第一章 夜叉の目覚めた日(14)


「この娘の親が口にした願いは──我が子の幸せだ」

「………………はぁ?」


 我知らず、沙夜の口から間抜けな声が漏れた。


「わたしの幸せ、ですか?」

「そうだ」


 ハクはさも当然というような態度で答える。


「其方を供物に捧げる代わりに、其方を幸せにすること。それが約定だ」

「わたしを供物にして、わたしを幸せに……? 思いっきり矛盾してません?」


 口に出してみると、いよいよ違和感が酷い。

 だって供物に捧げられた者は、その時点で幸せではないのでは? 少なくとも自由を奪われるということだろうに。

 というより幸せにするって、あまりに漠然としていないだろうか。よくもまあそんな条件で約定を結んだものだと思う。

 しかしハクは大真面目な声で続ける。


「こうして供物が捧げられている以上、既に契約は成立している。つまり我には沙夜を幸せにする義務があるのだ。よってなんぴとたりとも手出しすることは許さぬ」

「ちょ、ちょっと待って。それもわたしが通訳するんですか?」

「そうだ。何も心配はいらん。少なくとも後宮にいる間、其方を害せるものは存在しない。ちゃんと幸せにしてやるから、安心して言いたいことを言うがいい」

「いやいや。いまわたしが一言物申したい相手は、ハク様とうちの母ですよ」


 沙夜が言うと、ハクは首を傾げて不思議そうな顔をした。

 そんな約束、持ちかける方も持ちかける方だし、請け負う方も請け負う方だ。

 ふと目を横に向けると、会話が聞こえていない緑峰と綺進が、怪訝そうな顔つきでこちらを見ていた。

 口に出すのも恥ずかしい話だが通訳せざるを得ない。その切り出し方を考えるだけで、血の巡りが速くなり顔に熱が溜まっていく。


 あと、そんなに幸せにすると連呼しないで欲しい。沙夜だって年頃の女子なのだ。本来のハクはとんでもない美男子なのだし、意識しないはずがないではないか。

 しかもそれら全てを自分で説明しなければならないだなんて、ほとんど拷問である。肌がぴりぴりと粟立ってきて、胸の中がむずがゆさで一杯になった。

 それでも一通り事情を話し終えると、


「く…………くくっ。ははははっ!」


 何故か緑峰が、声を上げて笑い始めた。


「いいぞ。実に面白い。こうとうけいに過ぎて、逆にしんぴよう性が高まった。本当は白陽殿の夜叉など信じる気もなかったが、笑ってしまったからには仕方がない」


 彼はそうごうを崩すなり、とても優しい眼差しを沙夜に向けてきた。

 こんな少年のような顔をして笑うのか、と意外に思う。まあ隣で口元を押さえながらくつくつと声を漏らす綺進は予想通りだが。

 それにしてもやはりこの約定はおかしい。自分の感性は間違っていない。

 だというのに、当のハクは一仕事終えたような清々しい顔をして、その場に香箱座りをしていた。一体誰のせいでこんな恥ずかしい思いをしていると……。


「──なかなか面白そうな話じゃな」


 どこかからそんな声がした瞬間、入口を固めていた兵士が一斉に片膝を突いた。

 状況の変化に対応できず、沙夜はただ目をみはった。後光を背負って正殿の階段を上がってくるその人物に目を向ける。

 やがてきぬれの音とともに広間に入ってきたのは、見るも豪奢な衣を羽織った美し過ぎる女性だった。

 たんの刺繡が施された繻子のはいをふわりと着こなし、薄紫のはくをなびかせながら歩く姿はさしずめ地上に降りた天女のようだ。それが多数の侍女を引き連れてまっすぐにこちらに向かってくるのである。


 近付けば近付くほどに、その存在感が大きくなっていく。香妃も美しいと思ったが、こちらはもはや人の域にあるとも思えない程だ。沙夜は自然とへいふくしてしまう。

 緑峰と綺進もやにわに立ち上がって両翼に避け、床に膝を突く。その行為で確信するのは、彼女こそが後宮の真なる支配者であるという事実。

 そう、皇后陛下である。

 どうしてこんな場所に、と動揺のあまり動悸が激しくなる。次から次へと何が起こっているのか。考えることが多すぎて頭の中がこんとんとしてきた。


「構わぬ。顔を上げよ」


 頭上から降ってきた声に反応した瞬間、喉元にひやりとした手が差し込まれた。

 しくも、昨夜も味わった感覚である。沙夜はなす術もなく、そのままくいっと顎を持ち上げられてしまった。


「──ふふっ。やはり似ておるな。陽沙に」


 畏れ多くて声すら上げられず、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。かんして見れば無礼な態度だったに違いないが、しかし天女は慈愛の笑みを浮かべていた。


「驚いているようじゃな。どうして母の名前を知っているのかと」


 続けて彼女は、を奏でるようにれんな声を響かせる。


「別に不思議はなかろう? 陽沙とわらわは同じ時期に後宮に入り、同じ釜の飯を喰うた仲じゃ。そもそも白陽殿のしようきゆうに推薦したのも妾じゃしな」


 皇后は沙夜の顔をしげしげと眺める。時に見る角度を変えながら、やけに念入りに。それからやがて何やら面白いものでも見つけたように、ふっと息吹いぶきを放った。


「ほれ、緑峰殿も見てみるがいい。よく似ておると思わぬか?」

「……いえ。自分はその娘の母親を知りませんので、わかりかねます」


 緑峰は目を伏せたまま厳粛な顔つきになっていた。彼にとっても皇后陛下は一目置く存在に違いないから当然か。単に苦手なだけかもしれないが。


「はぁ? そんなの当たり前じゃろうが。違う違う」


 意外にも軽い調子で皇后は否定し、ようやく沙夜の顎から手を離した。


「よく見てみぃ。瞳の色もそうじゃし、目蓋の形や口元も特徴的じゃ。おぬしもよく知っておるはずの顔じゃろう? 沙夜は父親似なのじゃな」

「は────?」


 皇后の言葉を聞き、稲妻が走ったように体を震わせたのは緑峰だけではない。彼の向かい側に膝を突く綺進も、壁際で平伏する兵士たちも、後ろに控える侍女たちも、そして沙夜自身もまた例外ではなかった。


「ど、どういう意味でしょうか」


 震える声で緑峰が訊ねると、そのままじゃよ、と皇后は返す。

 それからさらに悪戯いたずらっぽい笑みを浮かべながら、こう言葉を続けた。


「沙夜の母、陽沙のことはよく知っておると言ったじゃろう? だから妾が保証してやろうぞ。あのどうしようもない堅物が、しゆじよう以外に体を許すはずがないとな」

「で、ではこの娘の父親は」

「だから言うておる。よく顔を見てみよとな」


 笑みを深めた皇后の口から続けて飛び出した、「主上じゃよ」という言葉を聞いて、今度こそ本当に頭の中が真っ白になってしまった。

 その言葉が示す事実は、たった一つしかない。

 が、信じられなかった。だってたった一日なのだ。つい昨日まで沙夜は、己の無力と不運に嘆く、どこにでもいる貧相な小娘に過ぎなかったはずだ。

 なのにこの一日で、世界の全てが見事にひっくり返ってしまったのである。

 何故なら皇后が口にした主上とはつまり、皇帝陛下のことなのだから。


【次回更新は、2020年3月2日(月)予定!】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る