第二章 饅頭と水鬼(5)


「──呼ばれたので行ってくるね」


 そう笙鈴に告げたところ思いきり怪訝な顔をされ、「逃げる気じゃないでしょうね」と言われた。何からだ。

 もちろん違うので「しばらく戻らなくても心配しないで」と言って足早に宮女の列から離れた。正直、水虎の方から誘ってくれるなんてありがたい。沙夜の方も話をしてみたかったからだ。


 再び河の方に目を向けると、緑の腕が手招きしながらゆったりと流されていくのが見えた。何とも怪しげだが、いまは天狐も傍にいるので危険はないだろう。

 河岸のしげみをかいして下流の方へと回ると、小さな渓谷になっていた。そこからは服の裾が汚れないよう、膝までたくし上げてぬかるんだ坂を滑り降りていく。するとたちまち周囲の景色は、鬱蒼とした木々に覆われたものになった。


 しかし雰囲気は穏やかだった。若葉の隙間をくぐり抜けた柔らかい日差しと、苔に覆われた岩の色合いが目に優しい。足元から立ち上るひんやりとした涼気を感じつつ翠玉色の河面に近付いていくと、それを待ち構えていたようにぼこっと泡が立った。


「──よっす」

「あ、こんにちは」


 想像していたより気安い声掛けに、不意を衝かれて会釈を返す。

 水面からぽっこり顔を出したのは、見るも奇怪な緑の怪物である。海草のような髪に黄色のくちばしかえるのごとく突き出したがんに輝くのはつぶらな黒い瞳。一体何と表現すれば適切かわからないが、気持ち悪さと愛らしさが同居する異様な容姿である。


「は、初めまして。沙夜と申します」

「おう、おいらは水虎だ。呼んだのは他でもねえ。さっきそこで饅頭拾ったんだが食うかい? たくさんあって食いきれねえからよ」

「え、でもそれ水にかったやつでは……? さすがにちょっと」

「なら自分がいただきましょう」


 と言って、すぐ背後から顔を出した天狐が饅頭を受け取り、そのままぱくりといった。てっきり濡れてぶよぶよになっているかと思ったが、そうでもないらしい。


「じゃあわたしにも下さい!」


 実は腹ぺこだった沙夜がねだると、「あいよ」と笑って水虎は手渡してくれた。

 饅頭と包子の違いは、中に具が入っているかどうかだ。ようするに饅頭とは皮だけの包子なのだが、沙夜の里ではこれが一般的だったし好きだった。目を瞑ってかぶりつくと小麦粉本来の風味が喉を抜けて鼻に伝わる。十分に美味しい。


「あれ? でもこれ、どうして全然濡れてないんです?」

「おいらは水精だぜ? 水気を操るのはお手のもんってわけよ」


 彼は自慢げに胸を張りつつ、大きな葉っぱの上に次々と饅頭を置いていく。よく見れば嘴の上にちょび髭が生えており、見た目の滑稽さに拍車をかけていた。


「なぁ、おめぇらからも言っといてくれよ。次回からはもっと少なくていいってな。河に投げ込むくらいなら腹を減らした子供に食わせてやれ」


 正論だ、と思わず唸った。桂花宮の食堂でも下級宮女に出されるのは、薄粥と粗末な副菜だけである。寮の広間で雑魚寝をしていると、誰のものかわからない腹の虫が毎夜聞こえてくるほどだ。だから水虎の言葉がとても含蓄あるものに聞こえた。


「ありがとうございます。水虎様のお言葉は必ず上の者に伝えますので……」


 沙夜は感極まって水虎の手をとった。すると彼は一度大きく目を見開いて驚きを顔に出し、それからカカカッと快活な笑い声を響かせる。


「こいつは傑作だ! おいらにそんなこと言ったやつぁ初めてだよ! 突拍子もねぇとこが陽沙にそっくりだなおまえ。そういや、あいつも治水の儀を抜け出しては饅頭食ってたわ」

「陽沙を……母をご存じなんですか?」

「そらそうよ。後宮に棲んでる妖異で、知らねぇやつはいねえんじゃねえか?」


 頰を緩めて、遠くを見るような眼差しをして水虎は言う。


ちやちややってたからな! 言葉より先に手が出る女でよ! 力の弱い妖異たちを腕ずくで従わせて、徒党を組んでそこら辺を練り歩いてたぜ。天狐と一緒に」

「ち、力ずく? 徒党を組んで?」


 全く想像だにしない単語がぽんぽん飛び出してきたせいで、沙夜の瞳孔が点のように小さくなった。母は一体、後宮で何を……?


「天狐さん、本当なんですか?」

「少し語弊がある。自分は関係ない。陽沙が勝手にやっていたこと」

「噓つけよ!」と水虎は過敏に反応する。「むしろおまえさんが扇動してやらせてただろうが。だってあいつは──」

「余計な話はいい。それより本題」


 即座に話を打ちきって、天狐は目にも止まらぬ速さで水虎の喉に手を伸ばす。

 金粉のように細やかな木漏れ日を反射して、きらりとしたにびいろの光が沙夜の目に飛び込んできた。いつの間にか彼女の手には短刀が握られていたのである。


「沙夜は退治を頼まれている。おまえの」

「はぁ!? 何でだよ!」水虎は全身から汗を噴き出しつつ言った。「おいらが何したってんだよ!」

「いやそれがですね」


 天狐をなだめて刃物をしまうように頼みつつ、沙夜は事情を説明する。

 水鬼に魅入られた宮女が水場に誘い出され、やがて溺死する事件が起きているのだと口にすると、水虎は難しい顔になった。


「そりゃな、昔から治水にゃ生贄って言うし、はくよめとりなんて悪俗もあるけどな……。おいらは河伯じゃねえからむすめなんていらねえし、本当は饅頭もいらねえんだよ」

「ならおかわりを。いらないなら貰う」


 河原の岩をぽんぽん叩いて天狐は追加の饅頭を要求する。十個以上あったはずだが、いつの間にか全て無くなっていた。


「めちゃめちゃ食うなおめえら……。まあそりゃいいが、この辺の河には鬼なんて棲んじゃいねえ。だから原因不明の溺死なんてものは、じゆすい自殺だろうよ」


 自殺、と聞いて心がにわかに重くなる。普通に考えればそれが一番妥当な線だ。

 後宮内では心を病む者が非常に多い。妬みや反抗心など、薄暗い情念が渦巻く空間でみなが共同生活を送っているからだ。陰湿ないじめや陰口もある。弱者から追い詰められていくのも当然であり、行き着く先が水底だったとしても不思議はない。


「他に心当たりはありませんか?」

「特にねえな。少なくともおいらたちのせいじゃねえよ。……まあ思いやりの心を忘れるなってこった。治水の儀より何より、それが一番大事だってこと」

「怪物のくせに良いこと言って誤魔化す気?」と天狐。「ねえ沙夜、やはり退治しておこう。饅頭も無くなったし」

「しつけえなてめえ! あれか? 口封じか? 過去の悪行を隠そうとしても」

「舌を引っこ抜いて討伐証明にしよう。沙夜もそれでいい──ん?」


 台詞せりふの途中で振り返った彼女は、風に揺れる木々の向こうを凝視する。


「治水の儀が終わった。みんな引き上げていくけど、どうする?」

「えっ、何が見えたんですか? 見えるような距離じゃないですけど」

「自分には千里眼がある。どれだけ遠くとも集中すれば見える。そこの蛙もどきとは格が違う」


 天狐は無表情のまま胸を張った。水虎は「へえへえ」と反論せず肩を竦める。

 そう言えばハクの額にも第三の眼があり、禁軍の兵を一睨みで金縛りにしていた。なら弟子である天狐もまた、魔眼をその身に宿していてもおかしくはない。

 それはそうとして、とかがんでいた沙夜は立ち上がる。


「じゃあわたしたちも帰らないと。結果を報告しないといけませんし」


 実は前もって綺進から指示を受けていたのだ。水鬼についての調査結果は、皇后に直接報告するようにと。あの天女のように美しい人の前に立つことを考えると、いまから足が震えてくるようだが、行かねばならない。

 本音を言えば、水虎にもっと母の話を聞きたいが仕方がない。どうやら天狐と相性が悪いようだし、時間に余裕があるときにまた会いに来よう。


「もう行くのか」と水虎は目を細める。「あんまり話せなかったな。天狐のせいで」

「すみません。でも絶対また来ます。次は母の話をたくさん聞かせて下さいね」


 あちらも別れを惜しんでくれている様子だったので、沙夜はにこやかにそう答えた。次回はあの美味しい包子をお土産に持ってこようと心に決めつつ。

 すると彼は「やっぱ変なやつだな」と苦笑して後頭部を搔き、「一つだけ忠告してやる」と最後に付け加えた。


「さっきの話だが、もし自殺じゃねえとしたら……おいらの力が必要になるかもしれねぇ。そんときゃすぐここへ来い。手ぇ貸してやるよ。陽沙の娘の頼みならな──」


 それだけ言って緑の怪生物は河に飛び込み、音もなく水底に消えていく。

 彼が残した波紋に向かって沙夜はお辞儀をして、それから勢いよく踵を返した。


【次回更新は、2020年3月8日(日)予定!】

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