第1話 感情の波が見える目 ③

 気がつくと静香は高円寺ストリートに立っていた。義眼堂のビルの前だ。

 周囲を見回したが、義眼堂の看板はなくなっていた。地下へ続く階段もない。妄想だったのかもしれないが、それにしては鮮やかに覚えている。両眼ともあるようだ。片目を隠してもう一方が見えていることを確認する。左目に少し違和感もあるが、義眼になった実感はない。ほんとうに左目は義眼になったのだろうか?

 静香はその場にしばらく立ち尽くしていたが、すでに日はとっぷりと暮れている。ずっと突っ立っているわけにもいかないので、静香は家に帰ることにして、通りに目を転じて驚いた。

 高円寺ストリートは、水彩画のようだった。昼と夜のはざに漂うあかりと月。それに行き交う人々からこんこんと多彩な水が流れ出して道に波があふれている。

 おぼれてしまう、と思ったが、これは幻覚ではないかと思い直す。自分のひざまで波が来ているのになにも感じない。冷たくもあたたかくもない。自分からも鉄色の波が出ている。いったいこれはなんだろう?

「波は人の気持ちです」

 後ろで声がした。振り返ると八百万紅蓮が立っていた。やはりさっきのことは夢ではなかったのだ。

「人の気持ち……ですか?」

「感情を波の色と大きさで視覚化しています。その目があれば他の人がなにを考えているかわかります」

「これが? この波が人の気持ちなの?」

 すごいと思ったが、過剰かもしれない。だって道は波であふれている。

「すぐに慣れるから安心してください」

「波の色には意味があるんですか?」

「色が感情の種類、波の大きさが感情の強さ、波の向きが感情の方向を表しているんです。強い波をまともに受けると巻き込まれて溺れる。ネガティブな感情だったら嫌な気分になるし、ポジティブな感情だったら楽しくなります」

「ネガティブな感情からは逃げればいいんですか?」

「逃げるというかやり過ごす。あと距離を置けば大丈夫。これまでお客さまは自分に打ち寄せてくる波に気がつかないでまともに受けてたんだと思います。他人のいろんな感情が見えていなかったから人間関係がうまくいかなかったんでしょう」

「そうかもしれません。感情を可視化すれば相手の気持ちはわかるようになるってことですね。わかりました。これって使いたい時だけオンにできないですか? いつも波が見えるのはちょっと不便かなあ」

「できません。いつ使えばいいかわかるなら空気が読めてるということですが、お客さまはそうではないので常にオンでないと意味がありません」

 紅蓮に言われて納得した。全くその通りだ。そこで紅蓮から波が出ていないことに気づく。

「八百万さんは波を出さないようにしているんですか? 波が見えません」

 静香がそう言うと、紅蓮の身体からわずかに濁色の波が現れた。

「あたしは人間ではありませんので……感情はありますが、まだ少ないのです。だんだん増えていきます。いいことか悪いことかわかりませんが」

 人間ではありません、と言われて、はっとしたが、考えてみれば義眼堂自体が人間にできることではない。魔道士、じゆじゆつ師あるいはもののけといったたぐいの存在なのだろう。紅蓮は悪魔か天使なのかもしれない。

「……お世話さまでした。ありがとうございました」

 静香は礼を言うと、夜に向けてわくわくした彩りが目立ち始めた高円寺ストリートを歩き出した。不思議なものだ。同じ風景を見ても静香に見えているのは海だけど、他の人には当たり前の街が見えている。不安はあるが、感情を可視化するこの能力が役に立ってくれそうな気がする。

 こうして山崎静香は感情の海の住民になった。


 オレンジ色の波が自分を包むように打ち寄せてきて、静香は回想を中断した。波の主はづきおさむだとすぐにわかった。オレンジ色はやさしく慈愛に満ちている。この波を発する相手には安心して大丈夫とわかる。

 同じ部署の先輩である都築はなにかと静香の面倒を見てくれる。顔を上げると都築が向かいの席に腰掛けるところだった。「おはようございます」と声をかける。

「おはよう。スラックで山崎さんに質問してたヤツがいたぞ」

 スラックはネットワーク上の社内の情報共有ツールだ。最近の社内連絡や簡単な情報交換、意見交換はスラックで行うことが多い。

「え? なんだろう? 見てみます」

 書き込みがあると自動的に自分あてにメールやメッセージが来るように設定もできるが、静香は縛られるような気がして設定していなかった。見てみると確かに静香に質問が来ていた。手がけている報告書のしんちよくに関するものだった。

「ほんとだ。ありがとうございます」

 礼を言うと都築はおうように笑顔を返してきた。あたたかい色の波が寄せてきて、静香はほっとした気分になる。都築はいつも相手を安心させる波を出す。こういう波を出せるようになれば人間関係も円滑にできるのだろう。

「じゃ、オレは出かけてくるから」

 そう言って都築が席を立つと隣席の同期のが静香を横目で見た。なんだろう、と思っているとスマホにメッセージが届いた。

── 都築さんとつきあってるの?

 静香は都築と親しいが、それには理由がある。この会社にはメンター制度があり、最初の一年間は先輩社員が新入社員を一対一で面倒を見てくれる。都築は静香のメンターだった。入社後一年でメンター制度の期間は終わったが、その後もなにかと面倒をみてくれる。

── ないない。その発想どこから来たの?

── 仲良さそうだから。時々ランチも一緒に行ってるでしょ。

 ランチは他の女子社員と一緒でないと目立つ。都築とランチに行った時、噂話をされているのかもしれない。それとなく美由紀の波を見ると、好奇心の黄色だった。透き通っているから、悪意はなくて単に知りたいだけのようなので安心した。

── 最近は行ってないけどなあ。

 静香が答えると、「なんだあ」と美由紀はがっかりしたような声をあげた。

 美由紀とメッセージを交換しながら、ふつうにコミュニケーションできていることに驚く。前はこんなにうまくやりとりできなかった。義眼の力を手に入れてから、人の気持ちがわかるようになり、安心して接することができるようになった。相手の気持ちを目で見て確認してから話せることがこれほど便利とは思わなかった。

 仕事でもクライアントとの打合せをやりやすくなった。以前は、相手がはっきりなにをしたいかを言ってくれないと本心を推しはかれなかった。でも、今は相手が言ったことに、「こういうまとめかたも考えています」と探りを入れて波の色を確認すればよくなった。クライアントが納得し、安心した波が出ればそれが正解だ。あからさまにデータと異なる結果は出せないが、解釈に幅を持たせられる結果にすることくらいはできる。

 すごく生きやすくなった、と思う反面困ったこともある。「なにを考えているのかよくわからない」「なんでも他人ひとごとみたいに対応する」と時々言われるようになった。相手の波を見て、ネガティブな色だったら話しかけず、声をかけられても受け流すようになったせいだ。

 しかたがないのだ。こちらが考えていることが波になって相手に伝わると、それが感情を害してしまうこともある。考えていることを伝えようとすれば、相手の波に自分の波がぶつかってしまう。特に波が大きい時は、そうなりがちだ。自分の意思、感情を出さずに波を低くして、相手の波が通過するのを待っていればそんなことにはならない。それが、「なにを考えているのかよくわからない」「なんでも他人事みたいに対応する」ように見えるのだろう。

 どうしたらよいのかわからない。また昔のように「空気が読めない」と言われそうで、自分の意思や感情を出すのは怖い。もっとうまいやりかたがあるのかもしれない。

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