第1話 感情の波が見える目 ⑦

 リラクセーションスペースから戻ると、都築はそのまま部長の部屋に向かい、静香は自分の席の近くで立ったままそれを見ていた。部長の部屋はガラス張りの個室になっているので、外からも中の様子がよくわかる。都築が部屋に入った時、部長の波は離れた静香からよくわからないくらい小さかった。でも、すぐに怒りといらだちの赤銅色に変わり、大きなうねりとなって周囲に広がった。

 静香はそれを見て、もうダメだと思ったが、都築は動じなかった。むしろより大きなコバルトブルーの波で部長の波を飲み込み、そのまま部長自身を包み込んだ。部長は対抗するように立ち上がり、赤銅色の波を何度か出したが、すぐに飲み込まれて消えていった。

 部長は再び椅子に腰掛け、都築の出すコバルトブルーの波に漂うように背もたれによりかかる。

 すると都築は部長の部屋の扉を開けて、静香を手で招いた。静香は不安を覚えつつ、かけて行く。

「新しい数値を確認後、共有して明日中に報告書を訂正して、提出することになった。納期には間に合うし、なにも問題ない」

 静香が部屋に入ると都築は言った。

「申し訳ありません。ケアレスミスでご迷惑をおかけします」

 静香が頭を下げると部長はおうように笑った。波は明るいオレンジ色だ。内心で怒っているわけではない。静香は安心する。

「これからは気をつけてよ。でもすぐに報告してくれたのはよかった。一人で抱え込んで取り返しのつかないタイミングまで黙っている人がたまにいるからね。それだけは気をつけてね」

 部長が肩をすくめた。穏やかなオレンジ色の波が漂う。

「はい。気をつけます」

 静香はもう一度頭を下げる。

「このことは僕がスラックに書き込んで共有するけどいいね? できれば今日中に新しい数値を山崎さんと都築さんで再確認した上で、各人で影響範囲を確認してもらって修正してもらう。そういう手順でいいかな? 念には念を入れて確認してね」

「プロジェクトリーダーは部長ですからもちろんそれでお願いします」

「お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」

 ほっとした。自分のミスは全員の知るところとなるが、しかたがない。報告書の納期に支障がなかったことが救いだ。後で書き直しが必要になる箇所の担当の人に謝っておこう。席に戻ると、部長の連絡がスラックに書き込まれていた。静香もあわてて、おびを書き込む。

「データの確認をしたいんだけど、ちょっといいかな?」

 向かいの席の都築が声をかけてきた。

 しばらくふたりでひとつずつデータと結果を確認した。全ての確認が終わった段階で新しい予測値のファイルをスラックにアップした。

「ふう。これで一安心だ」

「ありがとうございました。よけいな仕事を増やしてすみません」

「気にするな。誰でもミスはするし、助けてもらって仕事を覚えるんだ。コーヒーでも飲むか」

 ふたりは連れ立って、再びリラクセーションスペースに向かった。

「最初にオレに相談したのは正解だった。君が直接部長に報告したら部長はまだ怒っていたかもしれないからな」

 それって自分の存在が部長をいらつかせるということだろうか? と静香は不安になる。そこまで嫌われてはいないだろう。静香は都築の言葉の真意を図りかねた。

「君が嫌われてるわけじゃない。山崎さんは相手の感情の影響を受けやすいんだ。相手がいらいらしていたら君もいらいらする。相手が怒っていたらおびえる。自然な反応なんだけど、それだと相手の怒りやいらだちは収まらないことの方が多い。むしろ増幅しがちだ」

 そういえばふたりの人間の波がぶつかると、そこで反射のようにより大きくなって戻ってくることがよくある。確かに自分はよくそうなる。そういうものだと思っていたが、人によって波がぶつかった時の動きも違うのだ。

「感情ってのはロジックで割り切れない時に大きくなるものだから、ちゃんと説明してわかってもらえば、たいていは収まるんだよ。説明する前にお互いのネガティブな感情が増幅し合うと説明をちゃんと聞いてもらえないからさ」

 その通りだ。頭ではわかっていても、相手の波を受けると思わず反応してしまう。それがいけない。だから波が見えるようになってからは、大きな波はうまくけるようにしてきた。

「最近の山崎さんは相手の感情に自分が反応するのをおそれて避けているだろ。それはそれでいいんだけど、それだけだと前に進めないし、人間関係が薄っぺらになっちゃう。相手との距離を縮める工夫を考えないとな」

 はっとした。都築には見透かされていた。全くその通りだ。以前のように人間関係で失敗することはなくなったが、その代わりに薄っぺらくて遠い関係ばかりになってしまった。わかっている。わかっていることなのだけど、だからといって距離を縮めるのも怖い。また元に戻ってしまうような気がする。どうすればいいのだろう?

「相手を理解して受け入れて、その上で言うべきことを言えばいい。相手の感情に影響されないように注意して」

 都築の言葉で静香は部長の怒りの波が消えた理由がわかった、そして自分がうまくやれなかった本当の理由も。正面から受け止めるのも逃げるのも解決にはならないのだ。相手の感情を受け止め、理解し、説得して融和しなければいけない。静香は相手の感情に気を取られていて、自分の気持ちをおろそかにしていた。だから波が見えるようになって人と距離を置いてしまい、「なにを考えているのかよくわからない」「なんでも他人ひとごとみたいに対応する」と言われるようになってしまったのだ。

 本当に求めていたのはトラブルをなくすことよりも、よい形でつながることだったのに、距離をとって関係を希薄にするようになってしまっていた。

「でも間違えないでほしい。最近の山崎さんは以前に比べるとすごく他の人の気持ちに敏感になっていると思う。それは決してマイナスじゃない。いや、マイナスになることもあるが、プラスのことも多いし、本人次第でプラスにできることは多い」

「他の人の気持ちに敏感……」

 義眼を手に入れてから確かにそうなった。

「だから、うまくコントロールできるようになればいい武器にできると思う。失敗することよりも成長しなくなることを恐れるべきだと思う」

 はっとした。静香は人間関係で失敗したくないと考えていたが、よい人間関係を築けるようになるには自分自身が成長しなければならなかった。距離を取ったり、やり過ごしたりするのはその場しのぎでしかない。都築への感謝で胸がいっぱいになった。

「がんばります」

「でも、他の人の気持ちに敏感ってのは全方位ってわけでもないんだよな。大事なとこで相手の気持ちに気がつかなかったりするんだよな」

 独り言のように言った都築の言葉のやさしく温かい大きな波に、その意味を悟った静香は頰を赤らめた。それから手を握られたところまでは覚えている。その後、視界が遮られた。波が見えないと困ると思ったが、もう止めようがなかった。


 山崎静香は都築治と付き合い始めた。ふたりで過ごす時間が増えると、都築の波に包まれているのが当たり前になり、やがて自分からもオレンジ色のやさしい波がよく出るようになってきた。別に真似をしようと思っているわけではないのだが、気がつくと「都築さんだったら、どうするか?」と考え、自然とやさしい波が出る。

 距離をおくとかやり過ごすとか我流で他人の波に対処してきたが、今ひとつうまくいっていなかった。人との付き合い方が上手な人の真似をすればよかったのだ。成功するか失敗するかわからない方法を自分で考えて実行するより、成功している人の真似をすればいいし、なんならその人に相談してもいい。ひとりで抱え込んで考える必要はないのだ。だって今はすぐ近くに都築がいる。

 静香が目覚めると部屋はコバルトブルーの波に満たされていた。思わず頰がゆるむ。今日は都築と初めての旅行に出かける日だ。最初のデートで「海に行きたい」と言うと都築は「じゃあ沖縄に行こう」と答えた。神奈川か千葉あたりを想像していた静香は少し驚いた。時間もお金もかかる。

「沖縄には行ったことある?」

 沖縄と聞いたとたんに静香の頭に、テレビコマーシャルで見たコバルトブルーの海が浮かんできた。無性に行きたくなる。

「ないです」

「信じられないほどきれいだから一緒に行こう。あんなきれいな海、他じゃ見られない。絶対見ておくべきだよ」

 都築は熱心に説明する。ふだんよりも高い波が静香に押し寄せ、完全に飲み込まれてしまう。この人は本当に一緒にきれいな海を見たいんだな、と幸福な気持ちになった。

「そう言われると行きたくなるけど、高いんじゃありません?」

「まかせてくれ。旅行会社に友達がいるから安く手配できると思う」

「ありがとうございます!」

 驚くほど素直に喜べた。うれしいことがあっても、手放しで喜ぶのが不安だった。周りの目が怖かったのだ。他の人が引いたりしないか、空気を読んでいないと思われないかいつも心配していた。

 義眼を手に入れてからまだ二カ月しか経っていないのに自分はだいぶ変わった。仕事も順調だ。やはり他人の感情がわかることは大切なのだと改めて感じる。以前、どんな気持ちで暮らしていたか思い出せないくらいだ。

 義眼堂の千瞳は「あなたの世界の半分をいただきます」と言った。その通りに、静香の世界の半分はなくなった。でも、その代わりに新しい世界が静香の失われた半分を埋めてくれた。

 部屋を出たところで隣に住んでいる女性とばったり出くわした。何度か見かけたことがある。その都度互いに無言で会釈していたが、言葉を交わしたことはない。女性からはほのかにオレンジ色の波が出ている。機嫌は悪くないようだ。静香は思い切って声をかけてみることにした。

「おはようございます」

 相手はちょっと戸惑った表情を浮かべたが、静香の身体からあふれるコバルトブルーの波に包まれるとくったくない笑みを返した。

「おはようございます」

 あいさつと一緒にオレンジ色のあたたかい波が返ってくる。

 自分もいつか都築のように周囲に素敵な波を広げられるようになりたい。静香はそう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る