真相と不条理

「兄様! 気が付いたんですね、兄様! 大丈夫ですか!?」

 目を開けてすぐ飛び込んできたのは、屈み込んで俺を見る文月の泣きそうな顔と、その向こうにある天井。普段あまり見ない表情をあまり体験した事の無いアングルからぼーっと眺めていると、なんだか夢うつつが加速されていくようだ。

「なんだ……? どうなった、これ?」

 すぐに身体を起こそうとしたが、文月に手のひらで頭を押さえられた。

「無理をしないでください。兄様は気絶していたんです。」

「ああ。」

 すぐに思い出せた。

 トイレのドアを開けたら猫が胸に飛び込んできたんだ。

 普通の人間はそんなもの叩き落してしまえばいいと考えるかもしれないが、俺は猫アレルギーな訳で。咳でふらふらしてるところにそんなものをくらったら、それは後ろに倒れる訳なのだよな。

「ごめんなさい、固い床に寝かせたままで。でも頭を動かしちゃいけないと言われたから……救急車が来るまで、できるだけ身体を動かさないでいてください。」

 横目で確認するが、寝ているのはトイレの前だ。ずっと倒れたまんまの位置で寝てたのか。

「あの猫はどうした?」

「真っ直ぐリビングに入っていったので、そのまま閉じ込めました。」

「そうか……部屋の中を荒らしていなければいいけど。」

 一分一秒を争って意識不明者を介抱しなければならない状況において、その判断はベストに近いだろうな。邪魔のとりあえずの排除、俺の容態の確認、119のプッシュ、全部で20秒も掛けずに手際よくこなしただろう様が想像できた。向いている方向が正しければ、文月は非常に頼れる。

「兄様、具合はどうですか?」

「頭が痛いな、頭痛って意味じゃなく。それ以外は……特に無い。」

「アレルギーは?」

「言われてみれば、目が痒い。でも少しだな。」

 質問に答える度に、自分の身体が大事ない事を改めて確認できる。俺の無事にほっとしている様子の文月の顔を見て、今が単なる平日の日常の夜なのだという事を思い出した。結局のところは、俺も文月も無意味な部分に気を張っていただけらしい。力の抜ける気分だが、それに付随する安心感は悪くない。

「ドッペルゲンガー、いなかったな。」

「ただの猫でした。」

 トイレの窓の網戸を破って入ったらしい、と妹は言う。それで、偶然にも猫がノブのボタンを押し込んで施錠してしまったのだろうと。

 まったく、何も不思議なんてものはありはしない。空き巣と比べたって、まだありふれた事件じゃないか。

「何か言う事はないのか。」

「ごめんなさい……。」

 真っ直ぐ目を見て問うと、素直に謝った。

 うちの妹は素直に謝る。

「兄様の言うとおりでした。私は今、今日これまでの全部はただの勘違いだったのだと思っています。兄様があれほど言ってくれたのに……もう、恥ずかしい。あんまり見ないでください、逃げてしまいそう。」

「ふうん。倒れている身としては、ここで診ていてほしいんだけどな。」

「だから逃げられません。」

 そう言う、妙な夢から目覚めたいつも通りの文月に、つい軽く声を出して笑ってしまう。文月は拗ねたように目を細めたが、すぐに笑顔になった。


 今日の出来事は結果的にほどよい刺激として吸収されたのか、さっぱりとした気分だった。冷静に考えれば別に何も良い事は起こっていないのだが、妙に疲労が心地良い。結果論だが、ソファーに座って檻の中のゾンビを眺め続けるよりはハラハラドキドキできて楽しかっただろう。

 さっきあれほど脅えていた文月も、今は落ち着いて笑っている。頭の方から微かに聞こえる猫の声だけがやけに不機嫌そうだったが、それもなんだか面白かった。

「でも良かったです。こんな事を言うと、また笑われるかもしれないけど……兄様が生きていてよかった。」

 ドッペルゲンガーの事か頭を打った事か、どっちの命の心配だろうか。猫アレルギーだって甘く見たら深刻な事態を招きかねないものなので、おそらく、諸々を全て合わせた上での『よかった』なのだろう。

「俺が死ぬのは、君が婆さんになってからだよ。」

「それ、妹に言う台詞じゃないです。」

 そう言いながらも、彼女は嬉しそうな顔をする。俺はその顔を見るのが結構好きだった。

「もう本当に大丈夫そうですね。そろそろ救急車が来ると思うので、そのまま少し寝ていてください。」

 席でも外すのだろうか、先程も言ったような事をまた念を押すように言う。

「何処かに行くのか?」

「えっとですね。」

 文月は強いて何でもない風を装ったような顔で、斜め前のただの壁を見ながら言う。

「トイレに。」

 言う間にそそくさと立ち上がり、俺の頭とは反対の側へ歩いていった。

 そっと扉の閉まる気配が地面を伝わる。ドアの向こうで流水音が流れ始めた。


 薄目で天井を仰ぎ、電球の眩しさを片手で受け止める。視界を狭めると河原で寝ているような錯覚が生まれるが、目を完全に閉じてその河原を探検したりはしない。

 起きてから文月と話す事で色々と急速に落ち着いていったが、その落ち着き加減もまた落ち着いたように思う。本当の冷静というのは、今この瞬間からなのだろう。


 じっと仰向けに静止していたところで、床の冷たさが俺とお話をしてくれる訳もない。

 考えてしまうのは先程の事だ。先程の侵入者騒動。回しても開かなかった、あのノブの手応えを思い出す。俺が目一杯の力を込めて叩いたのと同じくらい、トイレの内側から力強く返されたあの音の事を思い出す。


 俺が目一杯の力を込めて叩いたのと同じくらい、トイレの内側から力強く叩き返す猫?


 猫は一体、ドアに何をぶつけたのか。目一杯頭突きをしてみせたのか。

 猫とはそういう生き物だったか。


 猫がボロの網戸を破って、窓から入るのはあり得る話だ。

 その猫がノブのボタンを偶然プッシュしてしまうのはあり得る話だろうか。

 あり得ない、とは言い切れないだろうな。何が楽しいのかノブに精力的にジャンプパンチをしていた所、偶然にもボタンを押し込み施錠してしまう猫。少し強引だが、それでもいくらかの現実味は残す想像だ。


 では、家の人間がその物音を一切聞いていないのは何の偶然だろう。そもそも俺が鍵を使って扉を開くまで、あの猫は鳴き声一つさえ漏らしていないのだが、それは、そんな事もあるさと済ませてしまえる話なのか。


 リビングから聞こえてくる鳴き声に意識を傾ける。

 先程不満気な鳴き声と形容したが、もちろん猫の感情なんて俺には測れない。ただ平常心ではなさそうな鳴き方だったから、勝手に不満気な事にしただけだ。本当はあいつが鳴き声に乗せている感情は怒りではなく、悲しみだったり、あるいは恐怖だったりしたのかもしれない。


 恐怖。

 恐怖で声も出ない、という状態は人間特有のものであろうか。

 あの猫は何かに恐怖していただろうか。あの閉鎖された空間の中で何かに脅えていたのだろうか。そもそも、あの何もない空間で猫が何に恐怖できるというのか。


 血の色をした壁紙に恐れおののいたのか。

 それは無い。


 では、無機質なタイルに幻の屍体を見たのか。

 違うな。


 いっそ、便器が襲ってくるとでも思ったのか。

 馬鹿げている。


 だとしたら


 真正面のドアから堂々と入り込み、そのまま黙って鍵を閉めた『何か』が怖かったのか。


 人とも獣とも知れぬ不自然な異様に脅え、身体が動かなくなってしまったのか。

 なんて。


 俺は今、何故そんな荒唐無稽を想像しているのだろうか。妹を少しも笑えない。これこそまさしく妄想じゃないか。

 だったら、その妖怪は何処に消えたんだ。猫がそいつに脅えたように、そいつも猫に脅えて消えたとでも? 馬鹿馬鹿しいな、猫に倒される怪異なんて。重度の猫アレルギーだったとでも言うのか。

 何気なく入ったトイレでぼーっと佇んでいたら、その場に偶然居合わせたアレルゲンからごりごりとダメージをもらってくたばったのか?

 そんな間抜けを誰がする。

 俺だったら、そんな自殺行為は絶対に避けるだろう。


 俺だったら。


 俺だったら、か。


 俺だったらどうするだろうか。

 ある日突然形を成した俺はドッペルゲンガー。顔を合わせる事で本体を死に至らしめる事ができるらしい、そんな立場でどう動くのか。戯れに近付いて殺してみるか?


 そんな悪趣味は犯さない。

 だったら……それを避ける。隠れるのだろうか。

 とにかくひたすら本体の動向に気を配り、外出中は家に、在宅中は外に出るような生活を心掛ける……だろうな。

 ドッペルゲンガーだからといって俺である事に違いは無く、家にも家族にも思い入れがあり、できればそこで暮らしたい……と思うだろうか。

 たまに本体が長く出掛けるような時は、ハメを外してつい活発になったりもする……のだろうか。

 そんな風にしている内に、きっと勘の良い妹には感付かれてしまう。

 やはり自分の居場所はここには無いと痛感するようになる。

 そんな中、猫に出会う。

 消えてしまえばいいのかと思う。


 サイレンの音が徐々に近付いてきた所で、俺は思考を中断した。まずは、これから自分が救急車に運ばれるのだという現実を考えなければならないはずだった。

 あやふやな記憶を頼りに妄想にふけっていても仕方がないというのは正論だ。ドアを叩き返した音は本当はもっと大人しいものだったかもしれないし、猫の鳴き声だって、聞こえていたのに映画に夢中だっただけかもしれない。あのドアを開けた時の身体の違和感が全て猫アレルギーの症状と同じだったかどうかなんて、結局俺はそんな細かい事を覚えてはいないのだ。


 ドアが静かに開く音に振り向くと、トイレから出てきた文月と目が合った。文月は少し落ち着かないような顔でその目を逸らし、足早に手洗い場の方に歩いて行った。


 文月はごく稀に今日のような妄言を口にする。

 そして後に、それが何も理の無い妄言でしかないと気付くと、しばらく少し反省したような態度を取る。

 こういう事は、あいつが何かしら精神的にあるいは肉体的にプレッシャーを受けている時によく起こり、今まで、その全てが笑い話に終わっていた。

 後々になって俺などに笑われるたび、本人は少しムキになって自己弁護を始める。笑うしかない、だって本当に何の理も無い不条理語りでしかなかったのだから。

 さっきも実感したが、あいつはそもそも俺に何かを伝える時に、論を組み立てる事なんてあまり考えていない。ただただ自分が感じた何かしらの生々しさを伝える事こそを重要視し、終始そのスタンスを崩さないのだ。


 こちらが理屈の方を向いているすぐ後ろで、あいつの言葉は刻々とその不安や恐怖やおぞましさを具体的なものにしていく。論理、常識、そんな類の固い鎧で身を守っているつもりの俺だが、気付けばいつも意味不明の説得力で取り囲まれ、文月が語る理屈の無い話をただ聞くままになっている。理屈で否定するつもりだったその話に、気付けば理屈を見出そうとまでしている。

 文月は今まで繰り返してきた自分の妄想を、真にただの妄想として記憶しているに過ぎないだろう。果たして俺も同じだろうか。感覚で捉えた違和感は時と共に風化するが、理屈は別の理屈で解体しない限りはずっと残り続けるのではないか。

 文月という入り口を通して、俺の中に細かい奇妙が溜まり続けている。俺が見ている世界はちゃんと昔と同じだろうか。

 笑うしかない。

 笑わなければ、笑い話にならないじゃないか。


 程なくして家に上がりこんできた救急隊員達は、俺の容態を確認後、すぐに俺を運んでいった。意識がハッキリしているのがわかった時点で撤収してしまうんじゃないかとも予想していたが、念のために検査はするらしい。

 文月は家の中からガラス戸越しに俺を見送った。その手にガッチリと捕えられた猫は、俺を鋭く睨みつけていた。

 さっきも体当たりしてきたこの猫、よっぽど俺の事が嫌いなのだろうか。俺は何もしていないのに。




 ◇◇◇◇◇◇




「それにしても、結局ドッペルゲンガーというものの正体が何であるかは不明瞭ですよね。」


「不可解な現象にとりあえずの名前を付けただけだからな。

 胡散臭い色を強調するなら、本体から抜け出た魂の一部だという説を採るといい。

 その一部が意思を持ち、別個の存在になったという事だな。」


「その別個の存在が、何故本体を殺そうとするのでしょうか。」


「いや、対面の結果で本体が死んでしまうのはドッペルゲンガーの大きな特徴だが、

 俺はドッペルゲンガー自身が意図的に本体を殺そうとしている訳では無いんじゃないかと思う。

 なんとなくだけどな。」


「ではドッペルゲンガーは優しいとして、

 それが本体と顔を合わせた時に何が起こるのでしょう。

 何が原因で死に至るのでしょうか。」


「元々一つだったぐらいだから、引き合わされて一つに戻ってしまうのだろうな。

 それでキャパシティを超えてしまうのさ。

 元は何者でも無かった魂の一部が、別個の経験を経て別個の人格を肥大させていく、それがドッペルゲンガー。

 一人の人間が二人分の人生を受け入れる事なんてできない、という事だよ。」


「なるほど。

 では、それでもしキャパシティを越えずに死ななかった場合はどうなるのでしょうね。」


「二人分の過去を持つ人間になる。

 ドッペルゲンガーが経験した知識や記憶が手に入るんだ。」


「なるほど。」


「仮にドッペルゲンガーが死にかけで崩壊寸前だったとしたら、

 それを全て取り込む事もできるんだろう、なんてね。」


「面白いですね。」


「そうかな?

 ドッペルゲンガーが味わってきた気持ち、本体にとって愉快なものだと良いのだがね。」


「いえ、そこも含めて面白い空想話だなと」


「そうだな。」




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 あとがき


 6年くらい前に描いた短編小説です。本当はもっと長く書こうと思っていたものですが、オリジナル小説なんて誰も見ないだろ!と思って短編になりました。

(なので最後の意味ありげな会話も意味ありげなままおわりです)


 現在は『学校のデッドリー怪談』という小説を書き溜めているので、ある程度溜まったらカクヨムに投稿していきたいです。よろしければ今のうちに執筆者のガッkoyaをフォローしていただければ嬉しいです。


【追記】

学校のデッドリー怪談、投稿されました

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