第二章 饅頭と水鬼(6)


 河原に戻ると既に祭壇は撤去されており、周囲には誰も残ってはいなかった。

 小規模な儀礼だったので片付けも早く済んだらしい。こうなれば報告のために扶桑宮まで向かう必要があるが、場所はよく知らない。まあ近くだと言うしすぐに見つかるだろうと一歩踏み出したところで、天狐にくいっと奥襟を引っ張られた。


「こっち」


 彼女は先導して足を進めていく。千里眼は伊達だてではないようだ。

 大人しく後ろをついていくと、すぐに扶桑宮が見えてきた。桂花宮と良く似た朱色の宮殿だが、門構えの立派さと外壁の高さが大分違う。敷地の広さは同じくらいだろうが、下級妃が何人も暮らしているあちらとは違い、丸ごと全てが皇后のものだというのだから驚きだ。やはり別格なんだな、と今さら実感する。


「裏口から入りましょう。何だか畏れ多いので……」


 天狐に言って、一緒にぐるりと外周を回っていく。下働きの宮女は裏口からと決まっており、正面から入るのは貴人だけである。依頼結果を報告しにきた沙夜は、厳密には客人に当たるのかもしれないが、身分を考えれば妥当だろう。

 が、やがて裏口に近付いたところで、前を歩く天狐が足を止めた。


「──何か起きてるみたい。どうする?」


 振り返ったその表情こそ淡白だが、口調には微かに深刻さが滲んでいた。


「何かって、何が起きてるんです?」

「笙鈴とかいうあの宮女の妹が、多分死にかけてる」

「……どこでですか」

「あっち。水場の──」


 天狐が指をさした瞬間、沙夜は弾かれたように走り出した。悠長に喋っている場合ではないと直感で判断したからだ。

 裾をたくし上げ、裏口を抜けるなり、衆目も顧みず宮内に飛び込んだ。裏庭の階段から渡り廊下に駆け上がり、角を曲がったところで手すりを飛び越えて一度石畳に降りる。宮殿の構造は桂花宮とほぼ同じ。だったらこの先に水場があるはずだ。

 正殿から屋根の続かない離れへと向かうと、途中で悲鳴の入り交じったざわめきが聞こえてくる。厨房と三眼井のある区画には、すでに人だかりができていた。迷わずそこに飛び込んでいき、「すみません」と言って宮女たちを押しのける。

 そしてまず目に入ったのは、石造りの洗い場に横たわる童女の姿だった。

 仰向けに寝かされており、顔色は真っ青。布一枚の安っぽい襦裙を羽織っているが、肩口まで水に濡れているようだ。短い黒髪からも水滴がしたたり落ちている。


「なんで……っ! どうしたのよ春鈴! 目を開けなさいよっ!」


 切迫した声を放つのは笙鈴だ。童女の顔を横から覗き込んだり、手の平で頰を叩いたりしながら必死に呼び掛けている。

 だがまるで反応はない。それどころか、胸が上下していない。

 もう息が止まっているのだ。


「──どいて、笙鈴っ!」


 直後、沙夜のタガが外れた。ただ込み上げてくる衝動にしたがって足を進め、姉妹の間に割って入る。

 その際、かいえた笙鈴の目はひどく充血し、顔色は蒼白なものだった。

 妹のことなど心配していないと悪ぶっていたが、実際にはこれである。口は悪いが優しい人間だ。助けてやりたい。だから寸分の躊躇ためらいもなく、沙夜は童女の小さな顎に指をかけ、鼻を摘まんだ後に唇を合わせた。


「なっ」


 周囲から驚愕の息遣いが聞こえる。笙鈴も啞然として口を大きく開いた。

 せつぷんに求愛以外の意味を知らない彼女たちの目には、余程奇異に映ったろう。ただ邪魔が入らないならそれでいい。これ幸いとばかりに強く息を吹き込んだ。

 すると童女の小さな胸が、わずかに膨らんだ感触があった。

 呼吸と心拍が止まっていても、ごくわずかな時間しか経っていないなら蘇生は可能だ。沙夜はこの方法を母に教わった。実際に里にはそれで命を救われた人がいるし、いまも存命のはずである。


「ちょっと、沙夜!? あんた何を……」

「いいから邪魔しないで!」


 何度か息を吹き込んでから、今度は童女の胸に両手を重ねて押し当てた。

 心臓はここだな、と確かめながらぐっと押し込んでみる。反応はない。

 と、そこで一抹の不安が頭を過ぎった。こんな小さな体では、無理をすればろつこつを折ってしまうかもしれない。母は全体重を乗せて押し込むべし、と言っていたが。


「──力が弱い。もっとこう、えぐり込むように」


 そのとき沙夜の手に、誰かの手が上からおおかぶさってきた。

 振り向いてみると、天狐だった。整った彼女の真っ白な横顔と、その長いまつが頰に触れそうな位置にあってどきりとする。


「気を散らさないで。骨なんか折れても、死ぬよりいい」

「……はい!」


 天狐に合わせて、ぐっと力を入れる。押し込んだ先で強い反発を感じた。

 これでいいのだ。迷いが晴れてからは動作の無駄がなくなり、一連の流れをどんどん素早くこなせるようになる。強く押して心臓に刺激を与え、それを数回繰り返したあと、再び唇を合わせて息をそそむ。

 童女にまだ反応はない。だが疑いはしない。あのときの母の背中を覚えているから。

 昔の沙夜ならば何もできず、呆然と見ているだけだった。でもいまは違う。

 もはや奇異の目にさらされることも気にしない。沙夜はただ愚直にやり続けた。

 やがて周囲のざわめきも止まり、何も聞こえなくなるまで。汗だくになりながら。

 するとその頃になってようやく、童女の鼻先がぴくりと動いた。


「────ぐっ、げほっ!」


 と、いきなり体が跳ね上がって水を吐く。

 青い顔をしたまま激しくみつつ、童女はおうの体勢になっておうした。口からも鼻からも水が出ていた。

 そうしながら荒い息を吐いていたが、しばらくすると治まってきて、彼女は視線を彷徨わせつつ「お姉ちゃん」と一言だけ漏らすと、糸が切れるように眠りについた。


「しゅ、春鈴……」


 笙鈴が這うようにして寄ってきて、妹の名前を呼ぶ。

 けれど抱擁にはまだ早い。蘇生に成功しただけだ。こうなってしまった原因がわからないのだから、いつまた呼吸と心臓が止まるかわからない。


「天狐さん、お願いします。ハク様を」

「わかった、連れてくる」


 端的に答え、彼女は予備動作もなく一瞬で駆け出した。周りを取り囲む宮女たちの群れもするりとかわして、見る間に走り去る。

 急場は凌いだようだが、これからが大変だ。ハクが来るまで童女の容態を見守りながら、この状況に少しでも収拾をつけておかなければならない。

 何から説明したものかと、半ば途方に暮れつつ考えた末に、「みなさん落ち着いて下さい」と自分にも周囲にも向けて語りかけた。

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