《3》カカオ50%
誕生日だって、会社に行く。誕生日が一大イベントだった子どもの時期はとうに過ぎて、別に他の日と比べて特段思い入れを持っているわけではない。お祝いメッセージをもらったり、ささやかなプレゼントをもらえたりするだけでも、大変ありがたいなあ、としみじみ感じるお年頃だ。
いつだったかチームメンバー内で誕生日の共有が行われたから、今日もメンバーが大げさでない物品をさりげなくくれた。
昼休み明け、他チームがミーティングでごっそり席を空け、オフィスが少し閑散としている代わりに受電業務は忙しくなっていた。
「――は離席しておりまして、はい」
と電話に応えていると、デスクの上に林檎が置かれた。
通りすがりにそれを置いていった人を振り向くと、コピー機のあるパーテーションのほうへ消えていく柴田さんの後ろ姿が見えた。
電話への意識もそぞろになりながら林檎をよく見ると、それは本物ではなくて、付箋が連なって球体を作り林檎を模している文房具だった。
「はい、折り返すよう申し伝えます。失礼いたします」
電話を切って林檎を手に取る。外側は皮の赤色、内は果実の白と種が描かれ、てっぺんにはちょこんとヘタまで付いていて、本物の林檎のようだった。クリップの止められた一枚の付箋を見ると、
『誕生日おめでとう。先に教えといてよ。昼休み、モールまで走ったわ』
と書いてあった。
彼女の字はこんな字なのか、と頬が緩むのを、モニタの中の面倒な案件を見ることで紛らわせる。
終業後にお礼の言葉を伝えに行こうと思っていたら、五時を知らせるチャイムが鳴るや否や彼女は席を立って退社してしまった。きっと合コンだ。相変わらずせっせと合コンへ参加している丸の内OL。それについて口を挟むような権利は私にはない。
林檎をもらって数週間、デスクの上に飾ったそれは、私の気分をリフレッシュするのに役立っていた。苛々すればそれを見て、付箋の連なりに指を這わせ、柑橘の爽やかな香りを思い浮かべた。
そのときも目の前の林檎を眺めて、ほんの少しぼんやりしていると、細い指がそれを取り上げて、ピッと一枚付箋を剥がした。見上げれば、机の脇に柴田さんが立っていた。
一枚になって白い果実をさらした付箋を、私のモニタへ無造作に貼り付けて彼女は言う。
「使わないんだね」
「だって……」
もったいないから。なんとなくそれを正直に言うのは憚られて、
「可愛すぎて仕事じゃ使えないんです」
と答えると、不満げな顔で「ふーん」と彼女はつぶやいて自席に戻った。
書類を処理しながらも、彼女の「ふーん」という声が頭の中でリフレインしていた。
そのあと、彼女が離席している間に彼女宛ての電話を取った。何時に誰からの何の案件で、折り返すならこの電話番号へ、などの項目がまとまった受電票にペンを走らせかけて思い直し、林檎から一枚付箋を剥がす。
『A社QQさんからYYの件でTEL、14時までに折り返し希望 03-XXXX-XXXX』
通常なら受電した担当者の名前も書き残すけれど、この付箋ならそれを書かなくたって彼女にはわかるはずだ。ほんの悪戯をするような心持ちで、その林檎のひと切れを彼女のモニタへ貼っておいた。
ややして戻ってきた彼女がそれに気付き、机の向こうからこちらへ視線を投げた。ふ、とほんの一瞬笑い合い、仕事に戻る。
それからは、彼女が席を離れているときには率先して向こうのチームの電話を取って、それが彼女宛てなら、その付箋を使ってメモを残した。
私たちの部署は膨大な事務作業の塊みたいなところだったから、細々した作業を可視化して整理するプロジェクトが発足されて、私は彼女と同じチームに配属された。
ほとんど意味のないミーティングが開かれるたび、さりげなく彼女の隣の席をキープした。気のせいかもしれないけれど、ごく自然に私と隣り合えるように、彼女は会議室に足を踏み入れるタイミングを調整してくれているように思えた。
林檎の付箋を何枚か筆箱に入れて、隣に座れたときには、その付箋にくだらないことをこっそり書き、あくびを噛み殺している彼女へ渡した。
『今日のZさんの化粧と服の気合い。絶対合コン控えてる』
『Pさんの汗やばい。柄シャツになってる』
『ねむけMAXの助。目開けたまま眠れるの助』
彼女がくすりと笑って、視線をくれるのが嬉しかった。
――彼女が何か書いて渡してくれることは、絶対になかったけれど。
私の想いが大きくなるにつれて、その付箋の林檎は細まるようだった。付箋はただ減るばかりで、不安にもなった。プロジェクトのほうはたいした成果はなかったけれど、私の彼女への気持ちは付箋で可視化できた。
……だけど、ただひとつ。
彼女の長い爪は、短く切り揃えられるようになった。それは私のため、と考えたって、ばちは当たらないと思う。
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