内と外
ノブに手を掛けて回してみた。ガチャガチャと引っ掛かるだけで回らない。
我が家のトイレのドアは、ノブの中心にあるボタンを押すと鍵が閉まるタイプであり、ノブが動かなくなる事で開閉を防ぐ。よって、ノブの不具合で引っ掛かっているのか、中から鍵が掛けられているのか、手応えだけでは判別し辛い。
「鍵が掛けられてるんじゃない、きっとノブの調子が悪いだけだ。前だってそうだったんだ、今回もそうさ。ドッペルゲンガーの出番なんて無いよ。」
「に、兄様……やめてください……。」
弱々しい制止が、逆に文月の揺れる心を知らせてくれる。ここでやめる理由は無い。
「文月、ここで開ければ全部解決するとは思わないか。一応、鍵を差し込んでみようか。故障のメカニズムなんて解らないからな、もしかしたらそれで開くかもしれない。」
ドア横に吊るされた絵を額縁ごと下ろして裏を向けると、セロハンテープで貼りつけられた鍵が見える。そうそう使われない鍵だから、無くして面倒な事にならないようにと分かりやすいところに置かれている訳だ。無用心過ぎて気持ち悪いとも思っていたが、なるほどこういう状況を体験してみると、確かに便利だな。
テープを引き剥がし、べたつく鍵に構いもせずに鍵穴に挿し込んだ。
そして手首をひねろうとした所で、後ろから俺の両脇の下を何かがすっと通りすぎる。
「兄様、やめて!」
「えっ」
そのまま文月に羽交い絞めにされ、両腕の自由を奪われた。
「痛い痛い! ちょっと待て! なんか変なふうに極まってる! 痛い、待って待って!」
「兄様こそ待ってください! 兄様が待ってくれたら待ちます!」
単なる拘束にとどまらず、余分な力をぐいぐい加えてくる文月。頑張れば頑張るほど抜けにくくなるという理屈だろうが、その努力の大半は単に俺の苦痛へと変わる。
「うぐあ、何でこんなに思い切り良く拘束できるんだよ! ちょっと勢いを削いだと思って油断した、ちくしょう! ていうか痛い、加減しろ! いたたたたた!!」
「加減したら抜けるじゃないですか! 男の人は力が強いですから!」
「加減を知らない女の子の方が怖いよ! わかった、待つから! 話せば分かる、ひとまず放せ!」
こちらが譲歩の姿勢を見せると、文月はそのままの体勢で力を緩めた。その隙をついて無理矢理腕を解こうかとも考えたが、その拍子に文月を突き飛ばしてしまうと危ないし、俺への誠意を踏みにじるような真似はやはり気が引けた。
「妹にガッチリ羽交い締めされてるなんて、他人に見られたくないな……。なあ文月、君が今までしてきた話、何の具体的な超常現象も起こってないって気付いてるか?」
「全部『勘違い』で済ませられると言うのでしょう? でも、そんなのは実際に超常現象が起こったとしても同じ事です。たとえ兄様を同時に二人見たと言っても、きっとあなたは夢でも見たのだろうと信じてくれないですから。」
「痛い所を付くな。」
確かにドッペルゲンガーなんて地味な怪物、露骨な痕跡は残してくれないだろう。建物を破壊する訳でも魔術を使う訳でもないのに、他人にその存在を信じさせるのは難しい。そいつが起こす唯一の超常現象は、俺自身は絶対に確認する事ができないものだしな。
「私としても歯痒いです……今日まで恐怖を感じた事ならいくらでもあったのに、それは結局私だけのものでしか無いなんて。」
途方に暮れた様子で俺の背中に額をくっつける。
考えてみれば、彼女は誰にも理解されないまま一人で超現象に立ち向かうしか無いのだな。俺の腕を軽く締め付ける似合わない実力行使から、心中の無力感が見えるような気がした。冷たい正論を投げるのも躊躇われ、そのまま黙ってしまう。
「そういえば……トイレといえば、全国模試より以前にこんな事もありました。兄様がやけにこそこそとトイレや部屋を往復しているのを見かけたのですが、後で兄様に聞いてみても『そんな事は無かった』と言われたのです。思えば、それをきっかけに私は異変を感じ始めたのかもしれません。」
「ん?」
何かに思い当たる。
まさかとは思うが、どうしてもそこに関してだけは嫌に身に覚えがある。
なんだそれは、単にそれだけの話だというのか。今からそれを妹に全部説明しなければならないのか。なんだか凄く気が進まないのだが。
「まあいいや、それがこの事態を招く一因になってるなら心苦しいから言おう。あんまりこんな事を馬鹿正直に告白したくはないが。」
「え?」
ちなみにここで面と向かって話そうとしないのは、単に拘束されて振り向けないからである。
「俺の自室には鍵が無いじゃないか、だからベッドの下に隠すような類の本をそこで広げるのははばかられるだろう。そうなると、安全な別の場所に持って行って読む訳で……。だから、そういう事について言及されてもそれは誤魔化すよ、な?」
「えっ! いや、それは……!」
動揺したのか、俺を羽交い締める腕に力がこもり、再度痛い。
「あの……。」
二の句を継げられない様子の文月。
先程自分で言った内容と俺の話を照らし合わせているのか、ぼそぼそと何事かを呟いている。
長く続いた不毛な夜の一幕にようやく終わりの兆しが見えた気がした。なんだか俺の心臓はやけにべたつき乾いているが、とにかくこれで全てが丸く収まるのだろう。
「いや、でも……。でも、そういうのとは違います! そういう時の兄様は結構態度でわかるものなんです! そういうのとは違うんです!」
「おい。」
気のせいだった。何の成果もあげない俺の恥ずかしい告白こそが不毛だった。
「いや、待て、ちょっと待て! どういう事だよ、態度で全部わかるとは! いくら君の勘が鋭いからって、それは流石に適当言ってるだろう!」
「兄様が待ってくださいよ! 今、そんな話はしてなかったでしょう! そうじゃなくて……!」
恥を忍んで正直に言ったのに、そんな簡単に突っぱねられてはどんな顔をすればいいのか。荒唐無稽な事を言っているのはあちらなのに、なんだか俺の方が場違いな事を言ってしまったような気まずさ。
拘束を解くとかのためではなく、ある意味照れ隠し、暴れるために暴れるように俺は両腕を無意味にバタバタさせる。
妹がそれをやけに乱暴に抑えようとする理由も、その気持ちと似たようなものかもしれなかった。
そこに、そんな茶番に近いノリとは一線を画する鋭い物音が響いた。
突如すぐ近くに発生した爆音に、俺と文月は身をすくめる。
衝撃の余韻による、場の硬直。何が音を立てたのか解らなかったのは、その数秒間だけだった。
先程、俺がトイレのドアを叩いた時の音と同じだ。
「兄様……。」
質問するように、あるいは確認するように俺に呼びかける文月。
「俺の腕も足も、はずみでドアに当たったりはしていない。」
自分で口に出した単なる無機質な事実が、そのまま心臓に引っ掛かって取れなくなった。首筋にあたる吐息をさっきより冷たく感じるのは気のせいか。
文月は俺に身を寄せるように腕の力を強めた。妙にハッキリとした鼓動が俺の背中を打つ。
「内側から……?」
この夜の初心を思い出してしまうような小声だった。
文月が今どんな顔で呟いたのか、どんな感情が胸の中に蓄積されていっているのか、背中に伝わる微妙な所作を通じて手に取るようにわかる。だが一方、今はそれが文月の感情なのか俺の感情なのか、その区別は曖昧だった。
震えているのは誰なのか。震えているのは俺なのか。中にいるのは誰なのか。
文月の意識は既に俺を拘束する事には向いてない。
俺は刺さったままの鍵に手を伸ばし、それを回していた。『ガチャ』と鍵が解除された音を聞いて妹が我に返る。「兄様!?」と声を上げた瞬間には、俺はもうノブに手を掛けている。
その瞬間、自分が何を考えていたのかはわからない。ドッペルゲンガーなんて信じていなかったのかどうかもよくわからなかった。向こうにいる何者かの魔力に引き寄せられて何も考えられなくなっていたのか。それとも、俺の脳みそが意外に怠惰で思考放棄をしていただけか。
ともかく俺はノブを回した。
妹の制止は間に合っていない。
ドアは押し開けられた。
赤い。
まず、開けて真っ先にトイレの赤い壁紙が目に飛び込む。視界が一気に赤く染まり、次元の壁を飛び越えたような錯覚に目がくらむ。壁が血の色と同じである事に不吉を感じたのは、これが初めてだった。
その次、家の床のタイルがそういえば青かった事を思い出す。青い正方形が隙間なくビッシリと足元を埋め尽くし、見つめていると気が遠くなり。今この瞬間はその鮮やかな青が、空でも海でもなく死人の顔色に思えた。
その上に、閉じた洋式便器が鎮座している。ぽつりと佇む白。赤に囲まれて生えた白。青の真ん中に咲いた白。
とにかく白いが、白いだけ。やはりそれを清浄な存在と感じるような事は無い。
それで終わり。ドアの向こうはただのトイレだった。
「……あれ?」
「兄様……これは……。」
いない。
いや、いないはずはない。ついさっき、内側からドアが叩かれたのだ。それが何よりの証拠で、中には確かに何かがいるはずなのに。
いや、違うのか。
それならば逆も言える。そもそもトイレ用擬音装置が反応しておらず、それが証拠で中に誰もいないと言ったのは俺自身だ。中に誰かがいたのなら、前に立つ人間を熱センサーで感知するあれがどうして動かないのか。
あるいは装置より姿勢を低くしていればセンサーには引っ掛からないのかもしれないが、いずれにせよ地べたに体を伏せた怪人物などは見当たらない。ちなみに装置が故障している訳ではない、今まさに俺を迎え入れて音を出している。
『いないはず』と『いるはず』が内包されたトイレを開けてみれば、『誰もいない』。こうして中が空っぽである事実を目の当たりにしても、その矛盾の理由がわからなかった。喉が痛い。
「ごほっ」
ねばつく唾液が絡んだ咳の音。
俺の咳だ。急に咳が出た。
「兄様?」
目に違和感を覚える。奥の方から角膜の表面をじわじわと這い上がってくるむず痒さ。思わず、空いている方の手で目をこする。
痒い。
こすってこすって、それでも痒い。
視界がぼやける。
こすってこすって、それが何にもならなくて、それなのに俺はこすらざるを得ないままで。
「兄様!」
体がおかしい。
体調がおかしい。
異変がある。
どんどんどんどん異変が生じる。
指が涙まみれ。
俺は泣いている。
咳は止まらない。
これは これは
「兄様、ドアを閉めて!」
文月は気付いた。とっくに羽交い締めは解いている。
間抜けな俺も遅れて気付いた。
ドアの裏、反対側からぐいぐいと押してくる何かがいる。
それの正体を俺は身体全体で理解した。
絶対にそれに触れてはいけない、触れてはいけなかったからこんな事になっている。
眼部の違和感は、既に違和感と呼ぶには明確に過ぎ、自分が喉から搾り出すべき叫びが「痒い」で正しいのかがわからない。痒みというのは、人の目玉を縦横に掘り進む線虫の名前だっただろうか。
両手でそのおぞましい痒み畜生共を残らずこすり潰したい衝動を抑え、俺は自身の全ての気力を込めてノブを掴んだ。一生、二度と、金輪際関わり合いになってはならない。断絶の意思を叩きつけるような勢いでドアを閉めるのだ。
俺はノブを力の限り握り締め、そのまま引っ張ろうとした。
引っ張ろうとして
「ごほっ、ごほっぉ」
咳で体が折れた。
その刹那
それはドアの裏から顔を出した。
目が合う。
じっとじっとこちらを覗き込むように見ている。
目が逸らせない。奴も逸らさない。
視線の交錯を通して流れ込んでくる何かが、俺の体をどんどん重くしていく。
文月が俺の代わりにドアを閉めようと手を伸ばした。
そして、その手をやすやすとすり抜け、そいつは扉が閉まるより先に俺に跳びかかる
以上、それで詰みだ。
妹の耳打ちからドアの中身に直面するまで、紆余曲折の思考と選択を経て、俺は結局はここに至ってしまったのだ。
「フニャアー!」
イラッとする鳴き声を上げて俺の胸にドンと飛び込んできた、その毛むくじゃら。
猫である。
空気中に盛大に拡散される細かい悪夢が見えた気がした。
そうなんだ。俺は重度の猫アレルギーなんだ。
そんな事、忘れて過ごしていたかったのに。絶望感と諦めが頭の中を隅々まで支配する。
俺の人生、この世で最も無慈悲な生き物が猫だった。
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