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佑佳

close to you and you

 枝依市南区──某所、古い家屋かおく



 まるで長屋を割っていくつかに分け、個々の家にしたかのようなその家屋。

 玄関の引き戸は、木枠に紋様もんよう入りのすりガラスをめ込ませた古い造り。ガラガラとやかましいそれを開け放ち、上がった先の床は真夏でも冷たく、誰が歩いても必ず軋む。家主がかかとをダンダンと踏み鳴らす癖のせいで、過去に台所付近の床には穴が開いてしまったこともあった。

 『リビング』などと呼べる洒落た場所ではない『居間』のコタツテーブルに、二対一で対面に座る。薄っぺらの座布団はあってもなくても変わらなかったが、出さないよりはマシだろうと、一枚敷いたそこへ彼を座らせた。

「初めまして、柳田やなぎだ良二りょうじと申します。私立探偵をやってます」

「探偵さん? へぇ」

 そうして長い黒髪を掻き上げた対面の五〇代半ばの女性は、暗めの赤で色付けた口元を意地悪そうに歪めた。じろじろと良二を上から下まで観察する。

「初めまして。母のゆかりです」

 お見知りおきを、と瞼を伏せるゆかり。骨ばった頬の陰が濃くなる。

「でぇ? 話って何かしら。この子が何か、その……ねぇ?」

 含みのある言い方で、話の主導権を良二へ渡したゆかり

 普段どおりの眠たそうな半開きの目をわずかに持ち上げた良二は、しかし普段よりはるかにハッキリと言葉を発する。

「今日伺いましたのは、ご挨拶を兼ねたご報告事項があるためです」

「挨拶と、報告?」

「はい。私がご息女と公私を共にしている事実について、ご認知いただきたく」

「やな……」

「へぇえ」

 ひゅ、と隣の彼女が息を呑んだのは、『あの』良二から『私という一人称』や『ご息女』などという言葉が『流れるように』出てきたがため。まるで使い馴れたような言葉と発言に、緊張感が増す。

「なぁんだ、そうなの。あー、心配して損したっ。よかったわねぇー、若菜わかな

 そうして妖しく笑んだゆかりは、コタツテーブルにゆったりと頬杖をついた。彼女の一人娘、服部はっとり若菜へと顔を向け薄く口を開く。

「母さん安心したわぁ。突然『人と会ってほしい』だなんて連絡寄越すから、借金作っただのの話だったらどうしようかと思ってた」

 口を小さく結んだまま、瞼を陰らせる若菜。

「あなた、高校の卒業式に行くって家を出たきり、全然音沙汰ないんだもの。今だってどこに住んでるとか知らないし……ていうかそもそも、屋根の下で暮らせてるの?」

 無言を徹す良二は、ピリと目頭を狭める。

「まぁ借金だのなんだの作られても、実家ここにはなぁんにも無いしィ。そもそもあんたも、私なんかは今更頼らないでしょうしねぇ」

 不敵にそうして笑う母を、若菜は直視せず目を伏せていた。


 母親の冷やかなこの声色を、若菜は昔から毛嫌いしていた。喉元が痒い。まるでアレルギー反応だ。


「服部さん」

 ゆかりの作ったその空気を割くように、良二が紫へ声を向ける。

「ご挨拶はこれまでにしてよろしいですか」

「あぁそうね、はいはい。話をしに、わざわざ来てくれたのにねぇ?」

 嘲笑ちょうしょうめいた相槌をするゆかりを、良二は柄になく黙ってやり過ごす。素の自らを腹の底でこらえているわけだが、若菜にとってはとてつもなく危なっかしく映る。

「では次に、ご報告を」

 固唾を呑んで、良二の言葉に神経を研ぎ澄ます若菜。呼吸はどんどん浅くなる。

「ご息女とは近年、公私を共にし生活しています。仕事面では、主に私のサポートを至極丁寧にこなします。私の求める完璧に、より近く、たまに追い抜く」

 不意に明らかとなった、良二からの評価。目を見開き、左隣を見上げた若菜。

「一方で私生活ですが──」

 ゆかりから一度だけ目を伏せる良二。そっと若菜の膝の辺りを盗み見て、フッと短く深呼吸。

「──そちらでの方が、私にとって欠かせない存在であると断言しますね」

「…………」

「へぇえ、そうなの! ふぅーん?!」

 ワントーン明るい声色のゆかり。言おうと準備していた言葉を待たせ、ゆかりの言葉を待つ良二。

「随分と仰々しく、若菜を称えてくださるのね。えーと、その……」

「柳田です」

「そうそう、柳田さん」

 ゆかりの目の前に置かれたままになっている、良二の名刺。ゆかりはようやく一瞥して、妖しく色付けた唇を持ち上げた。

「あのね。私は母親として、若菜を産み落とすことくらいしかやってないようなものですから、今更若菜を縛るようなマネはしませんわ。ご安心なさって。それに──」

 溜め息混じりに目を伏せ、コタツテーブルの下からよれたタバコの箱を取り出すゆかり

「──私にとってはどうでもいいことだわ、こんなこと、最初から」

 酷く冷たい疎外感を感じた若菜。娘である若菜を目の前にしているにも関わらず、まるで置き物のように発言する母親の言葉が、酷く毒気を帯びて胸の奥まで細く鋭利に刺さる。

 タバコを一本を引き抜き、咥えようと唇へフィルターを寄せるゆかり

「だからね、『娘さんをください』だとか、そういうことなら私は全然ぜぇんぜん構わないですよ柳田さん」

「そんな『くだらない』こと言いませんよ」

 ピタ、とその手が止まる。

「なに?」

「初めに言いましたとおり、認知していただくために伺いましたから。私はそういう一般的な『感動カンドー系の芝居オアソビ』をやりにきたわけではありません」

 眉を寄せたゆかりは、じっと良二の「くだらない」だとか「オアソビ」だと言った真意を待つ。良二は顔色を変えずに続ける。

「ご息女は『物』ではありませんから、もともと誰かの所有物ではないのでその言葉は相応しくない。繰り返しますが、私は認知していただくために伺っています」

「じゃ、何を認知したらいいわけ」

「『今後無期限に、ご息女と私が公私を共にするという事実を』です」

「…………」

 タバコを持つ手を、そっと卓上に下ろす。良二を真っ直ぐに向き直り、「あのね」とゆかりが低く発したが。

「確かに」

 ピシャリと、いつもの低い声色で遮った良二。わずかばかり、いつものように眉が寄る。

「ご息女は金銭にがめつく、あらゆることに欲深いです。性格的に、起こす行動はとても無鉄砲……後先考えずに突撃していって玉砕し続ける。だから数年前に初めて出逢ったときは、ホームレス状態の無一文でしたよ。呆れ返る身の振り方だなというのが、私がいだいたご息女に対しての第一印象です」

「ちょ、やな──」「しかしですね」

 若菜の声すらも聴こえないとばかりに遮り、一呼吸おいて良二は続ける。

「育った環境を考えてみれば、そうやってしか生きていけなかったんだろうと、会話を重ねていくなかで理解できたわけです」

 「育った環境」という単語に、ゆかりは左眉を持ち上げた。

「服部さんの薄い母親の役割や、これまでのご息女との関わり方に苦言するつもりはありませんし、そんなことを言いに来たわけではありません。むしろ、私は『そういう』育ち方をしたご息女だったからこそ、今の今まで関われてきたわけで」

「は?」

 言葉の意味がわからなかったゆかりは、苦渋を露呈させいぶかしむ。

「幼い頃、親を二人ともセスナ機の事故で亡くしました。ですから私も、両親の姿を見たり、両親からあらゆることを学んで育ったわけではありません。それが関係しているかは不明瞭ですが、周囲からは頻繁に『ひねくれている』、と言われます」

 良二の眠たそうな瞼が一度だけゆっくりと閉じられる。

 揶揄さからかわれていること、ちゃんとわかってたんだ──若菜はそっと良二の横顔を盗み見た。

「そんな私とご息女は、人間関係的な面での距離の取り方が似ていると感じています。それは私にとって大変過ごしやすく、……まぁ衝突することは少なくありませんけど、そうしてぶつかれども『わかってみたい』と思える相手には、正直初めて出逢いました」

 若菜は、淡々と平坦にそう話す良二の言葉に胸が詰まった。

 どうやら良二は、酷く緊張しているらしい。目がいつもよりもハッキリと開いているのは、極度の緊張からだとわかる。冷静に話をするために、きちんとした丁寧な言葉を選んで話をしているのだと、若菜はコタツテーブルの下で、強く自らの手を握り合わせた。


 良二の話言葉は、抑揚が日頃からあるわけではない。その上、日常会話はツンケンと刺を纏った『ぶっきらぼうの化身そのもの』とも言える。

 そんな良二が、こうして自らの素直な気持ちをつっかえもせずに話す姿に、言い表しがたい気持ちが込み上げ、若菜を満たしていく。愛の言葉を直接囁かれるよりも、ずっと深く、色濃く。


「あーでもないこーでもないと互いにぎゃーぎゃーやっているうちに、ご息女とそうする毎日が拠り所になりました。ご息女も、なんだかんだと言いながらも私のもとから去らずにいる。あまつさえ、私と居ることが楽しいだとか言い出す」

 ゆかりは、頬杖をついている左腕へ寄りかかる。

「この人生でかけられたことのない言葉を、ご息女だけが私にかけてくるんですよ」

「…………」

「そうするうちに、ご息女だけが私の傍に居られる稀な人間なんだとわかりました。先も言ったように、私は私的な拠り所が無かったわけですから、ご息女を、私的な面でも手を離したくなくなったんです」

 若菜は瞼を伏せ、手元をぼんやりと眺めた。


 「もう、一人になりたくない」──いつか、そう言って不安気に白銀色の瞳本当のまなざしを向けてきたっけ。


「信頼を得たのね、若菜の」

「さあ? 私は目に見えないものに関しては全くわかりませんので答えかねます」

 スン、と真顔で返す良二に耐えきれず、ゆかりはついに若菜へ問う。

「……なんなのこの人」

「言わんとすることはわかるけど、こういう人だから気にしないで」

「はぁん? すんごく変な人ね」

「服部さんほどではありません」

「……あんた、喧嘩しに来たわけ?」

「いえ、ご挨拶とご報告のためです」

「…………」

 長い溜め息を挟み、ゆかりはタバコを箱へと戻した。

「まぁ、なんにせよ。私が若菜を放っておきすぎたからよね。若菜が普通の価値観だとか判断力がついてないのは、全部私のせいよ」

 右顔を良二へ向け、隙無く言葉を続けるゆかり

「朝は午前中が終わる頃になるまでここには戻らない。夜は同伴と称して四時半くらいから家を空けたわ。全く家庭を省みない、母親とは思えないようなことばかりをしていたもの。若菜が金の使い方だったり、人との関わりが上手くいかなくなっても当然ね」

 嘲笑めいた首振りをして、ゆかりはハァと身軽な溜め息をついた。

「別に、若菜のことが嫌いだったからとか興味なかったからじゃないの。私はね、母親であるよりも『一人の人間おんな』であることを優先したの」

 初めて知る、母親の本音だった。若菜は表情を変えずに母を見つめ続ける。

「そんな私じゃ、『若菜を育てた』なんて言えやしないもの」

 横目で「ねぇ?」と若菜むすめを見やるはは

「…………」

 その真っ直ぐに母を見つめる若菜の視線は、とても冷たいものだった。良二と出逢った頃──柳田探偵事務所をバンと開け放ったあの時の若菜から時折放たれていたような、「何かに」冷めているまなざし。

 良二は二秒だけその若菜を横目に焼き付け、再びゆかりへ口開く。

「ともあれ。私からのご挨拶とご報告は以上です。ご息女は当分の間、私の傍に居りますので、なにかございましたらそちらの名刺までご連絡を。まぁ連絡を入れるなど、可能性は限りなく低そうですが」

 かくん、と頭を下げた良二。赤茶けた柔らかな頭髪をふやふやと揺らしながら再び顔を上げると、酷似したゆかりと若菜の眼の雰囲気に目を見張った。

「……では」

「待っ、柳田さんちょっと」

 立ち上がりかけた良二を強引に引き戻し、若菜は今一度母を向き直る。

「母さん」

 いつ振りに呼んだであろう、その呼び名。永く蓋をしていた何かの感情がガタガタと揺れるのを、若菜は感じ取る。

「あの日……一七になってすぐのあの日。私にサーカス団の観覧チケットくれて、ありがとう」

「サーカス、団?」

 身に覚えのないゆかり。このことは、彼女にとっては記憶の彼方なほどの些細な事象。

「あのチケットが無かったら、私は柳田さんに逢えてない。あのチケットを母さんがお客から貰って帰ってこなかったら、今の私でいられてなかった」

 しかし若菜にとっては、人生の流れをひっくり返したほどの、転機機会チャンスのチケットだった。

 背筋を伸ばし、娘という名の子どもを脱する若菜。

「恩はないけど、言葉はある。私に苦難も幸福もくれてありがとう」

 良二よりも丁寧に、若菜は母へそっと頭を下げた。

 自らの過去やしがらみを、そうすることで静かに手放した。無意識なる手放しは、若菜をははよりも大人に変える。

「若菜」

 沈黙を低く破る、ゆかり。頭を上げた若菜は、眉を寄せて不安を醸す。

「今更私があなたに何を言えることもないけど、最後だと思って聞いてって」

 しまったはずのタバコを箱から引き抜き、咥え、ゆかりは簡素なライターを寄せる。

「全部、あなたはあなたの好きになさい。好き勝手に、気ままに、やりたいように」

 簡素なライターはオイル量も少なく、なかなか着火しない。カチカチとむなしく、火付け石を鳴らす。

「あなたが信じた道だけを生きなさいな。今までのように、これからも」

 ボフ、とようやく着火して、先端があかくなる。いくつか吸われて、低く脆そうな天井へ白い煙が細く吐かれていく。

「あなたが幸せなら、それでいいわ」

 薄く笑んだははの顔が、若菜の最後の錆びた鎖をパキンと切り解いた。



        ♧



「柳田さんって、ちゃんとした日本語話せたんですね」

 服部の実家を出て一〇歩もしないうちに、若菜はいつもの調子で投げかけた。

「テメェな、俺様をなんだ思ってんだ」

「いや、その。日本語苦手な人だと」

 良二はガチガチに固まっていた肩や首をグルングルン回し、ほぐそうと努めるも上手くいかず。

 タタ、と数歩、良二の先を行った若菜。

「だから嬉しかったです。柳田さんが丁寧に言葉を選んで、母に話をしてくれたのが」

 振り返って、離れたところから良二を眺めて。

「誠実、っていうの? 柳田さんとは無縁だと思ってましたけど、そういう気持ちで向き合ってくれてたってことが、スゴくこう、嬉しかったんです」

 曖昧に、いびつに、若菜らしくほにゃりと笑んだ顔が、良二から照れを引き出す。「チッ」とかすかな舌打ちをして、視線をよそへやり、三歩若菜と距離を詰めた。

「なぁ」

「はい」

「みょ」

「みょ?」

「や、その。だ、だァら、だな」

「なんですか?」

「名字を、だな、変える気は、あるか」

「みょ……は?」

「変えようが変えまいが、なんも変わんねぇと思ってたから、今までなんにも言わなかったが、その、あれだ」

 首の後ろへ左手をやる良二。

「お、お前を私的に、その、傍に置いとくって、認知されたからにはだな。そーゆーの、あの、必要かもしんねーってだな」

「…………」

 ポカンの若菜へ、ダンとかかとを地にひと打ち。

「だー、まどろっこしい! だから『言葉』っつぅのは嫌いなんだよ」

 真っ赤の良二は更に二歩距離を詰め、グンと若菜を見下ろした。

「籍、入れるか」

「せっ?! せっ、せ、せっせ」

「おい『せ』で止めるな言葉考えろ」

「だあっ、だって! だっ、それっ、てその、あの」

「や、だか、その。はぁ、は、服部は、やめてだな、おおァお前もその、やなっ、柳田になるかって、訊いてんだよ」

 真っ赤のぐんにゃりの沸騰脳ミソ。

「み、みんな柳田になっちゃったじゃないですか!」

「ブッ!」

 まさかの良二の噴き笑いに、目を真ん丸にした若菜。残念ながらその顔面は見られなかったものの、良二を笑わせたことでえもいわれぬ充足感を得られた。

「ふ、ふふっ。くへへへへ」

「な、なんだその笑い方」

「あははっ! いいんですっ、これが私の笑い方なんです」

 ごく自然に、良二の左腕をさらう若菜。

 年甲斐もなくどぎまぎする良二のそれ引き、ウェッジソールパンプスの爪先まで伸ばしてようやく届いた痩けた頬へ、若菜は自らの薄い唇を寄せた。


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