カカオ70%

東海林 春山

《1》カカオ10%


 この課に配属になってすぐ、彼女の存在は認識した。

 いつも綺麗に巻かれた髪、つやつやのリップ、手入れの行き届いた長い爪、細いくびれと豊かな胸を嫌味なく印象付ける洗練された服、いつだってふんわりと漂ういい香り。

 これぞ理想の丸の内OL! とでも言うような完璧なオフィスレディ、柴田さん。ここは丸の内から少し離れているけれど。


 向こう側のシマのチームだから、人となりはそんなに知らない。受話器を耳に当てながら、つまらなさそうな顔をして、自身の長い爪を眺めているのをたまに見かけた。

 でも職場の不思議なところは、たとえ近くで働いていなくとも、その人の仕事の出来不出来がなんとなく推し量れることだ。それは、チームリーダーからの接し方だったり、選抜されるプロジェクトの種類だったり、何か重大なミスが起きたときの立ち振る舞いだったり、あるいは単純にチームメンバーから漏れ聞こえてくる不満や愚痴、ごくまれに賞賛。

 これらから総合して考えるに、彼女は仕事はそつなくこなすタイプ。可もなく不可もなく。中堅どころとして、新入社員のトレーナーに割り当てられることもあれば、火急ではないプロジェクトのリーダー補佐となることもある。けれど何かチーム内でミスが起きたときには、率先して解決に乗り出すというより、すっと存在感を消す。そういう処世術で生きてきた人。情を優先して他人の仕事を肩代わりするような人間ではなさそうだった。現に、退社後に合コンの予定があるらしき日は、きっかり定時を守って颯爽とオフィスをあとにする。




 少しだけ残業したこの日、会社の最寄駅の地下鉄に降りると、階段のすぐ近くに柴田さんの後ろ姿が見えた。小さなキラキラした鞄をちょこんと提げ、気怠げにスマートフォンを長い爪でいじっている。

 素知らぬふりをして通り過ぎてしまおうか。この駅から主要ハブ駅までは少なくとも10分以上の距離があり、ここから不用意によく知りもしない同僚と乗り合わせてしまうと、たいてい電車の待ち時間も含めて15分程度はたいして実のない会話をだらだらと続けなくてはならない。お互いにとって不幸だ。よし、すっと通り過ぎよっと……と決意した瞬間、ふいに電光掲示板へ顔を上げた彼女と、目が合ってしまう。


「あ、おつかれさまです」

「おつかれさま」


 知らんぷりを決め込もうとしていたことが絶対伝わっているようなタイミングだったけれど、まあそこはお互い社会人として挨拶をしておく。成り行きでホームに並び立ち、電車を待つ。

 どこにお住まいですか、という定番の会話をしたあとは、もう話すこともない。休日は何をされてるんですか、という他人の趣味を外堀から訊いていくような白々しいこともわざわざしない。


 座れないけれどすし詰めと言うほどではない電車に乗り込み、弾まない会話を一応続ける。

 柴田さんは無駄に愛想笑いをしたり、お世辞を言ったりする人ではなさそうだった。淡々としゃべり、本当に琴線に触れたときだけ少し笑った。

 吊革につかまって並び立つと距離が近く、大人っぽい香水の香りがほんのりと届いて、私はなんだか落ち着かなかった。

 沈黙が少し降りて、でもちょっと前から思っていたことを伝えてみようかな、といざ言ってみたら、ちょうどレールと車輪のこすれる音が一段とうるさくなって、私の声はかき消されてしまった。


「え、なんて?」


 彼女は身を寄せて聞き返してきた。彼女の香水の中に、今までは感じ取れなかった甘さがあることを知る。かすかな甘さ。けれどその甘さは私の脳髄を貫く。目眩のようなものを感じながら、私も彼女へ顔を近付けてもう一度言う。


「爪、いつも可愛いですよね」


 すると、彼女は嬉しそうににこりと笑った。またしても脳髄を走るしびれ。


「うん、これだけはこだわってる。会社でうんざりすることがあっても、嫌な電話受けちゃっても、この爪見たら、うん可愛いぞ、大丈夫大丈夫って思えるから」

「……なるほど」


 無邪気な笑顔を浮かべて答えた彼女へしどろもどろになって声を返した。


「そんな派手な爪して、って嫌味言ってくるやつもいるけど、そんなの知るか、って思ってる。ネイルサロンに通って、ちゃんとケアして、お金かけて、そうして守ってる私の体の一部だもん」

「……実は私、柴田さんの爪が変わるたびに結構注目してました。あ、今回はこんな感じか、とか季節感取り入れてるな、とか」


 ちょっと目を丸くして、それから彼女は照れたように「ありがと」と言った。


「……でも」


 ぽつりとつぶやいた彼女は、ちらりとこちらに目を向けながら、


「小野さんの爪もすごく綺麗だなって思ってた」

「え、そうですか?」


 吊革を掴んでない方の手を上げてまじまじと何の装飾も施していない自分のそれを見てみる。すると彼女はごく自然に私の指に触れ、


「ほら、爪がおっきくて整ってて、色も綺麗なピンクなの」


と小さく言うものだから、変な声が出そうになった。


「そう、ですかね」

「――うん」


 混み合う電車の中で、肩を寄せ合い、間近な距離で目線を合わせた。

 彼女の手はひんやりとして、しなやかで、いつまでも触れられていたかった。


「あ、ここで降りるね」


 彼女はぱっと手を離すと、速度を落とし始めた車内で降車ドアのほうへ体を向けた。

 おつかれさまです、と言い合い、別れた。

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