第1話 感情の波が見える目 ⑥

 静香は落ち着かなかった。午後から会議なのだ。いまだに会議は緊張する。今回は部長がリーダーのプロジェクトの会議だからよけいだ。注意されたグラフの目盛は昨日のうちに残業して修正しておいた。だからそんなに心配することはないはずなのだが……席で報告書を何度も読み返しているうちに気がってきたので、リラクセーションスペースで一息つくことにした。

「なにしてんの?」

 ぼんやりとリラクセーションスペースで窓の外をながめていたら後ろから声をかけられた。振り返るまでもなくわかる。オレンジ色のやさしい波が静香を包んでいる。都築だ。

「波に雨が降るのを見ていました」

 眼下には小雨降る街の風景が広がっている。いくつもの傘の合間を縫うように、褐色の波や青い波が流れている。そこに音もなく雨が降り注ぐ。不思議な光景だった。

「波?」

 都築にき返されて、はっとした。他の人には波は見えない。

「いえ、あの、人の波という意味です」

 とっさに言い繕う。

「詩的なことを言うじゃないか」

「意外ですか?」

「いや、小説とか好きそうだなって思った」

 都築はコーヒーサーバーから紙コップにコーヒーを注ぎながら答える。都築の波が珍しく黄色を帯びている。静香に興味があるらしい。どういうことかと思いながら、静香は少し考えた。

「オレ、好きだよ。そんなにたくさん読んでるわけじゃないけど、SFとかミステリとかたまに読む。最近読んだのでは『天才ハッカー安部響子と五分間の相棒』とかいう本がおもしろかった」

 都築は静香の横に立つとコーヒーをすする。その本なら読んだことがある。

「サイバーミステリの定番ですね。あたしも読みました。主人公の響子さんの〝主に私が〟っていう口癖好きなんです」

 今どき紙の本を読むのは少数派だし、静香はラノベをほとんど読まないので、さらに少数派だ。変わり者と思われたくないので、小説とか好きそうと訊かれた時にすぐに返事ができなかった。

「波に雨が降る……か」

 都築はそう言うと窓際まで歩き、外をながめた。ふつうの人の目にどんな景色が映っているのか今の静香にはわからない。でももしかしたら人の心がよくわかる都築なら似たような風景を見ているかもしれない。

「オススメの本があったら教えてくれないか?」

「え?」

「山崎さんはオレより本を読んでそうだからさ」

「有名なのしか読んでないですよ」

「たとえばどんなの?」

「『アルジャーノンに花束を』とか、響子さん好きなら『原発サイバートラップ』もいいかもしれません」

 本当に薦めたいのは『百年の孤独』なのだが、この流れで薦める本ではない。マジック・リアリズムの傑作でノーベル文学賞作家の代表作でもある。ただし、読む人を選ぶ。

「どっちも知らないな。読んでみる」

「貸しましょうか?」

 思わず言ってから、お節介だったかもしれないと思う。いい年の大人なんだ。本くらい自分で買うだろう。そっちの方が作者にも還元されていい。

「ほんと? 助かる。読んでみておもしろかったら後でちゃんと買うよ。そうしないと作者に申し訳ない」

「じゃ、また」

 すごくふつうに話せたことがうれしかった。でもこれは都築の感情が安定しているからかもしれない。波の色もそんなに変わらないし、激しくなったり、ネガティブな色になったりしない。だから安心していられる。


 都築のおかげで幸福な気分になった静香は、席に戻るとすぐに現実に引き戻された。もうすぐ会議だ。この目を手に入れてからはよけいに緊張するようになった。参加するメンバー、テーマ、気分で会議の雰囲気は大きく変わり、さまざまな様相の海を見ることになる。必ず波はぶつかり合い、砕けたり、合流したりする。ちょっとした自然の驚異みたいだ。相手の気持ちがわからないのも困るが、わかりすぎるのも逆にやっかいなことがある。

 その日のテーマは報告書の最終案についてだった。最終案までになっていると、それほど大きな意見の対立はない。締切も近いし、事前の確認も終わっている。関係者全員で最後の確認をするくらいだ。

「今回のアルファサン社向け『キッチンIoT市場調査』の結果について、全員すでに確認済みと思いますが、都築さんから要約を説明してもらってなにか気になる点や積み残しがあれば指摘してもらいましょう」

 プロジェクトの責任者である部長がそう言うと、全員がうなずいてそれぞれの前のパソコンの画面に目を向ける。少し緊張の混じった鉄色の波が部長や参加者から流れ出す。

「それでは報告書五ページからのエグゼクティブ・サマリーをご覧ください」

 都築治が話し出すと、落ち着いただいだいいろの波が広がった。大きくはないし、強くもないが、ゆったりと会議室全体に広がり、他の参加者の鉄色の波を打ち消すように橙色に変えてゆく。

 いったいどうすれば都築のようになれるのだろう? もしかして生まれつきなのかもしれない。スポーツや芸術の才能のようにコミュニケーションもある種の才能がなければうまくこなせないのかもしれない。

 これまでコミュニケーション能力のないことを嘆いていたけど、うまくできる方が少数派かもしれない。そう思うと少しほっとするが、自分のコミュニケーション能力が弱いという問題が解決されたわけではない。

 ひととおり説明が終わると質問や確認が始まった。

「三章のとこなんだけど、うえ経済研究所のレポートを見ていないだろ。あそこは成長が鈍化するって市場予測を出してるから、違う結論になった理由を説明した方がいい」

 マネージャーのきしが都築の顔を見ずに発言した。意地悪い攻撃的な汚れた青い波が会議室に広がり、ある者は反発するようにオレンジ色の波で打ち消し、ある者は同じ色の波を出す。同じ色の波はぶつかると、より大きな波になって本人に戻る。静香は打ち消しも増幅もせずにやりすごした。

「なるほど! ありがとうございます。そのデータを確認して直しておきます。こちらの主張自体は変える必要はないということですよね?」

 都築は波が自分にぶつかる直前に、そう答えると、少し大きなオレンジ色の波で岸田の波を飲み込んだ。そのまま会議室全体に波は広がってゆき、落ち着いてくる。

「うん。結論はこのままでいい」

 マネージャーの岸田がうなずくとさきほどの汚れた青い波はなくなった。岸田はまだ質問があるらしく、ページを繰っている。

「それと四章の市場予測の結果だけど、これって合ってる? ちゃんとノンパラの相関係数で計算してる?」

 どきりとした。そこは静香が計算した。間違っていないはずだと思うけど、ちょっと前のことなのですぐにはわからない。

「そのはずです」

「はず? なんか数値がおかしいような気がする」

「ええと、あとで確認します」

「その数字が違っていると、結論にも影響するってわかってる?」

 今度は部長から言われた。静香を責めるような強い波が広がる。

「はい。申し訳ありません。会議が終わったらすぐに確認します」

 静香はほとんどパニックだった。市場予測を数値で出す時、それを間違えるのは致命傷だ。特に今回だと予測値は重要な目安になっている。もし間違っていたら他の人の担当箇所も書き直してもらうことになり、他のメンバーやリーダーに迷惑をかけてしまう。万が一、納期に遅れるようなことがあったら𠮟られるだけではすまないかもしれない。

 不安で混乱しているうちに会議は終わった。

「会議終わったんだ。早いね。もう楽勝?」

 席に戻ると美由紀が話しかけてきたが、それどころじゃない。

「なんか宿題もらっちゃった」

 できるだけさりげなく答えたつもりだったが、静香から出た波は重いグレーだった。その波が美由紀に達すると、なにかを察したらしく顔色が変わった。

「邪魔してごめん。がんばってね」

 美由紀はそう言うと、自分のディスプレイに向き直った。

「ありがとう」

 静香は答えたが、うまく波を抑えられなかったことが気になった。

 プロジェクトで共有しているデータと予測に使ったプログラムを呼び出してチェックする。数分かけて確認してミスが見つかった。

 ポカミスだ。欠損データの処理をしていなかった。どうしよう。

 あわてて再計算する。当たり前だが、数値は異なっていた。幸いおおまかな傾向は違わないが、それでも予測値を参照している箇所は書き直しになる。

 すぐに報告すれば納期には間に合うだろう。でも、報告するのが怖い。せっかくまかせてもらった仕事なのに、こんな基本的な見落としでミスするなんて。息苦しい。冷静になれ、順序立てて説明して謝るだけだ、誰にだってミスはある。それより間違いをきちんと認めて報告する方が大事だ。

 そんなことはわかっている。わかっているけど怖い。どうしようもなく怖い。

 抑えようとしても波があふれ出す。こんな状態では相手にも不安を移してしまう。誰かに相談して、気持ちを落ちつけたい。それに相談すると言ったって、誰にすればいいのだろう? 部長には言えない。いや、問題はすぐに報告すべきなのだけど、それが怖くてできない。このままだと昨日と同じようにおびえの波で部長を刺激してしまうに違いない。

 就職して二年、仕事に慣れて、苦手だった人間関係も義眼のおかげでなんとかなってきたのに、なぜこんな失敗をしてしまったのかわからない。本当に自分はぐずだと唇をむ。自己否定の赤銅色の波が静香の周りに流れ出した。

「どうしたの?」

 美由紀が心配そうな顔で静香を見ていた。しまった。静香が周りを見渡すと、数メートル先まで赤銅色の波が波紋を広げていた。周りの雰囲気を壊している。静香は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

「顔色悪いよ。体調悪いの? なにかあった?」

「あ、あの」

 ダメだ。言葉が出ない。いっそ美由紀に言ってしまおうか。

「あのさ。最近、いろんな我慢してるんじゃない? 気になることや心配なことは言っちゃった方がいいよ」

 美由紀はそう言って静香を見る。我慢、そうかもしれない。波を見てうまく立ち回ることばかり考えるようになっていた。本当に求めていたのはそういうことじゃなかったはずなのに。

「なんだ、どうした?」

 声とともに温かい暖色の波に包まれた。いつの間にか向かいの席にいたはずの都築が静香の隣に立っていた。とたんに静香は救われたような気分になり、赤銅色の波が霧散する。ほっとした。

「先輩」

「さっき指摘されたとこ?」

「ええ、まあそんな感じです」

「ちょっとリラクセーションスペースで話をしよう」

 都築の言葉に静香は迷う。都築になら相談できる気がする。

「行ってきなよ。都築さんならきっと力になってくれると思う」

 美由紀からオレンジ色の波が出ていた。心配して励まそうとしてくれている。静香は、「ありがとう」と小さな声でお礼を言い、都築に相談することに決めた。

 リラクセーションスペースまで行くと、都築は静香にコーヒーをれた。

 それをすすりながら、静香は手短に状況を説明する。話しているうちに少し落ち着いてきた。都築の波の効果が抜群だ。

「気にするな。まずオレから話をしてみる」

 その一言を耳にした時、ほっとした。都築の顔を見てから、助けてくれるんじゃないかと心のどこかで期待していた。でも、そこまで甘えていいはずがない。

「そんな……だって、これはあたしのミスなのに」

「オレはお前のメンターだ」

「それは今年の春で終わりました」

「じゃあ、先輩だ」

「でも、自分のことですから自分で説明しなきゃダメですよね」

「くわしいことは君に説明してもらう。でも、まずはオレから簡単に報告しておく。こういうのは最初に行き違いができると尾を引くからな」

「はい。ありがとうございます」

 心の中であんの気持ちと不安と都築に甘えてしまった自分を責める気持ちがぐるぐる渦を巻いている。複数の色の波が静香のひざのあたりを流れている。混乱しているのだと思う。意味がないことだとわかっていたが、つい波を壊すように軽く足を動かす。もちろん幻想の波は壊れない。代わりに少し色の数が減ってきた。自分の感情を目で見て知ることで気持ちが落ち着くのだ。

 都築は静香が黙ってうつむいているのをじっと見ている。彼の周りからはオレンジ色のやさしい波があふれでて、静香の周りを包んでいる。なぜ彼の波はこんな時でも変わることがないのだろう。むしろ濃くなっているくらいだ。うらやましい。自分は義眼で感情の波を見て、やっと人並みなのに都築は自然に安定している。どうしてなんだろう。

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