第1話 感情の波が見える目 ⑤

 八百万紅蓮は静香を観察していた。義眼を与えてから一週間を目安にしばらく様子を見るようにしている。さすがに二十四時間というわけにはいかないが、主に日中に職場などでの立ち居振る舞いを確認している。

 人間と比べると紅蓮の視力は驚異的で、一キロくらい離れても表情を見分けることができる上、建物など障害物があっても透視できる。そして見る対象が決まればその周辺に限定した音も聴くことができる。

 静香が部長に𠮟られる様子も見ていたが、特に問題なさそうだった。キレて「あたしにはあんたの思ってることが全部わかるのよ!」などと言い出したら、即座に千瞳に報告して対処することになるが、そういう事態は起こらなそうだ。

 観察を切り上げた紅蓮は義眼堂には戻らず、休憩を取ることにした。そのまま高円寺ストリートのはじまで歩き、を右斜めに曲がる。さらに五分ほど歩くと、古い木造アパートに突き当たる。そこにマチバというバー(昼はカフェ)とは名ばかりの万能飲食店がある。義眼堂からさほど遠くないことやいくつかの説明しづらい理由で、千瞳と紅蓮はよくそこにいく。

 カウンターだけの小さな店に入ると、店主のじまぼうようが退屈そうにしていた。グレーのジャケットにジーンズ、えんじ色のネクタイを締めていて、整った顔立ちのイケメンだ。

 壁には古い映画のポスターやドライフラワーが飾ってあって、天井には無数の葉書や手紙が貼ってある。この店の客が店主の茫洋に送ったものだという。くすんだだいだい色のあかりは少し暗くて、いろいろなものがぼんやりしている。よくいえばアンティーク、悪く言うと古臭い店だ。

「こんにちは」

 奥の席で客が静かにコーヒーを飲んでいたので、そこから離れた席に腰掛ける。

「いらっしゃい。千瞳のだんは忙しそうだな」

 茫洋はそう言うと、紅蓮の前にお冷やを置く。

「ご主人さまは部屋にこもって調査か研究だと思います」

「まだあきらめないのか。執念深いなあ。まあ、旦那はおとぎ話の世界の住民みたいなもんだからな」

「茫洋さんもおとぎ話の世界の住民でしょ?」

「ちげーよ。リアルにオレは生きてるし、毎日をエンジョイしている。旦那はまだおとぎ話に未練がある」

「いまどき、エンジョイとかいう人は心に深刻な問題を抱えていそうですが」

 茫洋は悪い人ではないけど、どこかおかしいし、千瞳の仲間捜しを止めさせようとしているから要注意だ。

「オレは現状に満足して楽しんでるぞ。知ってるだろ。君のとこの夢追い人とは違うんだ。仲間だとか故郷だとか別にどうでもいいじゃないか」

 その見解には紅蓮も同感だ。でも千瞳はそう考えていないし、おそらくほとんどの人間もそう考えない。

「夢があった方が楽しいんじゃないですか?」

「かなう夢ならそうかもしれないな」

「夢なんてかなうかどうかわからないからいいんじゃないですか?」

 紅蓮はそう言ってコーヒーを一口飲んで茫洋がいつもよりご機嫌なわけがわかった。

「そういえばもうすぐ満月なのでしたね」

 紅蓮の言葉に茫洋がにやっとした。

「珈琲の味でわかったのか?」

「はい。味というか濃度と油分が変わります。茫洋さんの機嫌がいいと抽出時間は長めになり、機嫌が悪いと短くなります。満月の時、抽出時間はもっとも長くなります」

 茫洋は肩をすくめる。

「そのことは誰にも言うなよ。オレの体調が月に左右されてるなんて知られたくない」

「承知しました」

 紅蓮が答えると、すぐに茫洋は話題を変えてきた。

「さっきの話だけど、実現するかどうかわからないなんて、夢はばくと同じじゃないか」

「博打も楽しいみたいですよ」

「おいおい。そりゃそうかもしれないが、一生博打をしているわけにもいかないだろ。どんどんむなしくなっていく。負け続けたら悲惨だぞ」

 茫洋の顔をじっと見る。チャラチャラした雰囲気だが、つかみどころがなく誰に対しても同じように気さくに接する。この古いアパートのオーナーであり、管理人でもある。どういう経緯でアパートの持ち主になったのかは知らないが、アパートの収入で悠々自適の生活を送り、半分趣味でこのカフェを営んでいる。おそらく茫洋は今の生活に満足している。その心の余裕がこのカフェの雰囲気作りにも一役買っているのは間違いない。元の世界に帰りたいとは思っていないだろう。

「茫洋さんはしたいこととかないのですか?」

「したいこと? 友達と遊んで酒をむ。やりたいことは毎日やってる」

 茫洋はそう言いながら手で豆をいた。最初に見た時は目を疑った。硬い珈琲豆を両手ですりつぶすというのも信じがたいし、衛生的に問題ありそうな気もする。それに他の客に見られたら驚かれるだろうと思うのだが、ものぐさな茫洋は平気だ。

「そうではなくて将来の目標です」

「おいおい、将来なんて言うなよ。今が続けば将来になるだけだ。先のことを考えたって意味がない」

 茫洋はそう言って笑う。来年のことを言うと笑うことわざは正しかった、と紅蓮は納得した。

「今の目標は、旦那としばらく吞んでないから吞みたいってことかな」

「ご主人さまとは三日前に吞んだばかりですよ」

「三日前なら充分昔さ」

「将来のことも考えないし、過去のことは三日前が昔話になるなんてせつ的ですね」

「画廊もやってるぞ」

 なんで突然画廊の話になるのだ? 紅蓮は戸惑う。茫洋のアパートの一階の半分はカフェで残り半分は画廊だ。画廊といっても有名な画家の絵を飾っているわけではなくて、素人の持ち込んだ作品を茫洋が見て気に入ったものを展示しているだけだ。その上、入場料を取る。茫洋に芸術作品の目利きができるとは思えないが、毎日金を払って見に来る人がいる。不思議だ。

 紅蓮も何度か店がヒマな時に無料で見せてもらったが、よくわからなかった。少なくとも写実的な絵はひとつもないし、なにが描いてあるかわからないものばかりだ。心象風景というものかもしれないが、だとしたら作者とはあまり友達になりたくない。そもそも紅蓮には絵のよさがわからないので、はなはだ偏った評価ではあるが。

「ええと、話が見えません」

「だから画廊って刹那的じゃないだろ」

 そう言われるとそんな気もするが、以前見たことのある絵は刹那的という以前に意味不明だった。

「どういう理屈なのか説明していただけますか?」

 奥の客が不思議そうに茫洋と紅蓮をちらちら見て、会話に聞き耳を立てている。そんなに変わったことも、おもしろいことも話していないと思うのだが、興味を引いたらしい。もしかしたら、茫洋のファンかもしれない。茫洋は「縦読みちゃん」という名前でインターネットの生放送を時々やっている。そこそこ人気があって常時二百人くらいのリスナーがいるという。

 紅蓮も聞いたことがあるが、どこがいいのかよくわからない。カフェで話しているような雑談ばかりなのであえて放送を聴くまでもないというのが紅蓮の感想だった。それでもなぜか女の子を中心にファンがいて、たまにこの店にやってくる。横目で確認すると奥の客は女性らしかった。だるんとしたスウェットを着ているので性別や年齢がよくわからない。

「芸術は時間を超えるからさ。刹那的のように見えても永遠だ。それを陳列する画廊もまた永遠だ」

「ますますわかりません」

「なにその態度。お前、どんどん人間的になっているぞ」

「どういう意味でしょうか?」

「最初に会った時はもっとロボットっていうか人間っぽくなかった。できそこないの人工知能みたいな感じ。それに神様みたいに上から目線だった」

 他の客がいるのに、そんなことを話していいのか? と思ったが、いつの間にか奥の客は姿を消していた。ここは先払いなので客はそのまま出て行ける。

「できそこないはひどいですね。単に慣れていなかっただけでしょう」

「そうかなあ」

「話を戻しましょう。将来のことも過去のことも考えずに生きてらっしゃるんですね」

「いいじゃん。生き方は人それぞれだ。オレはそういうことを考えたくないんだよ」

あまのじやだからですか?」

「天邪鬼はもとが神様だからオレたちとは違う」

「マジレスされた」

「オレはただのはぐれた鬼だ。だんと同じ」

 茫洋と千瞳は鬼だ。昔話に出てくるような金棒を持って虎皮のふんどしをしめた鬼ではなく、一見すると人間と変わりない姿をしている。しかし能力や寿命、それに考え方が人間とはだいぶ違う。遠い昔、鬼やあやかしたちは人間と一緒に暮らしていたが、だんだん距離を置くようになり、今ではほとんど出会うこともなくなった。多くの人間は鬼を架空の存在と考えるようになっている。ごくわずかだが、鬼のさとから出て来て帰れなくなった千瞳や茫洋のような鬼たちが人間社会に隠れて住んでいる。

「ご主人さまは帰るところがありますし、帰ろうとしています。茫洋さんみたいに根無し草ではありません」

「似たようなもんさ。戻れないなら夢を見ているのと同じだ。しょせん鬼は鬼だ」

 鬼と人間の違いもよくわからない。どうやら鬼の方が力も強くて特殊能力も持っているらしいが、だったら人間社会に溶け込んでいい生活をできそうなものだ。それなのに人間からは隠れて生きている。千瞳や茫洋のようにはぐれて人間社会にとどまっている鬼もいるけど、それは例外だ。世の中はわからないことだらけだ。

 茫洋と千瞳の持つ特殊な力すら紅蓮にはまだよくわかっていない。馬鹿力や義眼を作る能力だけではなさそうなのだが、教えてくれないし、見る機会もない。

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