《2》カカオ30%


 部、あるいは課の単位で行われる飲み会は、どうせならまとめて開催してくれればいいのにばらばらにやるものだから、必然的に飲み会の頻度は増えてしまう。一部の上役だけが楽しみ、引き連れられる大多数の社員は早く終わらないかなと願うだけの、残業代のつかない擬似残業は叶うなら断りたいものだけれど、あんまり断り続けるのも角が立つから、その日も仕方なしに出席していた。

 たいして仲良くもない誰かのお子さんの反抗期の話を興味もないのに熱心に聞くふりをするよりは、オフィスの自席で溜まった書類を機械的に処理していたかった。だってそれにはお金が発生するし。薄い座布団に座ってべたべたする机の上のしなしなの唐揚げをつつきながら不味いウーロンハイをちびちび飲んでいるより、よほど生産的だ。


 あ、あそこらへんに座ったな、と会の初めから認識をしていた一角へ目を向ける。向こうの机では、柴田さんがビールジョッキを片手に、話を聞いてるのか聞いていないのかわからない表情で座っていた。目が死んでる。たぶん、ジョッキを握る自分の爪を眺めている。

 と、彼女が顔を上げてこちらを見た。視線がばっちり合ってしまう。とりあえず会釈をしておく。彼女は「よ」とでも言うように片手を上げ、それから手洗いのほうを長い人差し指で指した。


 意図はわからないまま腰を上げると、彼女も席を立ってすたすた歩いている。人々がぎゅうぎゅうになって座る小上がりを注意深くすり抜けて、洗面所に続く薄い通路へ出れば、彼女がスマートフォンをいじりながら立っていた。


「おつかれさまです。どうしました?」

「抜け出さない?」

「え?」

「課長の愚痴がエンドレスでだるい」

「はあ」

「どっか他で飲もうよ」

「――いいですけど」

「じゃあ先にお店出てる」


 そう言うと彼女はさっさと踵を返した。


 荷物を取って、ちょっとお先に失礼します、と周りの二、三人に言えばすんなりと店を抜け出せた。店の暖簾をくぐった先には退屈そうな顔をして柴田さんが立っていて、私を見て再び「よ」と片手を上げた。そして何も言わずに歩き出す。


「どこ行くんですか」

「んーわかんない、テキトー」


 金曜、都心の繁華街は、酒に酔った人、これから酔おうとしてる人、それらの人を自らの店へ導こうとする人、たくさんの人々で溢れていて、ただ歩くにも苦労した。


「課長、だいぶ酔ってましたね」

「普段木々がそよいでる音かな? ってくらいぼそぼそしゃべるのに、酔うとすごく声でかくなってしかも愚痴のオンパレードでまじうんざり。いつもからあんぐらいハキハキしゃべれよって感じ」

「中間管理職の哀しみを一身に背負ったような哀愁漂う見た目ですよね、彼」

「隔週で飲み会開催して盛大に愚痴ってすっきりさせてんだから、背負い切れてないでしょ。愚痴を黙って聞いてあげて、中間管理職のストレスを管理する下っ端平社員の身にもなれよっていう」

「しかも飲み会代はうちらもちっていう」

「愚痴聞き手当て出せっていう」


 がやがやとうるさい道を、負けず劣らず私たちも声を張り上げながら行く。

 よろけた酔っ払いサラリーマンを咄嗟に避けたら、手が彼女に当たってしまった。


「あ、すみません」

「ん」


 ふと我に返った顔つきで彼女は言った。


「あ、ていうかごめん、私こそめっちゃ愚痴っちゃった」

「いや、別にいいんですけど。どうしますか、このあと」


 あてどなく歩きながらくっちゃべるのも意外と楽しかったが、どこかに腰を落ち着けたくもある。


「――私の」


 ふと歩調を落としてぽつりと零した彼女へ振り向く。


「私の家が、ここから歩いて10分くらいなんだけど」

「え、あ、はい」

「……来る? うち」

「え、あ、はい」


 思いがけない提案に動揺して、意思とは無関係に口が勝手に承諾を伝えていた。


「じゃあ、こっち。コンビニ寄ってお酒買ってこ」


 すたすたと彼女は繁華街から外れた道へ歩き出した。何だろう、まさか柴田さんの家で宅飲みすることになるとは。

 ぼんやりしたままコンビニへ入り、各自で缶ビールや酎ハイ、そして私はいつもは諦めるお高いカップアイスを買った。

 少し歩くと都心の喧騒は遠く、周りはすでに静かな住宅街だった。ぽつぽつと街灯がある以外は暗く、なんとなく黙り込んでしまう。


「重そう、それ持ったげる」

「え、いやいいですって。せっかくの爪が折れちゃう」


 右手に持っていたコンビニ袋をがさりと奪われた。と思うと、彼女の左手が一瞬、私の空いた右手に触れる。ん、と思った次の瞬間、また彼女の小指の先がこちらの手に触れた。そして、気付くとそっと手を繋いでいた。あれ。


「……」


 ふんわりと握られた手に彼女の長い爪が当たり、こそばゆく、何かが疼く。


「……あの」

「うん」

「その、右手に持ってるふたつ、一個持つんで、あの、ください」


 前方を見つめながら空いた左手を彼女の方へ伸ばすと、


「うん」


素直に右腕を伸ばしてきたので、再び自分のコンビニ袋を持つ。今度は左手で。右手は彼女と繋がっている。なんでだ。



 なんでだ、と脳内で繰り返しているうち、彼女の住むアパートへ到着した。

 小さい二階建てのアパートの階段を昇るときに自然と手は離れた。空いた右手がすうすうする。


 お邪魔します、と言って入った彼女の部屋は、きちんと片付いているしいい匂いもするけれど、お世辞にも広いとは言えなかった。都心近くの物件だから、小さくとも家賃はそれなりにするはずだ。柴田さんの勤続年数は私よりいくらか長いが、それでもお給料にたいして違いはないのだろう。つつましい箱のような部屋のなかで、数年後の自分の年収の現実を見るようで、そっと息をつきたくなった。


 買ってきた缶やらお菓子やらを小さなテーブルに広げ、アイスクリームは冷凍庫に入れ、乾杯、とグラスをかち合わせる。私たちは、何に乾杯しているのだろう。この奇妙な成り行きに乾杯。金曜夜、今週の私たちの頑張りに乾杯。来たるたった二日の親愛なる休息に乾杯。



 床に敷いたクッションに並んで座って、テレビのバラエティ番組を眺める。広げたお菓子とアルコールをときどき口にして、ときどき画面の中の芸人に笑った。私たちに会話はなかった。

 部屋に入ってすぐジャケットを脱いだ彼女は薄いキャミソール一枚で、細い二の腕と、それに反して豊かな胸元が否応なく目に入って、なんだかこちらの居心地を悪くさせた。不自然ではない程度に彼女との間に距離を取ったけれど、狭い部屋では焼け石に水だった。

 番組がCMに入ったタイミングで彼女がふらりと腰を上げ、すぐ背後のベッドへ上がった。ぎし、とベッドが軋む。横目でそれを見たけれど、なんとなく振り返れなかったし、言葉もかけられなかった。

 特に面白くもないテレビCMに目を向け続けながら、詰まりそうになる息を誤魔化すように酒を飲んだ。


「ねえ」


 小さくこちらを呼びかける声。ゆっくりと後ろへ振り向いた。

 彼女はベッドの上で横になり、片腕を頭の下に差し入れている。短いスカートが乱れて、ストッキングの太ももが露わになっていた。


「……スカート、しわになっちゃいますよ」


 こちらの注意も意に介せず、彼女はぽんぽんとベッドの表面を無言で叩く。

 いい、のだろうか。引き返すなら、たぶんここ。

 一瞬迷って、でも無意識のうちに起ち上がって、彼女のお腹のすぐ脇、ベッドの上へ腰掛けていた。


「……」


 こちらを一心に見上げる彼女を、黙って見つめ返す。

 丁寧にカールした長いまつげ、すっきりとした鼻筋、慎ましい唇。肌については、出勤時の完璧な輝きは減退してるけれど、でもやっぱり綺麗で。だいたい気怠げに憂い多めな目元が、今は熱っぽく潤んでいる。


 ベッドへ肘をつくと、ぎぎ、とマットレスが鳴いた。彼女へ覆いかぶさって、息も感じられそうな距離で見つめ合うけれど、彼女は微動だにしない。

 最後のひと押しはこちらに委ねるんだな、ずるいな、と思いながら、顔を寄せて軽く唇を重ねた。

 ほんの少し触れただけですぐに顔を離すと彼女はかすかに眉をひそめ、そしてこちらの腰を引き寄せた。今度は深く、何度も唇を吸った。

 途中、CMが明けたテレビから観客のわっという歓声が聞こえて、横向きに抱き合っていた体勢から彼女が上になった。キスを続けながら彼女の左腕があたりを探り、やがてリモコンを見つけたか、ふつ、とテレビの音と光が消えた。私たちの唇が立てる音と息遣いだけが、狭い部屋を満たす。

 唇を離したあと、どちらからともなく、はぁっと漏れる息。


 彼女はわずかに口元を緩めて言う。


「しわになっちゃう前に、スカート脱がせて?」

「――はい」



 翌朝、眩しい日光に目を細めながら彼女のアパートを出て数分後、高いアイス買ったのに食べ忘れたな、と思い出した。



 それからは、飲み会のあとにはときどき彼女の家へ転がり込んで、私たちは体を重ねた。


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