第二章 饅頭と水鬼(7)


 一刻ほどで天狐は戻ってきた。

 彼女の胸には気怠げな白猫が抱かれていたが、笙鈴の個室に寝かされた童女の元へ案内すると、たちまち目も眩む美青年の姿に戻って第三の眼を開く。


「……ふむ。なかなか面白いことになっているようだ。いまから皇后に説明するのだったな? 一緒に行ってやろう」


 ありがとうございます、と答え、猫の姿に戻った彼を抱いて廊下に出る。


「あ、あたしが案内するから」


 すると慌てて笙鈴が案内を買ってでた。妹の様子が落ち着いたのと同時に平静を取り戻したようである。襦裙の袖で目尻をこすりながら背を向け、我先にと歩き出す。

 沙夜は苦笑しつつ、そんな彼女の後をついて行った。目指す皇后の私室は、正殿の北側にあるらしい。一通りの経緯は侍女を通して伝わっているらしく、面会も快く応じて貰えた。元々依頼結果について報告する予定だったので当然かもしれないが。


「──入れ」


 失礼します、と戸を引いた笙鈴に続いて、部屋に一歩を踏み入れる。

 足が沈みそうなほど分厚い絨毯が敷かれた部屋には、大きな天窓から午後の穏やかな陽光が差し込んでおり、雅やかな調度品の数々を橙色に輝かせていた。

 ただし、その中で最も存在感があったのは皇后自身と、彼女の前に置かれたたんの執務机であろう。香妃の私室とはまるで違い、個人的なくつろぎの場という雰囲気は欠片もなく、女官の長である皇后の仕事場といった印象だ。


「春鈴の容態はどうじゃ? 医者は呼んでおいたが、まだかかるかもしれぬ。白澤様の見立てはどうなのじゃ」


 皇后は矢継ぎ早に訊ねてきた。声には焦燥が滲んでおり、心から宮女の身を案じる想いが内包されていた。笙鈴はその温情に頭を下げる。


「幸い、命は取り留めました。ご心配をおかけして本当に……」

「当然のことじゃ」と皇后は答える。「勝手かもしれんが、妾はこの後宮全ての母でありたいと思うておる。宮女はみな妾の娘じゃ。心配もするし、何か悩みを抱いているなら助けになりたいとも思う」


 表情を和らげながらそう告げると、次に沙夜へと視線を投げかけてきた。


「お主も派手にやったようじゃな。いきなり接吻したそうではないか」

「あれは違います」と沙夜は説明する。「呼吸が止まっていましたので、口から息を吹き込んだだけです。心臓も止まっていたので少々刺激を与えました」

「それも白澤様の教えか?」

「いえ、教わったのは母からです。わたしが小さい頃、溺れて息が止まった子供を母が助けたことがありました。その通りにやったまでです」

「ふむ。産婆がやっているのは見たことがあるな。生まれてくるときに喉が塞がり、息が止まってしまう赤子は多いそうじゃ。そういうときには口を付けて思いきり息を吹き込むとよいらしい。それと同じようなものか」

「はい。その通りでございます」


 思ったよりも簡単に理解が得られた。さすが皇后様は見識が深い。

 それにしても、だ。一昨日も見たが本当に綺麗な方だ。執務中なのか群青色の簡素な襦裙しか着ておらず、髪飾りもつけていないのに凜とした寒牡丹のごとく美しい。

 改めてその姿に見とれていると、彼女は口元を引き締め直して訊ねてくる。


「して。沙夜よ。春鈴は何故倒れた? やはり水鬼の仕業なのか」

「いいえ、違います」


 その質問が来ることはわかっていた。既にハクの診断結果も聞いているので、自信を持って答える。


「妖異の仕業では御座いません。彼女は病気なのです。白澤様は〝みずちゆうどく〟であると仰っておられます」


 病名を口に出すと、皇后はその柳眉をわずかに釣り上げた。


「水中毒、じゃと? 聞いたことがない病気じゃが」

「ならば我が説明してやろう」


 と、そこで白猫がとことこ歩いて前に出た。

 忘れていた。ハクは知識をひけらかすのが大好きなのである。普段は面倒臭がりで欠伸ばかりしているくせに、こういうときにだけ乗り気なのだから困る。


「ぬ……? この猫は、白澤様の化身とかいう?」


 興味を惹かれたように、皇后が執務机の向こうから身を乗り出した。


「一昨日も白陽殿で見たが、やはりなかなか愛嬌のある顔をしておるな。まるで狸と猫の中間のような……」

「誰が狸だ。おい沙夜、通訳してやれ」

「むっ? にゃにゃにゃと言ったぞ。沙夜、お主は言葉がわかるのじゃろう?」


 ハクはぴんと髭を逆立たせて不満げに言い、皇后もかんはつれず訊ねてくる。沙夜は双方に返事をしながら、今回の通訳も大変そうだなと心中で溜息をつく。

 そんな中、「水中毒とは」と、早速ハクが説明を始めた。


「中毒という言葉の意味くらいは知っているだろう。ただの水であっても、度を超して大量に飲めば中毒になる。症状は酒によるものと似ていてな、頭痛や吐き気を引き起こし、意識を失って倒れることもある。要は水の飲み過ぎで、体中の血が薄くなってしまう病だ。脳がブヨブヨにふやけて死ぬことすらある」

「ふむぅ、そんな病があったとは……。しかし原因は何なのじゃ? 春鈴がそれだけ水を飲んだということじゃろう? 水鬼の仕業でないとすれば──」


 皇后はそこまで言って、「もしや」と何かに気付いて声を曇らせる。


「水を飲んで、空腹を紛らわせていたのか」

「そうだろうな」


 すぐさまハクが同意したので、沙夜もひそかに得心する。下級宮女に与えられる食事は貧しく、量も乏しい。寮暮らしをしていたときには、夜中に空腹で目が覚めることなんてザラだった。

 付け加えるなら、お腹の音を聞かれることを極度に恥じらう宮女もいた。何人かは夜中に寝床を抜け出して水場に行き、水を飲んで誤魔化していたと知っている。


「ただし、最たる原因は、心にかかった負荷だろう」とハクは続ける。「何かを食べることで不安や悩みを鎮めようとする人間は少なくない。あの童女は水を飲んで癒やしていたのだ。心の傷を」

「心の傷……か。なるほどな」


 眉間に皺を寄せる皇后。その口振りからして何か心当たりがあるようだ。

 沙夜は気になって「よろしいでしょうか」と訊ねる。


「お聞きしたいのですが、春鈴は何の仕事を任されていたのでしょう」

「湯浴み番じゃよ。竈で湯を沸かし、妾の湯殿に注ぎ込む仕事でな。それを専門で任せておった。もちろん一人でではないぞ? 火を扱う仕事でもあるし教育係をつけておったが……うまくいっておらんかったのかもしれんな」


 物憂げな表情になった彼女は、やがて暗澹とした息をついた。


「……言い訳のように聞こえるかもしれんが、後宮で働く以上は誰であろうと特別扱いはできん。たとえ十歳の童女であっても、序列をはっきりさせておかねばならん。寮暮らしが過酷であれば、そのぶん仕事に精を出して早く一人前になろうとするじゃろう? そのためのしきたりであって」

「理屈はあろうが」とハク。「度を超せば心身に変調をきたす者が出るのは当然だ。それを水鬼のせいにしようとは、相変わらず人は度し難い」

「度を超しては、いないはずなのじゃが……」

「最後に確認したのはいつだ? 下級宮女の生活を。おまえのその目で」


 詰問するような口調だったので、そのまま通訳することを躊躇する。

 何と言っても相手は皇后様なのだ。全ての台詞の最後に「と仰ってます」と加えることによって角が立たないように気をつけた。

 しかし、ハクの言葉に怒りはないようだ。それも当然の話で、下級宮女の生活振りに彼が興味を抱くなんて有り得ない。それでも皇后に問い掛けているのは、この事件の真相を究明しようとしているからだ。

 彼は知を司る神だ。既知の事実を人に伝え、同時に未知をも探求する。それがハクの行動原理の全てだ。それをまざまざと見せつけられた気がしていると、


「……確認は、しばらくしておらぬ」


 声を沈めつつ皇后が答えた。


【次回更新は、2020年3月9日(月)予定!】

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