第二章 饅頭と水鬼(8)


「だがな、大抵の者はすぐに寮暮らしから抜け出して宮仕えになる。妾自身もそうじゃった。酷い生活もいずれ笑い話になるゆえ……」

「その枠から外れる者もいるのだ。人は多様であるからな。それが毎年の水難事故で命を失う数名なのだとしたら?」

「そんなことは──」


 皇后は一瞬抗弁しようとしたが、よどんで唇の形を歪め、こう続けた。


「……そうか。いままで河で溺れた者も、春鈴と同じかもしれんということか。心の負荷に耐えきれず、水を飲むことで傷を癒やそうとして、やがて河に吞まれた」

「さてな。そうかもしれんし、違うかもしれん」


 ハクは首を横に振った。その意思だけは通訳なしでも伝わっただろう。


「普通に考えるならば入水自殺だ。まあその場合も心の負荷に耐えかねたことが原因だとは言えるがな。少なくとも水鬼の仕業ではないと我が保証してやる」

「厳しい言葉よな……。だがそれも、妾の業か」


 皇后は暗い声でそう呟き、奥歯を嚙みしめるようにした。芝居のようには見えず、強い自責の念が伝わってくる。その深刻そうな表情から、とても崇高な志を持つ方だと確信する。同時に理想を追い求める方なのだとも。

 全ての宮女を己の娘のように思っているという言葉も、いまなら信じられる気がした。だが皇后という彼女の立場が、万人に対して平等であることを求めた。どうしても目の届かない死角もあった。それが今回はこういう形となって現れてしまった。

 彼女はしばらく沈黙し、悄然として俯いていたが、やがて顔を上げたときには瞳に決然たる輝きを宿していた。


「それでも一人、助けられたと考えよう。春鈴の治療はどうすればいい?」

「白陽殿で引き取るのが無難だろう。完治までにはしばらくかかる。食事療法が有効であるから、料理のできる者を寄越してもらいたい。沙夜もそれでいいな?」


 不意に問い掛けられ、「もちろんです」とうなずいた。

 続けて通訳すると、皇后はにこりと相好を崩す。


「そうか。ちょうど美味うまい包子が作れる者もいることじゃしな。……沙夜、済まぬが二人のことをよろしく頼む」

「えっ。い、いえいえいえいえ! 頭をお上げ下さい!」


 皇后が机に手をついて頭を下げたので、沙夜は慌てて両手を振り払った。さすがにそれは困る。肝が冷えて縮み上がりそうになる。


「何か礼はできんか? 今回の件の報酬として……。無論、水鬼の調査を頼んだ件も含めてじゃ」

「え。いえ、そんな。わたしは与えられた役目を果たしただけですので──」


 沙夜は辞去しようとした。自分がそれだけのことをした自覚がなかったからだ。

 ただ、その途中で思い留まって、一つだけ申し出ることにした。


「あの、それでしたらお願いがあります。下級宮女の食事を少しだけでいいので改善してはいただけませんか?」

「……ふむ?」


 恐る恐る口にすると、皇后はしばし戸惑ったような顔をしたが、しばらくして袖を口に当て、上品な仕草で頰を綻ばせた。

 そして、欲がないのう、と大笑いしたのだった。


    ◇


 竹藪の隙間から墨色の夜霧が流れ込んできて、瞬く間に白陽殿を包み込んでいく。

 屋根の上で見張りをしていた天狐は、その様子を見ながらくしゅんと鼻を鳴らした。みずみずしさを含んだ春の夜気は不快ではないが、少しだけはださむい。千里眼を持ってすれば屋内からでも役目は果たせるので、寝所に戻ろうかと考える。


「──天狐。来てくれ」


 白澤に呼ばれて腰を上げた。師弟は心が繫がっているのでわかるのだ。

 瓦を蹴って裏庭に飛び降り、渡り廊下を進んで書斎に向かう。そして一言ことわってから戸を引くと、机に突っ伏して眠る沙夜の姿が目に入った。


「悪いが、寝床に連れて行ってくれるか。涎で書物が汚れては敵わん」


 白澤は呆れ口調で言うが、眼差しには慈しむような温かみが感じられた。彼のことは良く知っているが、弟子となった者以外には絶対に向けないものだ。

 わかりました、とすぐに天狐は承諾し、沙夜を担ぐために近付いていく。


「あれしきのことで疲れてしまったようだ。やはり人はぜいじやくだな」


 彼は溜息交じりに言う。


「それに厄介事もたくさん持ち込んでくる。たまったものではない」

「はい。たった数日で、これですから」


 今日だけでも白陽殿に二人の住人が増えた。宮女の姉妹だ。

 妹の方は水中毒の治療のため、水虎に頼んで定期的に体内の水分を調節してもらわなければならず、非常に手間がかかる。姉の方も声が甲高くて五月繩うるさい。


「追加で、いくつか部屋を使えるようにしておきますか?」

「頼む。沙夜は気付いていないようだが、皇后にきっかけを与えてしまったからな。今後何が起きるかわからん」


 そうですね、と天狐は同意する。白澤が言っているのは、宮女の台所事情の改善について沙夜が意見してしまったことだ。

 きっと本人は深い考えもなく言ったのだろうが、皇后が本気で調べれば、内侍省の誰かが予算を横領している事実に行き当たるはず。それを裁くきっかけを与えてしまったのである。

 後宮内の力関係は、それぞれがきつこうすることでかろうじて平衡を保っている。だから皇后が動けば全体の情勢も動いてしまう。そして一度動き出せばもう止まらない。

 沙夜という娘は、ただそこにいるだけで周囲に多大な影響を与えていく。そういった特別な星の下に生まれた存在なのだと天狐は思う。はためいわくなところも母である陽沙にそっくりだ。


「……師父は、陽沙のことを、恨んではおられませんか」


 ふと気になって訊ねてみた。


「師父を裏切ってここを出て行った、恩知らずのあの子のことを」

「恨んではいない。いまとなっては、という話だがな。沙夜を見ていれば陽沙の誠意はわかる。このように育てたのは、いずれ我の弟子とするためであろう」


 おまえはどうだ、と白澤は逆に訊ね返してきた。


「おまえの方こそしばらく荒れていただろう」

「自分も、同じです。いまは怒りはなくなりました」


 言いつつ沙夜の横顔に触れ、頰にかかっていた髪をそっと払う。


「あの男の血が混じった娘など、とは思いましたが……。悔しいことに、陽沙の面影もありますし」

「そうだな。しかし、陽沙に似た部分がその程度で済んで良かった」

「ええ。本当に」


 天狐はほんのわずかに口元を緩め、微笑を白澤に向ける。

 するとその意を悟ったかのように彼はうなずき、常に思索に耽っているような賢者の面差しから一転、からっと晴れやかな顔になってこう言った。


「頭が悪かったからなぁ、あいつは」

「本当に莫迦でしたね、あの子は」

「筆だけは達者だったが、物覚えが悪い上にかんしやく持ちで大変だったな」

「何にでも考え無しに突っ込んでいくので、尻ぬぐいが大変でした。それが沙夜に受け継がれてしまった気がするのが、不安で仕方ありません……」


 二人の乾いた笑い声は、窓からこぼれてすぐに夜気に溶けた。

 そんな神獣たちの想いをよそに、沙夜は安らかな寝息を立てるばかりだった。



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