第一章 夜叉の目覚めた日(15)


    ◇


 枢密院の詰所に戻ってきた緑峰は、執務室の戸を開けて中に入るなり、自分の椅子に崩折れた。

 桂花宮への立ち入り捜査があったため、昨夜はほぼ寝ていない。肉体の疲労もかなり蓄積しているし、それに加えて白陽殿で耳にした話が頭にこびりついて離れない。全身を気怠さが包み込み、もはや意識を保っているだけで精一杯だった。


「……知っていたのか、綺進」

「そんなわけないでしょう。さすがに驚いておりますよ」


 後に続いて部屋に入ってきた糸目の男は、肩を竦めて薄笑いを返す。


「まあ半分くらいは、ですけども」


 半分か、と緑峰は声に憤慨を滲ませる。皇后の言葉を聞いたときの反応からして、さすがに沙夜の父が皇帝だとは知らなかったようだ。しかしその他については、まだ隠していることがたくさんありそうである。


「ご懸念もわかりますが、これだけは言えますよ?」


 綺進はこちらの視線を受け流し、涼しい顔で続ける。


「後宮で生まれた御子以外に、皇籍が与えられることはありません。あの娘が本当に大家ダージヤの血を引いていたとしても、こうしゆと呼ぶわけには参りません。呼ぶならばそうですね、姫に留めておく方がよろしいかと」

「呼び名などどうでもいい!」


 焦点のずれた発言に、思わず声を荒らげてしまった。

 いつもこうだ、と唇を嚙む。枢密院の長などしていても肝腎の情報はいつだって与えられない。

 枢密使は禁軍を統括する役職であるが、指揮権は皇帝にあって緑峰にはない。ただ監督する立場だというだけだ。つまりはお飾りである。


「あの娘──沙夜は香妃の侍女に連れ出されたせいで、白陽殿に踏み入ったと口にしていたな? その蘭華という者は誰だ。おまえのところのかんちようではないのか」

「いいところに気付かれましたね」


 既に取り繕う気もないようで、綺進はにやりと口元に作為を漂わせる。


「ですが答えられません。どのようにとも好きに取って下さい」

「否定しないのだな。その者は沙夜の出自を知っていたわけだ。だから白陽殿に逃がした。恐らくはあの鬼神の存在すら知った上で……」


 言いつつ緑峰は拳を握りしめる。

 鬼神など今日まで信じたことはない。だが事実は事実として認めねばならない。

 白陽殿の門前でこの体を縛り付けた力と、あの人外としか思えぬ威圧感。どう考えても尋常な相手ではなかった。


「かもしれません。ですが」


 綺進はそこで口角を深く引き上げた。


「あなたは一つ、思い違いをしています。ちょっとだけ助言をさせていただきますが、問題は彼女が公主であることなどではありません。もともと公主に大した権限は与えられませんからね」

「……確かにそうだが」


 やや不遜とも思える物言いに目をつぶるならば、綺進の言葉は事実である。

 綜の国で出産という言葉は、男子を産むことを意味する。世継ぎという言葉も皇太子にしか使われない。つまりそれほどまでに皇女の扱いは軽いのだ。

 当然ながら皇位継承権が与えられることもないし、政略結婚に用いられる以外には価値がない。だから沙夜が皇帝の娘だからといって、特に騒ぎ立てすることはないのである。本来ならば。

 しかしその事実とは裏腹に、綺進は「そんな生易しい話ではないですよ」と口にした。うっすら開けたその双眸から、妖しい光を漏らしながらだ。


「皇帝陛下の娘であることより、陽沙の娘であることの方が重要なのです」

「何だと……? どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。私も多くは知りませんが、陽沙もまた妖異鬼神の姿を瞳に映すことができる女だったそうです。そしてその力が故に、陛下に子を成すことを望まれたのでしょう」

「では陽沙という女は、それほどの才を持っていたのか」

「才ではなく血筋です。何故なら陽沙は、きゆうれいぞくまつえいだったのですから」

「九黎族……?」


 神話に語られるその名は、実在すら定かではない部族のものだ。

 古代の王であるふつじよしんのうもこの部族の出自であったと聞いたことがある。さらには開祖〝黄帝〟と闘った戦の神〝蚩尤しゆう〟も九黎族の頭目だったとか。

 そこまで考えて、不意に目眩めまいがした。

 話が大きくなりすぎて実感が持てない。想像しているうちに鋭い頭痛が走り、緑峰はたまらず眉間を指で押さえた。気休め程度の効果しかなかったが。


「大丈夫ですか?」

「黙れ。ではあの猫は何だ」


 かろうじて訊ねると、綺進はふふっと笑みを漏らす。


「ようやく辿り着きましたね? 今日のことで最も考えなければならないのが、あの猫の正体なのですよ。私自身も莫迦莫迦しいとは思いますが……ですがあなたも聞いたでしょう? あの少女が猫に向かって〝ハク様〟と呼び掛けるのを」

「確かに聞いた。それが?」

「ご存じのはずです」


 綺進は日が落ち始めた窓の外に視線を向けて、陶然とした表情になって続ける。


「そもそも白陽殿とは、太古の昔にこの地に都を築いた黄帝が、神獣に教えを乞うために作ったという逸話があるのです。それ故、歴代の皇帝だけが書院として使うことを許されてきました」

「神獣……?」


 緑峰は息を吞む。


「神なる獣、だと?」


 言葉として口から放つと同時に、体の内側から震えが沸き起こった。

 有り得ない。そんなものは迷信だ。まやかしだ……。否定するおもいが次々と浮かんでくるが、心は一向に平静を取り戻すことはない。

 他でもない綺進の言葉だからだ。こと人の才を見抜く目においては最も信を置く、目の前の優男から放たれる高揚の熱が、緑峰に安易な考えを許してくれない。


「そうです。神獣の名は〝白澤〟」


 綺進はこうこつとした声を上げた。


「森羅万象に通じ、蚩尤を討つ知恵を黄帝に与えた獣ですよ。そんな伝説にうたわれる存在が、いまこの現代に再び姿を現したのです──」


 まるで神にゆるしを請うように、綺進はその場に跪いて天を仰ぎ見る。

 いささか芝居じみた所作ではあったが、瞳を見ればわかる。本気なのだと。だからとても一笑に付すことなどできなかった。

 もしそれが事実だとしても、緑峰にはわからない。神獣の存在がどの程度のものなのか。一体この先に何が起きようとしているのか。

 わからないが、しかし一つだけ確かな事実がある。

 現代に蘇った伝説の神獣は、皇帝ではなくあの娘を選んだということだ。

 かつて交わした約定により、白澤は沙夜を幸せにすると誓ったそうだ。であれば、沙夜の存在もまた、無視出来ぬ程に大きくなったと判断せざるを得ない。元より彼女にしか白澤の声を代弁することはできないのだから。


 その神獣の知恵がこの国に何をもたらすのか。繁栄か、はたまた混沌か。

 権力者たちの陰謀が渦巻き、もうりようが巣くうあの後宮において、彼女が暴虐の破壊者となるか、それとも救世主となるのか──

 考えるだに、脳に鉛が詰め込まれたように重くなっていくのを感じ、たまらず緑峰は机上に両肘を突いて頭を抱えた。

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