第15話

「ああ、悔しい! めっちゃ悔しいです!」

 ジャズの雰囲気をぶち壊すように、蒼良は頭を抱える。

「本物のライダースジャケットを見にわざわざ原宿まで行って、ちょうど良いサイズのフィギュアが高崎店うちになかったから池袋の本店に取り置きしてもらって、タキさんが旦那様から銀婚式に薔薇の花束を贈られたというエピソードまで聞いて、それなのに、あの程度のクオリティしかできませんでした。髪色も瞳も自然な暗さまでトーンを落として、腕も微妙に変えて、それであのざまです。タキさんに申し訳ないです」

 蒼良のアパートの近くにあるジャズ喫茶。閉店まで1時間を切ったのに、“イケおじ”のマスターは、初見の若い男ふたりを店に入れてくれた。

「いいじゃないの。素敵だったわよ、蒼良の作品。タキさんだって喜んでくれたじゃない」

 おつかれさま。薫は、コーヒーカップを軽く掲げた。



 ――蒼良くん、こんなばあさんのことを気にかけてくれて、ありがとう。でも、蒼良くんが体壊してまで尽くしちゃ駄目よ。あたしの方が、びっくりして寝込んじゃうからね。



 タキに言われ、蒼良は糸が切れたように俯き、脱力してしまった。

 薫は遅刻寸前になってしまったため職場に向かったが、昼前にタキから職場に電話があった。

「蒼良くん、うちで倒れて寝込んじゃったの。お炬燵に寝てもらって、今帰ったところ。お仕事、休んじゃったみたい」

 仕事を休めたのね。薫は安堵してしまった。しかし、どうしても労いたい。そんな気持ちから、先日ちらっと見たジャズ喫茶に蒼良を連れ出してしまった。



「それに、俺、すっかり忘れていたんです。タキさんの、その」

 認知症のこと。そのフレーズは、口に出さなかった。

 薫は、思わず微笑んでしまった。どこまでも礼儀正しい、真面目な子ね。

「それでいいのよ。あんたは介護職じゃなくて、“近所の子”なんだから。自分自身の認知症状のことをレッテルだと思って、コミュニケーションを控えてしまうかたもいらっしゃるの。レッテルって、嫌でしょう?」

 ついつい、薫は蒼良の頭を撫でてしまった。

 蒼良は俯き、嫌です、と呟く。

「高校で“気持ち悪い”認定されたときも、祖母が亡くなって“可哀想”扱いされたときも、嫌でした。祖母の三回忌が終わって、貼られたレッテルを振り切りたくて、突っ張って髪を変な色に染めてしまいました。……でも、黒く戻そうかな」

 蒼良は自分の髪を指で梳き、目を伏せた。



 閉店時間まで居座り、ジャズ喫茶を後にする。

「薫ちゃん」

 外灯の当たらない暗がりで、蒼良に呼ばれた。

「好きです」

 ざり、と砂が鳴く。靴のつま先がぶつかった。

「こんな気持ち、初めてです。自分でも、どうしていいか、わかりません」

 蒼良の手が、薫の頬を包む。

 一瞬だけ、薫は眉をしかめてしまった。

「薫ちゃんと、どうにかなってしまいたい」

 蒼良の顔は見えない。言葉も曖昧だ。けれど、必死なのはわかる。それなのに、薫の脳裏を最悪な記憶がよぎった。



 ――ごめん。俺、薫ちゃんが好きだ。



「蒼良、ごめんなさい」

 頬に添えられた手を、退ける。

「ぼくはね、綺麗じゃないのよ」

 綺麗じゃない。良い子な蒼良だって、その意味はわかるだろう。

 薫はきびすを返し、駐車場に向かう。



 高校1年生の修了式の後だった。

 サッカー部の新しい部長に呼び出され、告白された。

 薫ちゃんが好きだ、と。男の人しか好きになれないのだとも。



 ――薫ちゃんは心が女なんだろう。じゃあ、ちょうど良いじゃないか。



 部長のことは、特に何とも思っていなかった。今までの先輩後輩のままでいたい、と伝えると、ぼこぼこに殴られた。起き上がれなくなるまで暴力を振るわれ、犯された。

 誰にも言えなかった。サッカー部は退部し、部長とは距離を置いた。



 嫌なことを思い出してしまった。帰ったら、浴びるように飲もう。思い出せなくなるくらいに。

 そう決意した矢先、背後から羽交い締めにされる。驚いて強張った体を、優しく抱きしめ直された。

「だったら、一層、放っておけません」

 耳元で、爽やかな声で。耳朶を撫でるように。蒼良の声が鼓膜でとろける。

 ぞわぞわ湧いてくる気持ち良さに抗えず、薫は彼に身を任せた。

 それが間違いの始まりだと気づかずに。

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