第二章 饅頭と水鬼(3)


 香妃の部屋で嗅いだものにも似た、幸せの匂いである。

 これは一体……? 思わず陶然となった次の瞬間には、渡り廊下から蒸籠せいろを抱えた宮女たちが広間に入ってきた。もうもうと立つ湯気の尾を引きながら。


「勝手に厨房をお借りしましたが、蒸し立てが一番だと思いましてね。どうぞ蓋を開けてみて下さい」


 匂いにつられ、手が自然と机上に置かれた蒸籠に伸びていく。

 慎重に蓋の側面に手を添え、取り払って中を覗き込んでみると、白くふっくらとした包子パオズが二つ収められていた。見るからに柔らかそうで、頂点の渦巻模様も美しい。


「も、もしかして、いただいてもよろしいんでしょうか!?」


 興奮を抑えきれず、声を揺らしながら訊ねてしまった。

 いささか失礼とも捉えられるその言動に、壁際に控える宮女たちが目を尖らせたのが見えて少し腰が引けた。しかし当の綺進は気にした様子もない。


「もちろんですよ。そのために用意させたのですから。どうぞ召し上がって下さい」

「で、ではいただきますっ!」


 いろいろ気になることはある。だが暴力的なこの香りを一度嗅いでしまえば、理性などものの役には立たなかった。

 手に取った包子は焼け石のように熱く、両手の間を数回往復させるほどだったが、すでに火傷やけどの恐怖など食欲が軽々と上回っていた。たまらない。


「あつっ、あふっ、あふっ!」


 むにっ、と柔軟かつ弾力のある生地に歯を沈めていくと、鼻から脳天にかけて小麦の甘い匂いが突き抜けていく。

 さらに嚙み進めると、中からじわっと肉汁があふしてきた。甘辛く味付けられたこのあんを構成しているのは恐らく豚肉と羊肉であろう。こってりした脂の甘みと歯を押し返すこの心地良い食感。肉自体が持つほうじゆんな香りとうま。それらを包み込む皮の香ばしさ……。


「お、お、美味おいひいです! とっても!」

「はは、それは良かったです。わざわざ用意したがありました……って?」


 彼はそこで、珍しく糸目を開いて驚きを露わにした。


「ちょ、ちょっと沙夜。あなた泣いていませんか?」

「すみません……。このお饅頭があまりに美味しくて……」


 言われて自覚したが、両目からはいつしかぼうの涙が流れ落ちていた。いろいろなことが立て続けに起きたせいで、情緒が不安定になっていたんだろうな、と他人事のように考える。しっかり味覚に集中しながらも。

 思えばこの一ヶ月の食生活は酷いものだった。桂花宮の食堂で出てくるのは薄粥と小魚ばかり。昨日も天狐が川からってきてくれた魚を焼いて食べただけで、あとは水しか口にしていない。


「さすがの私も予想外です」と、綺進はちょっと身を引きながら言った。「そこまでお腹が減っていたんですか?」

「それもあります。あと、少し故郷を思い出しまして」


 嵐山の里は、綜の北西に広がる寒冷地帯にある。土は瘦せており稲の生育には適しておらず、料理といえば小麦の粉を用いた饅頭や麵類が一般的だった。だからその懐かしい風味に、頰も涙腺も緩みっぱなしなのである。


「──仕方ないですねぇ」


 綺進は溜息交じりに席を立って、机の外周を回って近くまで歩み寄ってきた。

 それから懐に手を入れてしゆきんを取り出すと、そっと沙夜の頰に押し当て涙を拭う。


「あ、ありがとうございます。すみません、取り乱しちゃって」

「その手巾は差し上げます。あと私の分も食べちゃっていいですからね?」

「えっ。よろしいんですか!?」


 思わず腰を浮かせて反応すると、綺進はさらに笑いながら「ええ」と言って蒸籠を指先で沙夜の方へ引き寄せる。

 ああ、何て素晴らしい人格者なのだろう。彼の評価がぐんぐん上がっていくのを感じる。これまで腹黒そうとか、笑顔がさんくさいとかいろいろ考えたことを猛省する。


「本当にありがとうございます! 綺進様は命の恩人です! あと美味しいです!」

おおですねぇ。……まったくあなたはいつも私の想像を超えてくる」


 席に戻った彼は、猛烈な勢いで食べ進める沙夜を目尻を緩めて眺めながら、袖を口に当てて上品に微笑んだ。


「まあそんなに恩義を感じてくれるなら、話も切り出しやすいというものですが」

「ええ! 何でも仰って下さい!」


 お腹が満たされると同時に、何だか気も大きくなってきたようだ。少なくとも包子四個分の恩は返さねばと思っていると、綺進は「楽にして聞いて下さい」と前置きして本題を切り出してきた。


「あなたがいま食べた包子も無関係ではないのです。明日、娘娘が〝治水の儀〟を執り行う予定なのですが──」


 後宮の中には渓谷や渓流があるのだが、時折そこで水死者が出ることが問題になっているのだという。いわゆる水難事故である。

 ただし原因はよくわからない場合が多く、大して急流でもないのに定期的に溺れ死ぬ者が出るため、水鬼の祟りではないかと昔から言われているらしい。だから治水の儀が執り行われるのだが、今年は例年よりも早く実施することが決まったそうだ。


「──溺死する者はみな、その数日前から兆候を見せるという噂があるのです。まるで水辺に吸い寄せられるがごとく、深夜にふらふらと河に近付いていく姿を目撃されたりとかね。まさに水鬼に魅入られたように」

「水鬼ですか……。わたしは見たことがありませんが、河面から緑色の腕だけを出して、手招きで人を誘うという話は聞いたことがありますね。溺死者が死後に鬼となって人をかどわかすのだとか」

「そうそう。話が早いですね。……ではしようりん、前へ」


 綺進が名を呼ぶと、「はい」と返事をして一人の宮女が静かに歩み出てきた。それは蒸籠を持って現れた宮女の一人だった。


そうきゆうに勤めております、尚食の笙鈴です。以後お見知りおきを」


 そのいんぎんな挨拶とは裏腹に、彼女は威嚇するような鋭い目つきを向けてきた。

 扶桑宮とは皇后の住まう宮殿のことである。ただし白一色の襦裙を着ていることからして、沙夜とさほど変わらない身分だとわかる。年齢も同じくらいか。


「あなたが食べた包子を作ったのは笙鈴です。治水の儀で使う饅頭も彼女が作ることになっていますが……彼女の妹の様子が、最近おかしいそうなのです」


 神妙な顔つきになって綺進は続ける。


「夜間に出歩いては、水場で倒れているところを発見されたりしましてね。いよいよ水鬼にかどわかされたのではないかと噂になっているのです。ですから──」

「白澤様の弟子だという貴方様に、どうかお願い申し上げます」


 笙鈴と紹介された宮女は、綺進の言葉の後を引き取ってそう言い、高い鼻柱に両眉から皺を寄せつつ不本意そうにお辞儀をする。


「明日の治水の儀に立ち会っていただき、水鬼を退治していただきたいのです」

「た、退治……?」


 沙夜は声を震わせながら復唱して、目を白黒させた。


「えっ、わたしが? 妖異を退治するんですか!?」


 すると目の前の二人が揃ってうなずく。もちろん、と言わんばかりに。

 さて困ったことになった。白澤の弟子としての初仕事は、いきなり妖異退治らしい。



【次回更新は、2020年3月6日(金)予定!】

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