第1話 感情の波が見える目 ⑧

 山崎静香と先輩と呼ばれる男が付き合いだしたところで紅蓮は観察を止めた。山崎静香は最初は少し戸惑っていたようだったが、あの先輩がうまく助けてくれた。もちろん見えるものが違ってくるのだから、はたから見ていて奇妙なことをしているように見えることもあった。たとえば息を吸い込んで目を閉じる仕草はひどくこつけいに見える。話している相手の感情の大波をもろにかぶる時に思わずやってしまうらしい。海で波をかぶる時にする仕草だけど、地上でしかもオフィスでやると変だ。でもすぐに慣れてやらなくなった。出来のいい先輩に支えてもらっているようだし、後は義眼人別帳を書くだけだ。

 紅蓮は千瞳に提出する義眼人別帳を書くためにマチバに行くことにした。義眼を与えた相手の氏名、性格、能力、人間関係などを記録しておくファイルだ。義眼堂の中で書いてもよいのだが、たまに千瞳がやってきて書きかけの義眼人別帳をのぞき込んで、ああだこうだと言い出して邪魔をする。集中して書くには外の方がよい。

 例によってマチバは客がいなかった。茫洋には悪いが落ち着いて仕事ができる。

「パソコンを持ってきたってことは報告書を作るんだな。あやかしがパソコンで報告書を作るなんて世も末だ」

 茫洋に茶化されたが、無視してノートパソコンで仕事を続ける。最初は毛筆で書いたのだが、千瞳に却下された。電子的に検索できないと困ると鬼らしくないことを言われて、ノートパソコンを与えられたので、それを使っている。

 紅蓮は小一時間で山崎静香の義眼人別帳を書き上げ、義眼堂に戻った。義眼堂のある同じビルの上の階に千瞳と紅蓮は住んでいる。一階が千瞳の部屋、二階が紅蓮の部屋、三階がリビング・ダイニングになっている。千瞳はたいてい地下の義眼堂の奥の部屋で千里眼をしている。その部屋のことを紅蓮は、「千里眼の間」と呼んでいる。

 千瞳は義眼と交換で客の目をもらう。その目はそのまま義眼堂の奥にある部屋に保管される。義眼と同じ硝子ガラスの瓶に収められ、淡い空色の水に浸される。その目は生きており、本来、その目が元の主のがんに収まっていたら見えていたものを見ている。

 千瞳はその目の視界を自分のものにし、部屋にある数百の視界を通して自分の仲間と故郷を捜している。義眼堂で義眼を手に入れた客は、千瞳の目の代わりになって日本各地を探索してくれるわけだ。一度に数百人の視界を見るなんて紅蓮には全く想像できないが、千瞳はいとも簡単にやってのける。

「ご主人さま」

 ノックしながら声をかけると、千瞳が顔を出した。

「なんだ?」

「山崎静香はもう大丈夫です。あの義眼に慣れて支障なく日常生活を送っています」

 そう言いながら義眼人別帳の入ったUSBメモリを差し出す。

「彼氏ができたのですか?」

 千瞳はそれを受けとると苦笑した。

「なぜ、そう思うんです?」

「逆に私がきたいんですけどね。あなたが大丈夫と言う時は、恋人ができたか、連れ合いとうまくいくようになった時ばかり。なぜなんでしょう?」

「そんなことないですよ。義眼は縁結びのお守りではありません。あたしはお客さまの気持ちが落ち着き、満足した毎日を送れるようになったから報告しているだけです。ほとんどの日本人にとって恋愛は一番身近で手軽な自己実現なんで、結果的に恋愛関係がうまくいくと安定するので報告できるようになるんです」

「あなたらしくない分析的な回答ですね。茫洋に教わったんでしょう?」

 図星をさされた。千瞳と茫洋はなにか通じ合うものがあるようだ。互いに考えていることがわかる。

「ちっ、違いますよ。あたしだってこれくらいは考えます。そりゃ、茫洋さんにアドバイスしてもらったこともありますけど」

 実際には茫洋から教わったことがほとんどだが、紅蓮なりに考察しているのでアドバイスと言ってもいいだろう。

「やっぱり。客のことを部外者にしゃべってはいけません」

「茫洋さんは部外者ですか?」

「部外者です。義眼堂の仕事をしているわけではないですからね」

「時々、手伝ってもらうじゃないですか」

 紅蓮がそう言うと千瞳は困った顔をした。

「たまにです。わかりました。茫洋なら口も堅いから黙認してもいいでしょう。マチバにみに行きますか?」

「さっき行ったらご主人さまと吞みたいとおっしゃってました」

「彼は毎日でも吞みたいだけでしょう」

 千瞳はおうように笑うと部屋を出て、階段を上る。紅蓮もその後に続く。わからない。千瞳と茫洋、静香と都築の関係。感情のある生き物は互いの感情をつなげてなにをしたいのだろう。

「どうしました? なにか気になりますか?」

「いえ、感情って不思議だなと思って。好きな相手がいるだけで、精神状態がすごく変わります。そんなにいいものなんですか?」

「紅蓮にはそもそも感情そのものがあまりないから、わからないのも無理はありません。恋愛に限らず、愛情や信頼はいいものだし、なくてはならないものです」

「でも裏切られたり、相性が悪かったりしますよね。差し引きゼロやマイナスになることもあるから、最初から恋愛や信頼がない方が安定しているでしょう」

「安定を求めているわけではありません。幸福を求めているんです」

「幸福……それもよくわからないんです。訊いてもちゃんと答えられる人間はいないじゃないですか。そんなよくわからないものを手に入れようとするなんて無謀です。手に入れてもそれが幸福だってわからないのではないですか?」

「あなたはそう考えますが、そういうことではないんです」

「そういうことじゃないって、どういうことですか? ご主人さまはわかるから、それでいいんでしょうけど、あたしはそうじゃないんで説明してください」

「あと百年もすればわかるようになるかもしれません。あなたは四十年で地図からその姿になったわけですから、百年あればなんにでもなれるでしょう。正直言うと、私もわかっているわけではないんです。なんというか感情は難しい」

 紅蓮はこうにん十四年にくうかいとうにやってきた時に携えていた地図だ。長い間、大切に保管されていたが、鬼のさとを捜す千瞳に持ち出されて一緒に旅をするようになった。そして旅を続けるうちに、この姿になった。

「百年……そんな先の話をしていいんですか? 来年のことを言うと笑うんでしょう?」

「それは迷信です」

 千瞳はそう言ったが、笑いをこらえているのがわかる。〝感情の波が見える目〟があれば千瞳がどんな気持ちなのかわかるのに残念だ。いつか自分に豊かな感情が芽生え、自然に人の気持ちがわかるようになるのだろうか? 興味深いけれど、怖くもある。感情は時に人を壊す。その実例を義眼堂でたくさん見てきた。紅蓮以上にひどいことを見てきた千瞳が、それでも感情を大事にするのはよくわからない。そんなにいいものなのだろうか?

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【試し読み】義眼堂 あなたの世界の半分をいただきます 一田和樹/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko

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