもしれないんだって。何が良かったのか、奇跡
的なくらい治ってるらしくて」
「……そうなんだ」
彼女が私の傷跡に触れる。夏だというのに、彼女の指は冷たく感じた。
「……そっか、そうなんだ」
彼女はもう一度繰り返して、もう一度、同じように傷跡に触れた。
「良かったね」
私の目も見ずに、彼女はまるで独り言かのように、小さく呟いた。
こんなことを、私たちは、いつまで続けるのだろう。この傷を見せることは、私と彼女の間で、暗黙のルールなのだ。
彼女は私の傷の状態を見るために、定期的に会いに来る。それ以外に、私たちが会うことはない。小学校の頃こそ仲が良かった私達だけど、今は趣味も生活も全く違うのだから、それは当然のことだった。
こうやって傷を理由にして会うのは、何だか彼女の優しさを利用しているみたいで、嫌だ。私は本来、彼女のような明るく元気な人と一緒に居る資格なんて無いのに。あの時のことを口実にして、私はずっと、彼女を苦しめている。
ジョニーが居なくなった時、私は酷く動揺して、泣き出してしまった。先生に事情を話したが、結局、明日林間学校の周囲を探すということで話は終わった。しかし、恐らく私がジョニーを落としたのは山歩きの時だ。きっとその程度探したところで、ジョニーは見つからないだろうという確信が私にはあった。
自分の泊まる部屋に戻っても、私はずっと涙を流していた。どうしてあのストラップにあそこまで入れあげていたのか、よく分からない。でも、あのストラップは理由なしに、私の中で一二を争うくらい重要なものだったのだ。子どもというのは、そういう、非論理的なところがある。
「さがしに行こう」
泣いている私に、彼女はそう声をかけた。
「でも、お外はくらいし、あぶないよ」
「だいじょうぶだよ」
怖がる私の手をひいて、彼女はずんずん進んでいく。
そして私達二人は、こっそり来た道を引き返し、山でジョニーを探した。でも、ジョニーが見つかることはなかった。そもそも、私達はろくに明かりも持たずに林間学校を出たから、見つけるすべが無かったのだ。
「もう帰ろうよ」
「もうちょっと!」
その頃には私も泣き止んでいて、ジョニーのことは半ば諦めていた。どちらかと言えば彼女のほうが意地になって草むらを探しているくらいだった。
どんどん前に進んでいく彼女に、私は一人になりたくない一心でついていって……。
そして、足を踏み外した。
その後のことを、私はあまり覚えていない。気付いた時には、もう病院だった。身体中が痛かったのを、よく覚えている。
一部の傷は一生消えないかもしれないと医師が言うと、お母さんは私を抱きしめて泣いた。私は自分の傷のことよりも、自分のせいでお母さんが泣いたという事実に泣いた。
私が生き残ったのは、結構奇跡的だったそうだ。夜の山での事故だった上に、出血量も多かった。だから私は、結構長い間入院することになった。
彼女はあの時のことを聞くと、謝るか、「ものすごく怒られた」と言うばかりなので、私が入院している間、彼女がどんな風に日々を過ごしていたのかは、分からない。
ただ、彼女は、退院してすぐ、傷を見せてくれと私に頼んだ。彼女は私が怪我をしたことの責任が、すべて自分にあるように誤解しているのだ。
私が彼女に傷を見せる行為は、彼女が自分の罪を確認する行為なのである。
でも別に、私は彼女を恨んでなどいない。
それでも、やめてくれと言えないのは。
きっと、彼女との繋がりを、絶やしたくないからなのだろう。
でも、それも、終わりにしなきゃ。
彼女を縛り付けるのは、良くないことなのだから。
「あのさ」
自分でも分かるくらい、震えた声が出た。
「傷、薄くなったでしょ?」
私が聞くと、彼女は神妙な顔で頷いた。
「だ、だから、大丈夫だから」
手に自然と力が入り、気付けば私は拳をギュッと握っていた。彼女は私の発言に、顔を上げる。
「……大丈夫って、何が?」
微かに苛立っているような声音だった。彼女は何に怒っているのだろうか。分からない。
「私のこと、気にしなくて、良いから」
私は彼女の顔を見ることができなかった。
しかし、彼女がずっと黙っているので、私は沈黙に耐えかねて、彼女の顔をちらと見た。
彼女は、私の手をとった。
「爪、長いね」
「え、あ、うん……」
どうして今、爪の話をするのだろう。私の頭は混乱した。彼女の表情からは、何も伺えない。
「ねぇ」
彼女は私を抱きしめた。強く、強く抱きしめて、耳元で囁いた。
「あたしに傷があったらさ、見に来てくれる?」
彼女が私の首筋に顔を当てるので、私は、彼女がどんな表情で言葉を発したのかを見ることが叶わなかった。
「見に行くと、思うよ」
私がそう答えると、彼女は抱きしめるのをやめて、今度は私の目をじっと見た。
「じゃあ、じゃあさ」
彼女は私の手を取って、折り曲がっていた人差し指を丁寧に伸ばす。
「今度は、私に傷をつけてよ。小さなやつで、良いから」
彼女の瞳が、揺れた。
そこには確かに、不安の色がある。
その瞬間、私は気が付いた。実は、私たちはお互いに酷く臆病者だった。傷を理由にしていたのは、私だけではなかった。
どうして私たちは、色々な理由をつけてまで、会おうとするのだろう。理由は分からない。愛着、懐古、友情、恋。色々な単語が頭にふわふわと浮かんだが、どれもしっくり来なかった。
ふと、ジョニーのことを思い出す。あの時も、理由なんて分からなかった。きっと、本当に大切なものには、理由なんて陳腐なものは似合わないのだ。
「うん。傷、つけるね」
私は彼女のノースリーブをずらし、人差し指を鎖骨の下辺りに当てる。
今から傷をつけられようとしているのに、彼女は、安心しきったように身体の緊張を解いていた。
「……痛い」
爪で引っ掻くと、彼女は顔をしかめた。
「だろうね」
血まで滲んでいるのに、痛くないはずはない。
「こんな傷じゃ、一週間もあれば治っちゃうんじゃない?」
彼女は唇を尖らせて、自分の真新しい傷を見る。痛いって言ったり、傷の浅さに不満を言ったり、言動が滅茶苦茶だ。
「ほら、その時は、またつけるよ」
言いながら、彼女を抱きしめる。
「……今度は、そっちから来てよ。もしかしたら、この傷がものすごく悪くなってるかもしれないし」
「うん、行くね」
多分、この程度の傷が悪くなったところで、たかが知れている。でも私は、ただただ頷いた。
「そっちの傷跡が消えたらさ、海に行こうよ。傷跡が海に染みたりしないか確かめよう」
「そうだね」
傷跡が消えるレベルまで回復しているのに、染みる理由なんてない。でも私は、やっぱり、ただただ頷いた。それはまるで、二人で誰かに言い訳をしているようだった。許しを請うているようだった。
傷だけが、私と彼女をつなぐものなのだ。私はこの先、仮にこの傷跡が消えても、自分の身体を見た時、彼女のことを思い出さずにはいられない。
そしてきっと彼女も、自らの鎖骨の辺りを見るたび、私のことを思い出すのだろう。
「あー、じわじわ痛い」
彼女がちょっと低いトーンの声を漏らすので、私は返事が分かっているのに、「手当しようか?」と聞いた。
「いや、いい」
即答だった。
そして、私と彼女は、ずっと抱き合っていた。
誰にも言えない傷を晒したまま。
痛みもそのままにして。
わたしの傷跡 かどの かゆた @kudamonogayu01
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