おひなさまになりたい!

六理

おひなさまになりたい!

 おひなさまは、ひとりではなれない。


 それはのどかな月曜日の昼過ぎのことだった。


「ぼくをおひめさまにしてください!」


「断る」


 ガシャン。

 玄関のドアを開けたときよりも素早く閉めた。

 外からは尚も「あけてください、おねがいします!」と言う切羽詰まった声とドアを手で叩く音がする。

 やめてくれ。平日の静かな住宅街とはいえ誰が見てるかわからないんだから。

 これで相手がスーツ姿のおじさんだとか宗教勧誘のおばさんだったら放っておくのだが。ドアスコープから音をたてないようにして向こうを覗けば、頭のてっぺんしか見えない。あ、つむじかわいい。左巻きと右巻きの二つあるだと。あいつと一緒だな。

 黙って見ていれば相手の声も次第に元気なものから涙声へと変わっていく。


「おねがいじます、なんでも、なんでもいうことぎぎまずがらぁあ!」


 本格的にご近所から私のほうが悪者に聞こえるようになってやしないか。

 でもなあ。ここで開けると妙なことに巻き込まれそうでいやなんだよね。

 そうあれこれ考えていたらポケットに入れていた携帯が鳴った。メールのお知らせを手にとって眺め、ため息を吐いてから玄関のドアを改めて開ける。


「ごめんごめん、突っ走って行っちゃってさー」


 開けた先で、さっきまではいなかった大きな影が小さな影を抱き上げている。

 色々と言いたいことはあったが、これ以上人の目のつくところで騒がれるのはいやだったので家に上がってもらうことにした。


 三月三日は女の子の日である。別名は雛祭り。

 上巳の節句にひな人形を飾り、白酒や菱餅、桃の花などを供えて女児の幸せを祈る行事だ。

 イベント好きな幼稚園や保育園でもよくやるもので、自分も小さいころは折り紙だとかでそれっぽいものを作った記憶がある。そして園庭の隅にあったモミの木にぶら下げた。

 この目の前の野郎と一緒に。


「おばさんは?」


「平日だっつの。仕事だよ」


 先週の土曜日は高校の卒業式。在校生として出席したので日曜日を挟んでの月曜日は振替休日となった。連休万歳とか思ったけど土曜日潰れてないならいつもと同じじゃないか。

 まあせっかくの平日休暇だ、のんびりだらだらとベッドの上で狩猟と略奪のゲームに勤しんでいたのに邪魔された。

 邪魔した張本人である小さな影は、いまは熱いココアにふうふうと息を吹きかけて冷まそうとしている。う、かわいいじゃないかおい。鼻血出そう。

 目はくりくりで髪はふわふわ、しかも動作が小動物じみている。あー私も欲しかったな、あんなワガママな姉じゃなくて、ピク〇ンみたいにどこにもどこまでもついてきてくれるような可愛い妹弟してい


「そっか。小さい頃の服を貸してくれないかなーって思って」


「なんでまた」


 小さい影の横に座る、やたら大きな影――まんまこの子が成長したらこうなるだろうな、という顔立ちの男は困ったように首をかく。


「お下がりあげるにも、その子は男の子でしょうが」


 確かに、この子が着れるほどの大きさの服はまだ家にある。着道楽である姉によって昔から服という服は家にあり、気に入った服は着れなくなっても捨てないポリシーで部屋ひとつが服部屋になるほど。正直バカじゃねーのと思う。

 しかしだ、こいつの年の離れた弟は――弟だよね、妹ではなかったはずだ。前に見たのは赤ちゃんの時だけだからわからなくなってくる。

 その証拠に昔通っていたあの幼稚園と同じ色のスモッグは水色。桃色ではなく男の子の色。


「それなんだけどすえ――あ、末弘すえひろ挨拶しなさい。こっちはお兄ちゃんのお友達の咲々芽ささめちゃんだよ」


「はじめまして、すえひろです!」


 ご丁寧にどうも。あとお友達ってさりげなく言いやがったなこいつ。学校では会話という会話もしてないからね、あんたと私。

 まあね、目立つ容姿のやつと一緒にはいたくないからいいんだけどさ。


「男の子じゃん」


「男の子だけど、今日だけ女の子になりたいんだって。おひめさまにならないと参加できないって泣くんだよ、ひなまつり」


 可愛い可愛い末弘君には、仲の良いお友達がいる。名前はリカ(仮。個人情報保護法により本名はあかせません)ちゃん。ちょっとお転婆で気が強くて他の子よりも力が強くって女の子の取り巻きがすでにできていて園の男の子は手下として扱っているというリトル女王様なリカちゃん。

 そんなリカちゃんは本日お誕生日。お家で下僕という名のお友達を呼んで盛大なパーティーをするのだという。

 末弘君も、もちろん手土産とプレゼント(折り紙で花束。すごい器用)を持参で行こうとしていたらリカちゃんに園でこう言われたそうな。


『きょうはリカのひだけど、ひなまつりなの。だからおんなのこだけしかきちゃだめ。どうしてもきたかったらおひめさまみたいなかっこーできてね。すえひろにはむりだろうけど!』


 あはははは!


 取り巻きを連れたリカちゃんは高笑いをしながら去っていった。

 泣いた。すごい泣いた。しかしそこで末弘君は諦めなかった。

 振替休日で家にいたお兄ちゃんに泣きついたのである――


 そこまで聞いて、私は末弘君を抱きしめた。幼児特有の柔らかさに癒される。


「行かなくていい! そんなやつを祝わなくていいの!」


 なんだその横暴さ。姉を思い出したよ。ただしあの人は見かけは繊細そうに見せてたけどね。


 わたし、男の子に守られないと死んじゃうのぉ〜て感じに。


「あんた兄でしょ。そこで止めろよ」


 この子の将来を守るためにも。


「そうなんだけど、すっごいリカ(仮)ちゃんが好きらしくって聞かないんだよ。おひめさまになるーって」


 ささの家ならそれっぽいのあるかもね、と言ったら駆け出してしまったらしい。

 よくこの家がわかったな、と思ったら園の送迎バスで表札を見たことがあったそうな。小さい子って、こういうところがあなどれない。

 いまもこいつの家と私の家は近いといえば近いけど、昔は右隣でおばあさんたちと一緒に住んでいた。六年生の時におばあさんが亡くなって、親戚の人やらなにやらでゴタゴタがあって出ていってしまったのだ。

 それでも母たちはいまでも仲がいいのでなにかと情報は入ってくるけど。

 やれ征光ゆきみつ君は成績優秀だとか路上でモデルにスカウトされたのだとか県の代表で国体に出るのよとか。一応は同じ学校に通ってるんだから知ってるっつーの。

 ただ、昔みたいに会話しないだけ。知らない人の振りをするだけ。これは私が頼んだこと。征光はただそれを黙って従ってくれる。


 女の子は、こわいんだ。

 あんな姉が近くにいたから、尚のこと。


「そういえば、ささ。雛飾りは? いつもそこの和室にあったのに」


 今年は飾らないの?


 その問いに顔が強ばる。むしろそれを越えて般若になった。すぐそばにいた末弘君が可哀想に勢いよくびくついた。征光は気にしていなかった。茶請けのせんべいかじってやがる。変わらないなこいつ。


 あー思い出すと、腹立ってきた。

 征光に、ではなくあの姉に対して。


「……雛飾りはお姉ちゃんがぜーんぶ持っていっちゃった」


「あ、つぼみさん去年お嫁に行ったんだっけ。おめでとう――でもあれ? つぼみさんとは別にささもあったろ、五段のやつじゃなくて一段だけど立派なやつ」


「どっちも、だよ。みつなら知ってるでしょ、あの人の性格」


 誰かのものは、わたしのもの。わたしのものはわたしのもの。当然、妹のものもわたしのもの――


 四つ上の姉は、とにかく女王様だった。自分がいつだって一番で、まわりを振り回すだけ振り回す。

 父親方、母親方どちらのほうでも初孫だった姉はそれはもう、蝶よ花よと大事に大事に、そして持ち上げるに持ち上げて育てられた。

 実際、姉は美人ではあった。会う人会う人に「かわいい」ね「将来が楽しみだわ」と言われ続け。

 好き嫌いも爺婆に甘やかしで認められ、欲しいものも求めればすぐに与えられる環境で育った。

 その結果、顔はきれいだろうと幼稚園に入る時点で誰かを虐げることが大好き、という尊大な性格の生き物として成長。

 私が生まれた時にはとっくに修正不可能。むしろ妹が生まれたことで居場所を奪われたとさらに助長。

 私が個別に買ってもらった、特別に渡されたものはすぐに姉が私から取り上げる。それを誰かに咎められたら怒る、泣く、暴れる。手をつけられない。

 暗黙の了解で、姉の前では私になにかを渡さないことになるくらい。

 それでも誰かから何かを奪うのが好きな姉は、親の目やまわりの目をかいくぐっては私や誰かのものや人を奪っては飽きて捨てていく。

 しかし仮面を被るのも得意だった姉は、女の子には嫌われていたが、ある一定の男の子――姉好みな顔の良い男の子を常に侍らせていた。いわゆる逆ハーレム。


 わたしがかわいいから、妬んだみんながいじめるの。あなたは優しいから助けてくれるよね?


 その目は蛇口かというくらいに自由自在に涙を操る姉は男性相手を味方に悪名を振り撒きながらも青春を謳歌し、高校を出たあとは短大在学中にでどこぞの御曹司だか金持ちだとかの五つ年上の男性をつかまえて、卒業と同時に結婚した。

 お相手はそれはそれは姉を甘やかすのが好きな(もちろん美形で)優しそうな人だった。願わくばこのまま平穏に過ぎ去ってほしい。不倫して帰ってくるなんてことはないと信じている。

 そんなわけで、ようやく姉に奪われるような生活をしなくていいと思っていた矢先。

 一月の終わりにそろそろだなと物置部屋で私の雛飾りを探していた。

 姉のは初孫フィーバーの祖母たちがまさかの五段飾りを買ってしまい、組み立てが大変だが私のは一段だけの新王飾り。

 一段だがそこそこお高いものらしく、姉のものと比べても遜色ないものだとその手のが好きな征光があとでこっそりと教えてくれた。どうもこれは祖母たちの苦心によるものだと気づいたのはずいぶん大きくなってから。

 姉も一段だけのものより場所をとる、数も多い自分の雛飾りがご自慢だったようで、珍しく私の雛飾りには手を出してこなかった。


 いままでは。


『雛飾り? あ、一段だけのやつは顔合わせの時に飾ってあったのをお母様が「いいものをお持ちですね」って言うから』


 嫁入り道具に持っていっちゃった。


 けろりと電話の向こうの姉が言う。

 それがなんだというように。

 そうだった、こういう人だった。

 自分の持っているものより良いものだと知ったら、躊躇いなく奪っていく。


『それだけ? あんた、少しくらい女の子らしくしなさいよ。みつ君、あのままならいい男に育ちそうだったのに、あんたが無視するようになったから家にも来なくなって。あーあ、もったいない』


 ぶちり。

 言うだけ言って電話は切れた。


 二番目に大切にしていたものを、奪われた。


「向こうの方に目利きがいてね、褒められたからって自分のものとして持っていかれた」


「あー。見る人が見ればわかるからね、ああいうの」


 あの姉に、返してと言ったところで素直に返してくれるわけがない。下手に言えばゴミとして、破壊されて返って気さえする。いままでもそうだったので、親に言っても渋い顔をしていた。諦めてくれ、ごめんねって。


「おねえちゃん、おひなさまがないの?」


 震えて征光に抱きついていた末弘君は、眉間にシワを寄せて仁王立ちしていた私を見上げて聞いてきた。

 なんと答えていいのやら。

 そうあぐねていれば、肩掛けのポシェットを丸いひざに乗せて、色々と入っているらしい中身を探りはじめた。ほとんどが折り紙の完成品。そのうちのふたつを選ぶと私に差し出してくる。


「あげる!」


「え」


「ほんとうはリカちゃんにつくったけど、そんなのいらないっていわれたやつだからあげます!」


 正直者め。そこは言わなくていいんだよ。

 桃色の女雛らしきものと、空色の男雛らしきもの。懐かしいな。私も作ったおぼえはあるけど、どこかにいっちゃった。

 それにしても、はじめて会った(本当は乳児期に世話したけど)人にでも気遣えるこの子可愛い。むっちゃ可愛い。

 受け取りついでにまた抱きしめた。ふにふに。いいわーふにふに。


「ありがとう……! やだー、この子ほしい! あんなのよりこんな弟がほしかった! みつ、一日でいいからこの子を弟にちょうだい!」


「いいよ」


 いいんかい。

 ずり落ちたのと、玄関のチャイムが鳴ったのは同時だった。


 玄関前にはリカ(仮)ちゃんとリカちゃん(もう統一します)のお母さんが立っていた。

 髪の毛が巻いてる、巻いてるよ。コロネのように巻けている。しかも大きなリボン付き。しかも格好はフリッフリのお姫様。まさにお嬢様、一昔前のお嬢様。

 これは漫画では絶対にヒロインを追い詰める悪役ポジションだよ――と思っていたら、怯えたように私の後ろから出てきた末弘君を見つけると、ぼろぼろと涙を流して泣きはじめた。つられて末弘君も泣き出した。やめてー。間に挟むのやめてー。

 なにがなんだか、と征光と顔を合わせるとリカちゃんのお母さんが深く頭を下げてきた。


「末弘君のお家に行ったら、お母様にこちらにいるとお聞きして。迷惑だと思ったのですが娘がどうしてもと。凛夏りんか、末弘君に言うことがあるでしょう」


 我が子が泣いているのにリカちゃん、正式には凛夏ちゃんのお母さんは毅然とした態度を崩さない。

 泣いたまま、拭わずに凛夏ちゃんは末弘君の前まで来ると勢いよく頭を下げた。足を曲げて地面につくがごとく、というか土下座に近い。


「ごめんなさい!」


 やめてー。そこ、毎朝掃いてるけど汚いからやめてー。それにしても凛夏ちゃん、潔すぎる。聞いていた話だともっとこう、気位が高すぎる高飛車な子だと思ってたよ。


「あのあと、かえるまえにうそだよっていおうって、おもってたら、すえひろ、なきながらかえっちゃって」


 ごめんなさい!

 まるで入れすぎた浴槽から流れ落ちる水のごとくに泣く凛夏ちゃんに対し、末弘君はポケットから取り出したハンカチを自分の涙を拭うのではなく差し出した。


「いいよ! だからリカちゃんなかないでいいよ!」


「ほんと?」


「リカちゃん、わらってるほうがぼくはすき」


 だから、いいの。


 ひとりが笑えば、つられてもうひとりも笑った。


 凛夏ちゃんのお母さんと二人の幼児は玄関で騒いだことを謝ってからお誕生日のパーティーへ手をつないで出ていった。出ていったというのはおかしいか。もとある場所に戻ったというほうが正しい。

 理不尽なところが姉と似ていると、情報だけをもらった時は思ったが凛夏ちゃんはそういえば女の子の友達もいるんだっけ。女王様よりはガキ大将、いざというときは頼れるジ〇イアンのような格好よさを感じる子だった。


「みつは行かないの?」


 つーか帰れよ。

 玄関で見送って、リビングまで戻ってきたら客のひとりもまたついてきた。やたらと背の高くなった幼馴染が。

 用事はなくなったのだからはやく帰ればいいのに。

 しかし相手は勝手知ったる家と電気ケトルからお湯を注いで茶をいれはじめた。居座る気かおまえ。

 昔はこんなもんだった。学校がおわったら適当にランドセルを部屋に放りこんでどちらかの家で漫画本読み漁ったりゲームをしたり。

 私の家でやることが多かったけど。征光の家には寝たきりのおばあさんがいたし、親戚の人が絡んできてからはピリピリした空気で行きにくかった。

 中学に上がってから、家も変わってからもしばらくは続いていたが。


「もういいよね」


 熱いココアを冷めるまで待っていたら、テーブル越しの征光が折り紙の雛をいじりながらそう言った。


「なにが」


 どうしようかな、あれ。画ビョウで壁に飾るにもせっかくの雛様に穴が空くからいやなんだよね。前はどうしてたっけ。

 最近の昼間は暖房を入れなくても過ごしやすいなあと明るい日差しの窓をだらけて見ていると、コツコツと机を叩かれてまた征光の手元を見る。視線の高さは合わないからこっちが楽なのだ。

 中学に上がってから、征光の背はとても伸びた。私と変わらないか、小さいかだったのに。子供から大人へと、一年足らずで変わっていった。

 声変わりして、顔立ちも大人びて、それでも中身はそう変わらないのに。


「約束」


 そこまで聞いて、ああと思い出した。

 約束というよりは、一方的なお願い。


 あの日、家の前で征光を追い返した時に出た言葉。とっさに出たものは、それでも私の本心で。征光もそれを感じて身を引いた。話さなくなった。知らない他人みたいに。


 お願いだから話しかけてこないで。

 この家にはもう来ないで。

 お姉ちゃんの前では、みんなの前では私を無視して。


 お願いだから、やめて。

 私から大事なものをこれ以上は奪わないで。


 大きくなった征光は、姉のお眼鏡にかなったらしい。特に、私の仲の良い友達だということが彼女にとっては最高のスパイスだった。大切なものを奪うことが姉にとっては何よりも快感だった。

 これ見よがしに征光を誘惑をはじめた姉に、私は離れるという手しか取れなかった。こわかった。いやだった。奪われることに慣れていたのにそれだけはいやだった。


「あれは別に、約束ってわけじゃなくて」


 奪われるくらいなら、手を離そうとしただけだ。

 喪失感はあれど、そこに悲哀はない。距離はあっても、それは私が決めたこと。姉に奪われたことじゃない。

 姉が結婚して、どれだけほっとしたか。日常的に気を張りつめて生きていたのだとようやく気づけた。


「あれは私のわがまま。つきあってくれてありがと」


 でも、あれはある種の転換期だった。いつまでも異性の友達が一番ではまわりがなにかとうるさい。特に征光は見目がよろしかったのもあって、姉以外の子にもなにかとひどい目に合わされた。靴を隠された時はどうしてやろうかと。見つけだしてきちんと復讐はしたけどね。


「いいじゃん、このままで。この距離が私とみつはちょうどいい」


 なくさず、わからず、それでも見えないわけじゃない。知らないわけじゃない。近づかないだけ。

 手は届かなくても、横にいなくても。それでいい。

 そこまで言うと、冷めたココアを口に運んだ。猫舌なのでぬるいくらいがちょうどいい。


「いやだ」


 吹き出すかと思った。

 幸い、火傷するほどの熱さはないので口に手を当てるだけですんだが。


「え、いやだって……あんたね」


 いつも「いいよ」か「わかった」ぐらいのふわっとした返事しかしないくせにどうしたことか。離れた数年は長かったのか。

 あの日だってしばらく黙ったあと、私の頭をくしゃりと撫でて「ごめん」と別れたくせに。


「あの時は、ああするしかなかった。ささは追いつめられていて、あれ以外の返答をしたら、壊れそうだった」


 なにが、とは言わない。珍しく硬質な雰囲気をまとった征光は机に無造作に置かれた私の手を掴んだ。冷たい。前からそうだった。女の私よりも冷え性で、それでも私より大きな手だった。


「それでも、いまでも隣にいたかった。助けてあげたかった。遅いって言われても仕方がないけど」


 ぎゅう、と掴まれた手からなにかが逆流してくるようで。見上げた目と目がぶつかってそらせなくなった。

 こいつ、こんな顔、してたっけ。

 どくどくと鼓動が高鳴って、何を言えばいいかわからなくなる。


 だから――


「ささ、僕のおひなさまになって」


「……は?」


 いま、なんつった?


「おひなさま? おひめさまじゃなくて、おひなさま?」


 どうしていま、それが出た。おひなさまになるってなに。期待とか不安とか、ごちゃまぜになったものが吹き飛んだ。


「ささ、前に言ってたろ。大きくなったら、おひめさまじゃなくておひなさまになりたい! って」


「え、そんなこと言ったっけ」


 いつ言ったよ。中学生は違うだろうし小学生の時かな。

 視線が徐々に下へと向く。そして目に入ったのは手作りの折り紙雛。

 幼稚園に通っていた頃に、私も作ったことがある――そこまで連想して思い出した。勢いよく頭が落ちて机に激突した。

 征光が心配しているがそんなことはどうでもいい。言っていた。私、言っていた。


『ささね、おひめさまじゃなくておひなさまになりたい!』


『どうして?』


『おねえちゃんみたいに、いっぱいはいらないから』


 幼稚園で、折り紙で雛様を折ったあと。教室の壁に張るのとは別に作っていた大きめの雛に紐をつけてモミの木の前まできていた。征光は親鳥のあとをついてくる雛鳥のように当然のようについてきた。


『おひめさまは、げぼくがたくさんひつようだけど、ささはひとりでいいの』


 そうしてモミの木の枝に引っかけた。おそらく、クリスマスと七夕が頭の中でごっちゃになっていた。

 飾れば、願い事が叶うのだと思っていた。


『じゃあぼくもする!』


 二人して、モミの木に雛を飾った。桃色の女雛と空色の男雛。

 飾った雛は、雨が降るまでそのまま飾られていた。たしか園長先生が写真に撮ってくれたはず。仲良しね、お似合いねって。


「きゃああああなんてこと思い出させんのよバカ!」


「写真、家にあるよ」


「きゃああああ!」


 顔が赤くなる。ああやだやだ。小さい頃はむき出しの好意を向けていた。


『ささがおひなさまだから、みつはね』


 その横にいつもいる男の雛になってね。

 ずっと一緒にいてね。約束だよ。


 そんなもの、年月が経てば忘れてしまうものだろう。実際、私も言われるまで忘れていた。

 しかし征光は頭がいいから、きっと私よりおぼえている。


 知っている。わかっている。

 その時の私の気持ちと、いまの私。


「ねえ、ささ」


 僕のおひなさまになってよ。

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おひなさまになりたい! 六理 @mutushiki_rio

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