《4》カカオ70%


 そうした日々といくつかの季節を巡ったある日、発表がある、と言って朝会で課の人間が集められた。にこにこと明るい雰囲気の課長補佐の後ろに控えた柴田さんを見た瞬間、嫌な予感がした。


 結婚をするそうだ。

 相手はひとつ上の階の、出世頭と噂される仕事のできる好青年だった。

 はにかんで当たり障りのない挨拶をする彼女は、そこらの女の人と何ら変わりなく、いつものつまらなさそうな顔のほうが綺麗なのに、と私は思った。


 そうして彼女はさっさと寿退社してしまった。

 結婚式の招待も受けたけれど、なんだかんだと理由をつけて欠席した。



 別に、隠し事をされていたとは思わない。

 彼女が私に報告すべきだったとも思わない。

 そんな義務、彼女にはない。


 だけど、だけど。


 夜明け、裸の背中を晒して、狭いシングルベッドの上で頬杖をついていた彼女の、「赤ちゃん欲しいんだ」と言っていたその横顔を思い出す。

 今の仕事も全然好きじゃない、早く結婚したい、とも言っていた。



 それからは会っていない。




 二月の初旬、バレンタインデーを間近に控えた冬の日、チーム内で大きな事務ミスが見つかった。それに類するミスがありえるはずだ、ということで、書庫に保管された膨大な紙の束から特定の事務に関する書類の掘り出しを行う必要があった。

 薄暗くてカビ臭い部屋に一人で篭るのは気が滅入ったので、書庫の扉は開け放って作業していた。私が割り当てられた書庫は給湯室に近かったので、休憩中と思しき男性たちが給湯室で会話をする声がふと聞こえた。


「はあ、もうすぐバレンタインデーだな」

「なんで嫌そうなの」

「いいよな、XXはどうせたくさんチョコもらえんだろ。俺はそれをむなしく隣で眺める役だわ」


 XXという名前に体がぴくりと止まった。それは珍しい姓で、柴田さんの夫と同じものだった。


「いや、俺既婚者だし」


 わずかな記憶と照合して、その声がやはり彼のものだと思い当たる。


「関係ねーよ。女子社員はたとえ義理チョコでも相手が既婚者でも、顔のイイ男にチョコあげたがるもんなの」

「ていうか俺チョコ嫌いなんだわ。もらっても全部嫁さん行き」

「はーむかつくわー」


 茶かコーヒーを入れ終わったのか、彼らの声は遠ざかっていく。



 『もらっても全部嫁さん行き』という言葉が、頭の中をぐるぐるする。



 バレンタイン当日、私はひとつ上の階にいた。慣れない部署だが、事前に社内イントラの席次表で確認しておいた席へまっすぐ向かう。


「XXさん、おつかれさまです」

「え、えっと」

「Q課の小野です。これ、よかったらどうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 顔もわからない女がチョコを携えてやってきたものだから、彼も困惑を隠していない。

 デスクの仕切りからにゅっと顔を出して、隣の席の男性が声をかけてくる。


「そいつ既婚者だよー」

「知ってますよう」


 なるべく害のない女性のふりをして、愛想よく答えた。


「ここに独身者がいるんですが……」


 そう言って自身を指差す男性社員に、柔和に笑って謝る。


「すみません、もう手持ちがなくて」

「顔差別だ〜」


 泣き真似をする彼からは目線を外し、"柴田さんの夫"へ感じよく頭を下げて帰った。



 ――彼がたくさんチョコをもらうなら、そのチョコが全て彼女の元へ届くなら、ひとつくらいビターな味わいのチョコがあったほうがいいだろう。そう考えて、カカオ70%のチョコレートを購入して渡した。

 チョコレートの箱の中にはこっそりと、林檎の付箋を一枚入れておいた。


『なんで結婚しちゃったんですか』


というメッセージを添えて。



 それから数日経っても、会社の中で密やかに付箋を渡していた頃と同じく、彼女からの返事はなかった。私たちは一応、メッセンジャーアプリの連絡先も交換していたが、メッセージも来ない。彼女の元へそのチョコレートが果たして届いたのか、彼女がそのメモを読んだのかさえ、わからない。

 でも、それでよかった。

 "夫"に、彼女への贈り物を運ばせた、その可能性があるだけでも、私は救われた。



 それから一ヶ月後、ホワイトデーの日。

 ふらりと彼は私の席までやってきて、ある高級菓子店の小さい紙袋を渡してきた。


「これ、うちの嫁さんから小野さんに渡せって言われて。間違えないでね、ってすごく念を押されました。仲良かったんだね、二人」


 仲が良かったかは、わからない。


「――そうですか、ありがとうございます」


 デスク脇のワゴンの引き出しにそれを入れた。一日中気になって仕方なかった。


 退社と同時に、会社のなかのトイレで中身を確認した。

 菓子箱の底まで見たけれど、特に手紙らしいものも入っていなくて、失望がひたひたと私の胸を濡らしていった。

 だが、蓋の内側に、小指ほどの細さのポストイットが貼り付けられているのを見つけた。


『ねむけMAXの助。専業主婦飽きたの助』


 それ以外は何も書かれていなくて。

 だけど、思わず嬉しくて、たまらなくて、スマートフォンを取り出して、彼女へ何かメッセージを送ろうとして。

 だが、彼女のアイコンを見て、やめた。結婚式の真っ白に輝くウェディングドレス姿の彼女を目にしながら言葉をやりとりする気にはなれなかったから。




 一年ほど過ぎて、またバレンタインデーが近くなってきたある日、部をまたいだ社内の飲み会があった。その会場にはあの男もいた。

 さっさとハゲて、お腹でも出ればいいのに、憎たらしいことにいまだ精悍な体型を維持したままだ。趣味はランニングだとか聞いたことがある。むかつく。


 本当は近づきたくもないが、彼女の動向が何か伺い聞けるかもしれない、と考えて、彼のいる近くへ席をとってしまった。話題は様々に及んだが、あるタイミングから、家庭のある者、ない者、それぞれが順繰りに結婚観について話し合った。ある女性が彼に訊いた。


「XXさんは、お子さん作らないんですか?」


 やや不躾な質問にも、爽やかに微苦笑して彼は、


「ん〜……僕、まだ仕事頑張りたいんで。今子どもできても、育児任せっぱなしになっちゃうと思うんですよね」


 ――ちゃんと一緒に育てるつもりなんだ。いいやつじゃん。


 苦々しい気持ちがせり上がってきて、その席を離れた。



 赤ちゃんが欲しいって言っていた、彼女。

 仕事したくないって言っていた、彼女。


 私ができるのはせいぜい毎年チョコを送るくらいで、まさか赤ちゃんを差し入れすることもできないし、私の年収じゃ、彼女を養うこともできない。




 今年も彼にチョコレートを渡した。カカオ70%のダークチョコ。


『会いたいです』


とただひと言、林檎の付箋に書いて、箱に入れた。

 何度も文章を書き直しては捨てたその付箋は、それが最後の一枚になってしまった。

 それを、最後にしようと思った。


 返事がなければ、彼女のことは一切忘れるのだ。忘れる努力をするのだ。




 一ヶ月後、律儀にお返しとして渡されたチョコレートの蓋には、私が送った林檎のひと切れが貼り付けられていた。

 余白には、


『今週土曜、14時、ZZホテル、1201号室』


とあった。



 早まる心臓を押さえながら、スマートフォンを取り出し、彼女へメッセージを送った。


『承知しました』


 去年と変わらず、彼女のアイコンは眩しい純白のドレスのそれだったけれど、高まる心臓が痛みに縮まることはない。


 結局彼女からの返事はなかったけれど、既読のマークはついた。



 久しぶりに会った彼女は変わらず綺麗だった。


 ホテルの部屋で会った途端、何も言わずにもつれ合い、ベッドへ倒れ込んだ。

 引きちぎるようにして彼女の服を脱がせながら頭の片隅で考える。


 私たちの間に子どもができることもない。

 どこかの政治家が口にした、『生産性』という言葉を思い出す。

 私たちの関係には生産性がない。

 仕事では生産性を求められる。

 私たちはもう一緒に仕事をしない。

 だから生産性を追求する必要もない。

 昼のさなかから、情欲に耽ったって、問題ない。


 激しいキスで上がる息の合間に、ぺろり、とおよそ色気のない緩慢な動きで、目の下を舐められて、疑問を目に浮かべたら、


「……なんで泣いてるの」


と訊かれた。


 見たこともない、彼女の心配げな瞳を見ていたら、あとからあとから涙が出てきた。


「なんで……なんで結婚しちゃったんですか」


 彼女は黙って、それから静かにつぶやいた。


「――人生は、甘くないんだよ」


 じゃあ、せめて、チョコレートだけでも甘いのを買ってあげればよかった。


 私の頭を撫でる彼女の優しい手つきも、何もかもが悲しかった。


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カカオ70% 東海林 春山 @shoz_halYM

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