第1話 感情の波が見える目 ④

 静香はあまり仕事に集中できなかった。時々、海の景色が頭に浮かんで来る。ビーチリゾートのコマーシャルを観てから、海に行きたくてしかたがなくなった。毎日、人の感情の海に浸っているのだけど、あれは触れることのできない幻に過ぎない。リアルな波の音やしぶき、冷たさが恋しくなる。

 大学生の頃は海には関心がなかった。部活の部員や友達から夏休みに海への旅行を誘われることはよくあったが、日焼けするし、水着を考えなければならないのでおっくうに感じていたくらいだ。社会人になってからは海に誘われることはなくなった。

 彼氏や親しい友人がいれば違うのかもしれないが、社会人になってからそういう人はできていない。せいぜい仕事帰りに食事に行くくらいだ。学生時代の友達とは職場の場所や休みのスケジュールがうまくみ合わないため、月に一回会えればいい方だ。味気ない週末を過ごしている分、ビーチリゾートへのあこがれが強くなる。

「お昼行かない?」

 そんなことを考えながら仕事をしていたら声をかけられた。昼はいつも同じ職場の同期数人と連れ立って近所のランチを食べに行く。エレベータに乗りながら、どこに行くか相談する。楽しくないわけではないが、ちょっとめんどうに感じることもある。波が見えるようになるまでは、他の人がどう思っているかわからなくて不安だったので、とりあえず誘いには乗ることにしていた。

 みんな一緒に食べるのが大好きなんだろうか? あるいは義務みたいに感じているのだろうか? などと考えていた。でも、それは外れていて、当たっていた。他の人も自分と同じように一緒に食べたい時もあれば、そうでない時もある。積極的に一緒に食べに行く習慣を続けたいわけではないけど、一度止めたらまた始めるのが大変そうだから止めないでおく。そんな感じなのだろう。波の色が静香に教えてくれた。

 エレベータに三人で乗ると、かすかな低い波が同期の子たちから漂ってくる。淡いグレー。きっと今日はあまり乗り気ではないんだ。あまり楽しいランチにならなそうだ。大人しくしていよう。

 エレベータを降りると目の前に都築治が立っていた。周囲に明るい空色の波が立っている。この人は安定していい色の波を出す、と静香は思う。頻繁に波の大きさや色が変わる人と、そうでなく安定している人を見分けられるようになった。よく変わる人は要注意だ。元気そうなオレンジ色だったのに、ちょっとした一言でグレーに変わってしまったりする。都築の波の色も変わるが、いつも明るい色、あたたかい色をしている。

「よお」

 都築が軽く右手を挙げた。空色の波があたたかみを帯びる。

「こんにちは」

「どうも」

 静香たちは一斉に会釈する。

「どちらに行ってたんですか?」

 静香がたずねると、

「本社の打合せから戻ったとこ。昼メシ?」

 都築は右手の親指を立てて答えた。

「ええ」

「オレもまぜてもらおうかな」

 周りの波の色が困惑の茶色に変わり、ぐっと高くなる。

「えっ」

「冗談だよ」

 都築は笑いながらエレベータに乗り込む。すっと周囲の波の色が元に戻った。

「またな」

 エレベータが閉まる直前に都築が手を振った。エレベータの扉の隙間からあたたかい色の波が寄せてきた。それは静香たちを浸し、周囲の波もあたたかく変える。

 やさしい波は周囲を安定させる効果があるみたいだ。都築がいると周囲がなごやかになる。近くに暗い色の波があると、周囲はそれに影響されがちだ。明るい色の波と暗い色の両方があると、だいたい暗い色が移ってしまう。人間はネガティブな方に影響を受けやすいらしい。

 でも数は少ないが、暗い色に引っ張られずに明るい色を保ち、やがて明るい色を周囲に広げる人もいる。都築はそのひとりだ。都築の波がよいのは安定していて明るいだけでなく、やさしいところだ。なにげないことを話すだけで、その波が周囲に広がり、人の心を溶かし明るくやさしくしてゆく。

「都築さんはいつも元気だね」

 美由紀が感心した口調で言った。

「都築さん、変わってるよね。彼女いるのかな?」

 隣の女の子がそう言うと淡い桃色の波が起きた。もしかしたら都築のことを少し気にしているかもしれない。

「山崎さんじゃないの?」

 美由紀がすぐに答える。この間、否定したばかりなのにまだ疑っている。透き通った黄色い波。好奇心は絶えない。

「え? 違うよ。なんでそうなるの?」

 静香は笑いながら答えた。波の色が茶色の戸惑いであることを自分で確認する。

「だってメンターとできちゃう人多いでしょ。そういう目的もあるみたいよ」

「そういう目的って、〝出会い〟?」

「そうそう。私もメンターにご飯誘われたよ」

「あんたのメンター誰だっけ?」

 話題が他の女の子に移ったので静香はほっとした。それにしても都築が現れただけでみんなの波の色がこんなに変わるとは思わなかった。さっきまでエレベータの中ではぼそぼそつぶやきあっていただけなのに、都築と会ったら笑いながら話すようになっている。静香の周囲の波の色はさきほどのグレーから淡い空色に変わりつつある。パステルカラーみたいできれいだ。

 ビルの外に出ると、無数の波のけんそうに包まれた。見知らぬ誰かとすれ違った時、かすかに潮の香りを感じて、海に行きたいとまた思った。


 その日、定時で帰ろうとすると部長が静香の席にやってきた。緊張する。静香は部長がリーダーのプロジェクトに参加している。ふつうのプロジェクトならマネージャークラスがリーダーになるが、今回は珍しく部長自らがリーダーを務めている。マネージャーが手いっぱいなのが理由なのだが、やはり直接話をするのは緊張する。

 それに周囲に濁色の波を吐き出しているから、なにか問題があって静香に言いに来たに違いない。

「あのさ。尺度を統一してないでしょ」

 前置きもなにもなく、静香が書いた報告書のページを突き出してきた。びくっとする。すぐになにを言われたのかわかった。グラフを作る時の目盛の付け方が他の人と違っているのだ。静香自身も途中で気がついたが、あまり気にせずそのまま社内ネットに上げてしまった。

「グラフの目盛ですね」

 自分から赤茶けたさびのようなおびえの波が出るのを抑えようとするのだが、意識すればするほど波の色が濃くなってしまう。こんな波を部長にぶつけたら、さらに部長のいらいらがひどくなるに決まっている。

 相手の感情はわかっても切り抜ける方法は自分で考えなければならない。距離を取って逃げるわけにもいかないし、やり過ごそうとしてもこれほど近くにいられると怯えや不安の感情を抑えられない。むしろ波が見えるせいでよけいに怖く思うようになったのかもしれない。波を見て怯え、その怯えが相手に伝わって、さらに相手の感情を刺激してしまう。

「わかってるなら、なぜやらなかったの?」

 静香の波が部長に達すると、それにぶつかった部長の濁色の波がぐんと高くなって静香の波を飲み込んで静香に押し寄せる。波は顔まで来ていた。おぼれる、と思い、ますます静香の波の色が濃くなる。

「申し訳ありません」

 部長の波が引いたタイミングで謝るのだが、部長の波を追うように静香の怯えの波が追いかけ、ふたたび寄せてくる部長の波とぶつかる。さっきと同じ繰り返しになる。また部長がなにか言うに違いない。静香が恐縮していると、そのまま静香の波が部長を通り過ぎた。

「まあ、これからは気をつけてね」

 部長もしつこく言っても逆効果と思ったのか、静香の波をやり過ごしてくれた。助かった。こういう時の対処方法を考えなければと思う。

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