第二章 饅頭と水鬼(2)


「──師父、沙夜に来客です」


 廊下から微かにそんな声が聞こえてきた。あの天狐という女性だろう。


「ならば中断だ。おい沙夜、いい加減にしろ」


 膝の上でそう言った白猫が、不意に机に飛び上がって視界を遮った。

 言われて我に返ったときには、しよくだいの蠟燭は燃え尽きていた。いつしか窓からは眩しい朝日も差し込んできている。知らぬ間に夜を越えてしまったらしい。


「すみません。つい夢中になっちゃいました」

「熱心なのはいいが、最初から根を詰めると後が続かんぞ。……おいやめろ」


 沙夜は謝罪しつつも、無意識のうちにハクの喉をくすぐっていた。

 猫姿の彼とは昨夜からこんな感じである。一心不乱に書物を読みふけっていると、いつの間にか膝の上にハクが乗っていて、ごろごろ喉を鳴らしていたのだ。どうやらけていたようである。

 沙夜の方も実家で飼っていた猫を思い出し、何の気なしに頭や背中を撫でてしまっていた。その毛並みは艶やかであり物柔らかであり、何とも病みつきになる触り心地である。彼は神獣であり魔性の猫でもあった。


「いいか、敬語を使うなとは言ったが、敬意を抱くなとは言ってないぞ? ……だが説教はあとだ。とりあえず行ってこい。俗事は早めに片付けるに限るのでな」


 ふて腐れたように床に飛び降り、そのまま窓際まで歩いて日向ひなたぼっこの体勢である。どうやら一緒に来てはくれないようだが、宮女としての務めには理解があるらしい。歴代の弟子に宮女が多かったせいだろう。


「わかりました、行ってきます。……ところでお客さんって誰ですか?」


 一言ことわって書斎の戸を開けて、廊下に出る。そして戸の脇に控えていた金髪の女性に子細を訊ねると、やたら端的な答えが返ってきた。


「黒い宦官と、宮女が何人か」

「綺進様ですね。わたしの処遇が決まったんでしょうか」

「知らない。いいから早く着替えて」


 片言に近い口調で彼女は告げて、寝所に向かうよう促してくる。

 この天狐という女性は、基本的には優しい人だと思う。昨日も味方をしてくれたし、こうして服の着付けや髪を結うのも手伝ってくれる。ほとんど何も話してくれないが、手つきに慈しみのようなものを感じたりもする。


「……あのう、天狐さんって、やっぱりあの天狐なんですか?」

「どの天狐か知らないけど、多分そう」


 作り物のように綺麗な顔をしたまま、瞬き一つせず彼女は答える。

 まあそうだよね、と沙夜は心中で呟く。神獣である白澤を師父と呼ぶ彼女もまた、かなり霊格の高い存在だと考えるのが普通だ。

 一般に、百年以上生きた狐は霊力を得るとされ、千年生きれば天と通じて天狐になると言われている。いまは年若い女性にしか見えないが、本当は尻尾がたくさんあるようなのだろうなと想像する。


「天狐さんはわたしの母とも知り合いだったんですよね?」

「知り合いじゃなく、自分にとっては妹弟子。あなたも同じ」

「ええと、でしたらうちの母って、どんな人でした? 実はわたし、あまり覚えていなくて。五歳の頃に死んじゃいましたし」

「莫迦だった。だから師父を裏切って出て行った」


 天狐はそう言って、唐突に帯をきつく締めた。鳩尾みぞおちが圧迫されてうっとなる。


「あなたもそうするなら、今度は容赦しない。覚えておいて」

「は、はい……」


 ひやりと背筋を走るものを感じ、たまらず押し黙る。

 ハクも言っていたことだが、母が弟子の役目を放り出して後宮を出て行ったことは間違いない。その責を沙夜が負うのも仕方がないことだと思う。

 だけどその原因は、沙夜自身かもしれないのだ。母はもしかすると、沙夜を身籠もったせいで後宮にいられなくなったのではないだろうか。父が皇帝陛下だなんて話は眉唾ものだが、そうでなくとも複雑な事情があったのだと思う。


「ほらできた。あんまり待たせると首が飛ぶかもしれないから、急いで」

「そんな物騒な……。大丈夫です、腕を引かなくても行きますよ」


 口ではそう答えたが、足取りは少々重い。未だに偉い人に会うときには不安になる。それでも母の襦裙に身を通しているのだと考えると、不思議と気が引き締まった。

 長い裾を踏まぬよう気をつけながら渡り廊下を歩き、正殿の広間へと向かう。

 それから蘭華に教わった作法通りに戸を引きつつ、「お待たせ致しました」と礼をとって頭を下げると、すぐに言葉が返ってきた。


「ああ、待っていましたよ。そちらの席にどうぞ」


 綺進の前には、どこから持ち込んだのか長机が置かれていた。細やかな浮き彫りが黒檀に施された、かなり高そうな代物である。

 どうしたんですかこれ、と訊ねると、彼は微笑しつつ答える。


「机も椅子も数が足りないようでしたからね。不便そうだったので持ち込ませていただきました。何、備品を揃えるのも内侍省の仕事ですから、お気になさらず」

「ありがとうございます。では失礼して……」


 勧められるまま向かい側の席に座る。綺進の後ろでは宮女が立ちっぱなしで控えているので、少々申し訳ない気持ちにはなるが言う通りにするしかない。


「まずはお知らせしておきますね。桂花宮の宮女への尋問は終わり、みな解放されました。いまのところ香妃の計画に荷担した者はいないという判断のようです」

「そうですか。良かった……」


 沙夜はほっと胸を撫で下ろす。


「いまのところは、です。捜査は秘密裏に続けられるでしょうね。蘭華という侍女の行方も不明ですし。ここでかくまったりしてませんよね?」

「もちろんです。わたしは何も存じ上げません」

「ならいいのですが。実は昨日、ニヤンニヤンとも話し合ったんですよ。あなたにこの白陽殿の管理を一任してはどうかとね。元より再建もされず放置されていた場所ですし……白澤の弟子となったあなたに任せるのが、一番だろうと」

「……ご存じだったんですね」


 自然と目つきが厳しくなるのを感じながら、沙夜はそう訊ねた。

 彼はふふっと軽く息を吹いて答える。


「内侍省の記録に残っていましたよ。歴代の弟子たちのことも、あなたの母親である陽沙がそうだったということもね。もちろん娘娘もご存じでした」


 娘娘とは皇后のことだ。後宮を巨大な家庭とみなし、主人である皇帝を大家、后を娘娘と呼ぶ人は宦官に多いと聞く。いささか古い呼称なので、若い宮女たちには浸透していないが。


「そこまで信用していただいてもいいのですか? わたしはまだ見習い宮女の身の上です。とても一つの殿舎を任せられるには……」

「無論、そういう意見もあるでしょう。白澤の弟子だなどと言っても、大半の者は信じはしません。だから当然批判も出てくる。そこでですよ」


 彼は撫で肩を前傾させ、前のめりになりつつ語気を強める。


「今後、あなたに仕事を回そうと思っているのです。人喰い鬼の噂じゃありませんが、後宮内には時折、妖異の仕業としか思えない事件が起きることがあります。あなたの母もそういった事件をいくつか解決しているようですよ?」

「母が、ですか……」


 いちいち母を引き合いに出されるのは正直不快だったが、元より断る権利など沙夜にはない。下級宮女の身分が変わったわけではないのだから。

 それに蘭華のこともある。香妃の侍女の中で一人だけ行方知れずの蘭華が、いずれ沙夜の前に姿を現す可能性はある。白陽殿は監視されていると考えていい。信用を得るには何らかの成果を出す必要があるのだ。


「……ふむ。難しい顔をさせてしまいましたね」


 と、そこで一転。からっと軽い口調になって綺進は言う。


「まあ重く考える必要はありません。できることをやって下さいというだけですよ。ところで準備ができたようです。今日はこの机以外にも手土産がありましてね」


 彼が喋っている間にも、鼻の先にぷうんと芳しい香りが漂ってきていた。

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