第二章 饅頭と水鬼

第二章 饅頭と水鬼(1)


《如三四歳小兒、甲如鯪鯉、射不能入。秋曝沙上、膝頭似虎掌爪、常没水、出膝示人。小兒弄之、便咬人。人生得者、摘其鼻、可小小使之。名曰水虎》


外見は三、四歳の小児のごとく、甲はりようのごとく、ても貫くこと能はず。秋は沙上にさらし、膝頭は虎の掌や爪に似たり。常に水に没し、膝を出して人に示す。

小児これを弄べば、すなわち人をむ。生け捕れば、の鼻を摘まんで、使づかいにできる。名を水虎という。




「我が名は白澤。知識をつかさどる神獣である──」


 運命が動き出した日の午後のこと。白陽殿の主が自ら正体を明かしてきたが、未だ混乱のただ中にあった沙夜は「あ、そうなんですね」と軽く返した。


「何だ、つまらん反応だな」


 ね顔を見せるハク。その整いすぎた容姿にはあまりに不似合いな表情だ。

 白陽殿には人喰いの鬼──夜叉が棲むとしか聞かされていなかったので、本来ならばそれなりに驚くところだろう。だが朝から驚きの連続で、すっかり感覚がしてしまっていたようだ。桂花宮は燃えてしまうし、禁軍には追いかけられるし、しまいには皇帝陛下が父親だなんて言われてしまうし……。


 あの辺りから頭の中にもやが立ち込めて意識がぼやけてしまい、どのように話が決着したのか全くわからない。ただ、お偉いさん同士で沙夜の処遇を話し合うというようなことは言っていた気がする。その結果は明日告げられるそうだ。


「ぼんやりとしおって。些事など放っておけ。それより我が弟子となったおまえに、今後のことを説明せねばならぬ」

「はぁ……。弟子、ですか?」


 と、何とか気を取り直して訊ね返す。現実から目を逸らしていても何も解決しない。一つずつ消化していかねば。

 すると「ついてこい」と言ってハクは歩き出した。黙ってその後に続くと、行き着いた先は初めて彼と出会った書斎だった。

 昨夜は暗くて気付かなかったが、改めて見ると部屋の内装はあまりに特殊だった。天井の高さは普通の建物の倍はあり、窓と入口を除く全ての壁面が書架となっている。あとは小さな黒檀の机と、とうで作られた椅子が一つ。


「うわぁ……。書物が、こんなにたくさん」


 上下左右、ぐるりと首を巡らせながらそう呟く。どの書架にもびっしりとかんぼんが詰め込まれていたからだ。

 鼻から息を吸うと、古紙と墨汁が放つ硬質な香りが胸を満たした。それだけで憂鬱だった気分が少しずつ晴れていく。思考もはっきりとしてきた。

 実家にいた頃には、朝から晩まで書物を読んで過ごした。とはいえ貧しい田舎だったので新しい本などそうそう手に入らない。だから限られた本を大切に、何度となく読み返して想像の翼をはためかせていた。内容を完全に諳記してしまうほどにだ。


「歴代の弟子たちが書いた〝はくたく〟だ」


 ハクは歩みを進めて椅子に腰掛けると、足を組んで沙夜の顔を見る。


「まずはこれら全てに目を通して貰わねばならん。なるべく早くな」

「目を通すって、全部読んでいいってことですか!?」

「そうだ。ただびとの身にはつらいかもしれぬが……」

「いいえ、とても嬉しいです!」


 たちまち気分が高揚し、瞳を輝かせながら言った。後宮に入ってからほとんど本の類を見ていなかったので、多少の禁断症状にあったのだろう。

 書物は素晴らしい。読書に没頭すれば、余計なことを考えなくて済むのがまたいい。沙夜は胸の前で手を合わせ、体を前のめりに傾けてそう訴える。すると、


「……ふむ。未知の反応だな。おまえのような弟子は初めてだ」


 ハクは何やら苦笑いし、それから真顔に戻ってこう続けた。


「我に対して敬語はいらん。いちいち語尾に余計なものをつけていては会話の効率が悪くなるだけだ。人に与えられた時間はさほど多くない。無駄は極力省くように」

「はい! 白澤様!」

「ハクでいい。まあおいおい慣れていけ。……早速この辺りから始めるか」


 彼は机の上に置いてあった巻物の一つを摑むと、沙夜の方へと差し出してくる。


「先程も言ったが、我は知を司る者だ。しかし知識とは、頭の中に抱えているだけでは意味を成さぬもの。しかるに我が欲求は一つ。我が知を世に残し、そして広めることだ。そのためには書物という形態をとらざるを得ん」

「それが白澤図、なのですね?」


 巻物を受け取りながら訊ねると、そうだ、とハクは肯定した。

 白澤という神獣に関する知識は、沙夜の脳内にもある。人語を解し、非常に長命で森羅万象に通じ、徳のある為政者の元へ現れてはえいを授けるという。


 古代の伝説的なみかど、黄帝が出会った際には、一万一千五百二十種に及ぶ妖異鬼神の存在とその対処法について語ったと言われている。そして白澤図とは、白澤の言葉を黄帝が記録させたものだとされているが、大乱の際に失われて現存しないというのが通説だった。それがまさかこんな場所に眠っているだなんて……。


「その巻物はな、おまえの母が書いたものだ。開けてみろ」


 思いがけないハクの言葉に、驚きつつ手元に目を向ける。

 竹管の芯に紙が巻かれたごく一般的な作りのものだ。黒く塗られた表紙をめくって中を確かめてみると、精緻にして流麗な筆致が目に飛び込んでくる。まっすぐな筆の運びと均一な文字の大きさ。ちようめんな心根がそのまま表れているように見える。


「これを、わたしの母が……」

「そうだ。おまえの母も我が弟子だった。だが白澤図を完成させることなく道半ばで後宮を去った。だから後を継いでもらわねばならん。おまえが供物として捧げられたとはそういう意味だ。我の持ちうる知識が膨大であるがゆえ、生涯を懸けてもらわねばならんだろうからな」


 ただし、と念を押すようにハクは続ける。


「約定の通り、おまえを幸せにもせねばならん。だから常にこの場に縛り付けておくようなことはせん。別に悪い話ではあるまい? 白澤図を書きつづればいずれ、おまえはこの世の真理に触れるだろう。なれば栄達も思いのままだ。歴代の弟子たちもみな、ひとかどの地位を得ておったことだしな」


 なるほど、と沙夜はうなずく。ハクの言うことが確かならば、初代の弟子は黄帝ということになるからだ。

 史上最も偉大な帝といわれる黄帝は、現在の国家の在り方を築いた。医術の祖と呼ばれるだけでなく、養蚕を始めて衣服を発展させ、牛馬車を発案して農業を改革し、文字や音律に至るまで様々な発明を残した。それらが全て、白澤に師事して得た知識によるものだとしたら大変なことだ。実際に書物として書き取ったのは部下かもしれないが、重用されなかったはずはない。


 官吏になって国に仕えることが沙夜の本願である。白澤図を完成させればきっと国のためになるのだろう。ならば異論はないし、生涯を捧げることにも文句はない。

 ただし、だ。


「あのう、一つだけ訊ねてもよろしいですか?」


 なんだ、と首を傾げるハクに、素朴な疑問を投げかけてみる。


「どうしてハク様が直接筆をとられないのです? 弟子をとるのは何故ですか」

「理由はある。もちろんな」


 半開きの窓から吹き込んできた風が、長い白髪をなびかせる。横顔にかかったそれを色気のある所作で耳の後ろに搔き上げながら、美男子は流し目を送ってきた。


「我は全てを知る者だ。ただしそれ故に、無知な人の子にどう知識を授ければいいかがわからぬ。矮小な脳しか持たぬおまえたちが、何を知っていて何を知らぬのかわからぬし興味もない。だからその役目は人の子にしかできぬのだ」


 はぁ、そうなんですね、と生返事をしてしまう。

 全てを知っているのに、その知識を人に伝える手段がわからないなんて、もうその時点で矛盾しているように聞こえるのだが、気のせいだろうか?


「何よりも、だ」


 言いつつ、ハクは西日に赤く染まり始めた中庭へと目を向けた。


「書物というものはな、読むだけならともかく、書くのはひどく面倒だ」

「いや、それはそうでしょうけども」


 沙夜は反論しようとしたが、彼方かなたを見つめるような横顔を見て言葉を失った。

 間違いなく、本音だ。

 ハクはこれまで何度となく「面倒臭い」と口癖のように言っている。あれもきっと本心からの発言だったのだろう。つまり彼の本性とは、変化後の姿が表す通り怠惰で気ままな猫そのものに違いない。

 だってその証拠に、怜悧な横顔にちゃんと書いてある。面倒事は全部弟子に押しつけたい。そのためにいままで何もせず、ただおまえを待っていたのだ、と。

 今後が何とも不安になってきた。沙夜は心中で溜息をつきながら答える。


「わかりました。わたしのできうる限りで、頑張ります」

「それでいい。あと敬語はいらんからな。早めに直せ」


 言われなくとも、ハク相手に丁寧な対応をする気はせていた。このまま印象が変わらなければ、そのうち放っておいても敬語は使わなくなるに違いない。

 ともあれ一番大事なことは、この手に母が記した書物があるということだ。

 文字の表面を指でなぞれば、記憶の底から温かい気持ちが込み上げてくる。ずっと手本としてきた理想の筆致だ。忘れるはずがない。

 このまましばらく誰の邪魔も入ることなく、母がのこした書物を読むことに没頭できるだなんて……それはとてもぜいたくで幸せなことだと思った。


【次回更新は、2020年3月4日(水)予定!】

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