第16話

「特別な介護の知識は必要ありません。人と会って話をするだけでも、本人にとって良い刺激となります。ちょっとだけ勇気を出して、挨拶をしてみて下さい。最近どう、なんて訊いて、話に耳を傾けて下さい」

 講演は滞りなく進む。しかし、薫は動揺を抑えられずに、オレンジリングを握ってしまった。

 入り口にいたあの男は、あろうことか薫の恋人の隣に腰を下ろした。

 あの男、片山蒼良そら

 一時的な気の緩みをきっかけに体の関係になってしまったが、薫の方が気持ちが伴わず、長続きせずに別れた。蒼良が薫を深く愛してくれていたのはわかっている。それでも、気持ちのすれ違いに気づいた薫は、蒼良から離れた。

 蒼良を傷つけてしまった。その後悔だけは胸にとどめて。

「最後に、皆さんにお願いがあります。認知症があるからといって、その人を“認知症だから”という目で見ないで下さい。自身の認知症を自覚している人も数多くいます。それを気にしてコミュニケーションを減らしてしまう人も少なくありません。認知症ではなく、その人自身の良さに目を向けて下さい。以上で講演を終わりにします。ご静聴、ありがとうございました」

 拍手が起こり、薫は頭を下げた。

 あの男は、まだ会場にいる。しかし、関係ない。見せつけてやろう。

 スーツのポケットに手をやり、中に入れたものに、そっと触れる。

「では、今からお名前を呼ぶかた、壇上に来て下さい」

 薫は余裕を見せるように会場を見回してから、恋人を見つめ、可愛らしい彼女に目を細める。

「果歩」

 壇上からもわかるほど、彼女は驚いて慌てふためく。

 しかし、別の場所からどよめきが生じた。中学生の集団からだ。セーラー服の女子が驚いて自分を指差している。その女子が腰を浮かしたため、薫は訂正した。

「岸果歩さん」

 フルネームで呼ぶと、女子中学生は違いに気づいて腰を下ろした。

 薫の恋人は、恥ずかしそうに俯いて席を立ち、壇上に来てくれる。

 静まり返った会場で、薫は恋人と向き合い、ポケットの中のものを出して見せた。

「果歩、結婚しましょう」

 つき合い始めて、まだ半年。でも、このタイミングでプロポーズすると決めていた。自分が講師の役目を終え、彼女に見守られたタイミングで。

 指輪と薫を交互に見やり、彼女は満面の笑みで大きく頷いた。



 拍手喝采の場の雰囲気もあり、薫は彼女を連れて会場から控え室に移動する。

 左手の薬指にリングをはめて心ここにあらずな彼女は、控え室のパイプ椅子にふらふらと腰を下ろし、天井をぼんやり眺める。

 可哀想なことをしてしまったかしら。でも、可愛い。

 恋人の肩を抱き寄せようとしたとき、控え室を訪ねる者がいた。

 ひょろりと背の高い男。眼差しは、蛇を彷彿とさせる。その目で射られると、今でも薫はぞくぞくと気持ち良くなってしまいそうだ。

「おめでとうございます」

 男は、礼儀正しく頭を下げる。

「あんた、何しに来たのよ」

「よりを戻しに」

 しれっと言ってくれる男に、薫はうろたえてしまった。

「冗談ですよ。俺はもう結婚しましたし。今日は、薫ちゃんの格好良い姿を拝見しに来ました。市民講座のお知らせを見たものですから」

 男は目を細めて微笑み、脇に抱えていた大きな封筒を差し出す。薫ではなく、果歩に。

「ついでに、宣伝に。画集を出すことになりました。なんだかんだあったけど、薫ちゃんにはお伝えしたくて」

 ちょっと、ちょっと。薫ちゃんはこっちよ。果歩も、無防備に受け取らないの。

 薫はそんな突っ込みを入れそうになるも、プレゼントを開ける子どものように目を輝かせて封筒を開ける彼女が微笑ましく、見守ってしまった。

「あんたも頑張ったのね」

「薫ちゃんのお蔭です」

「ちょっと、蒼良。どういう意味よ」

 男は答えず、薫の耳元で囁く。

「お幸せに」

 きびすを返し、左手の薬指の指輪を見せつけるように手を振る。男は控え室から出ていった。

 2年前。薫は蒼良を傷つける形で別れた。その後の彼のことは知らない。新しい出会いがあって、仕事にも邁進して、立ち直れたと思わずにいられない。

 すれ違って、別れて、それでも過去を糧にして、これからを生きる。誰もがそうだ。薫も、彼女も、あの男も。

 さて、彼女には何と説明しましょうか。明日はまた仕事をしなくては。タキさんのところに訪問しなくてはならないし。

 薫は彼女の隣に座り、画集を覗き見た。

 アニメの背景のような繊細なタッチで、差し出された薔薇の花束をたおやかに受け取ろうとする女性が描かれていた。その着物に、梅の花を散らして、コロボックルに祝福されて。


 【「梅花は柿色の輪にこぼれて」完】

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梅花は柿色の輪に零《こぼ》れて 紺藤 香純 @21109123

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