第二章 饅頭と水鬼(4)
饅頭の起源は、三国時代の故事にあるという。
いまからおよそ七百年前、かの天才軍師〝
だが孔明はこう答えた。「今回の合戦でたくさんの人々が死んだ。そのような野蛮な風習のために、これ以上人を
一計を案じた彼は、料理人を呼んで小麦粉をこねて人の頭の形に作らせ、中に牛や馬の肉をつめるよう指示した。それを河に供えて祈ったところ見事に氾濫は鎮まり、無事に河を渡ることができたのだという。
饅頭に〝頭〟という字が入っているのはこの
「──何をにやにやしてんのよ。気持ち悪い」
右隣からそう言って水を差してきたのは、皇后に仕える宮女、笙鈴だ。
昨日とはまるで態度が違う。綺進が
「皇后様に失礼でしょ。もっと真面目に取り組んだら? 締まりのない顔してさ」
「いや、儀式の最中に無駄口叩いてる方もどうかと思うけど?」
目の前では、いままさに治水の儀が執り行われているところだ。
場所は、扶桑宮から歩いて数分の場所にある、
少し手前の場所には四本の柱が立てられており、空間を四角形に切り取るようにして柱の間に
最後尾では沙夜たち十数人の宮女が列をなして並び、立ったまま頭を下げて黙禱しているという状況だ。毎年恒例の儀式にしてはやや小規模に思えるが、桂花宮で起きた事件の影響で内侍省も他の宮殿もばたばたとしているらしく、参加者が集まらなかったのが実情のようである。
「んで、水鬼はいるの? いるなら早く退治しに行きなさいよ」
声を潜めながらも、遠慮のない口調で笙鈴は言う。依頼してきた立場のくせに随分と偉そうだ。憤慨しつつも対等の言葉遣いで「見えないよ。いまのところ」と返す。
「あんたの目、節穴じゃないでしょうね?」
失礼な、と答えたが少し心配だった。なので左隣に立つ女性にこっそりと、「天狐さんには見えます?」と訊ねたが、彼女は無言で首を横に振る。
何分、妖異退治なんて初めてのことだ。不安に思ってハクにも同行を求めたのだが、案の定「面倒臭い」の一言で拒否された。その代わりに天狐が一緒にきてくれたのだが、普段から口数の少ない彼女は何を考えているのかまるでわからない。
会話が途切れると空気が重くなるので、沙夜は笙鈴に話し掛ける。
「妹さんの具合は大丈夫なの? 今朝の様子はどうだった?」
「さあね。会ってないから知らない。あの子は寮住まいだし、あたしは個室だもの。宮中で顔を合わせることはそんなにないわ」
「えっ、姉妹なのに?」
「あまり会わないようにしてるのよ。……あの子、
皇后様には内緒よ、と言って笙鈴はばつの悪そうな顔をする。〝もう〟ではなく、〝まだ〟十歳なのだろうにとは思ったが、その口振りからあることを悟って訊ねる。
「笙鈴は、水鬼の仕業だなんて信じていないんだね」
「当たり前でしょ。でも春鈴のことが噂になっちゃった手前、あんたに依頼するって話に乗っかるしかなかったの。わかるでしょ?」
「なら早めに教えて欲しかったな……」
納得すると、重荷に感じていたものがすっと軽くなった。笙鈴が事情を打ち明けたのは、申し訳ないと思う気持ちが多少はあるからだろうが……それは取りも直さず、もう一つの事実をも物語っていた。
「だったらわたしに妖異が見えるって話は? それも信じてないんだね?」
「そりゃそうよ」あっけらかんとした口調で彼女は肯定する。「でもまあそこはさ、あそこにいる
笙鈴はそう言って、皇后の周囲を固めた白装束の巫女を指でさして続ける。
「あいつらだって年がら年中、神様がどうの縁起がどうのと言ってるでしょ。だからあたしにとっては同じよ。あんたが
尚儀は後宮内の儀礼を司る役職であり、礼楽の専門家でもあるため尚宮の次に位が高いとされる。それを法螺吹き呼ばわりなんて、度胸が据わっているなと感心する。
笙鈴のようなさばさばした考え方をする人を、沙夜は嫌いではない。ただ本質的にわかり合えることはないのだろうなと思うと、少し悲しくなった。
だからそれからは何も答えず、儀式が終わるまでただ見守ろうと考えた。
せっかく同じ年頃の友達ができるかもと思ったのに……。失望と諦念を抱きつつ、ぼんやり河原を見ていると、不意に天狐が「あれ」と言って指を伸ばした。
なんです、と訊ねた瞬間、最前列の宦官が一際高く声を上げ、何やら合図をする。
すると尚儀たちが立ち上がり、捧げ物が積まれた盆を複数人で持ち上げて河に近付いていった。それを河面に向かって傾けるなり、ぼとぼとと饅頭が転がり落ちていく。故事にならって四十九個とは言わないまでも、次々に惜しげもなく。
ああ何てもったいない……と思いながら見ていると、突然水面から飛び出してきた緑の腕が、空中で饅頭をいくつか摑み取ってそのまま水底へ消えていった。
「もしかして、あれが水鬼ですか?」
「いや、あれは〝水虎〟」
沙夜の問いに、天狐はまったく抑揚のない声で答えた。
「それほど霊格は高くないけど、見える人間はほとんどいないし、基本無害」
無害か、と安堵する。天狐が言うのなら間違いはないだろう。ならば水難事故との関連性もないのだろうし、退治しなくて済みそうだ。
そう考えたところで、再び水面からにょっきり腕が突き出てきたのが見えた。
目を凝らすと、何やらちょいちょいと、こちらを手招きしているようである。
周りの反応を窺ってみるも誰も気付いていない。皇后も宦官も宮女たちも大詰めを迎えた儀式に集中している。となれば呼ばれているのは必然、沙夜に相違なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます